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レーニンのブルジョワ国家廃絶論における、ロシアの歴史的経緯およびトロツキーの影響➀

レーニンの国家論の形成

 レーニンの国家論および階級闘争論の形成において、重要なテーゼを占めているのは、第一次世界大戦(以降はWW1と呼称するよ)において資本主義社会が、帝国主義段階としての矛盾を現したことを総括した「帝国主義論」と、ロシア2月革命の後に、ロシアにおいて始まった革命の様相において、資本主義社会そのものの問題として闘い、これを指導する党の役割を明確とするためのアジテーションとして出された「4月テーゼ」および、それに連なる形で、より国家論と階級闘争論を明確とした「国家と革命」の3つだと考えるよ。ロシアボリシェヴィキの理論形成の過程においては、それ以前でも行われてた修正主義論争の影響ももちろんあるけど、今回は、ロシア革命および、ロシアの歴史的経緯が理論に与えた影響をより明確にするために、この3つの間の過程に重点を置くこととするよ

トロツキーの永続革命論と、複合発展の法則の影響

 後に複合発展の法則と呼ばれる、その土地における資本主義化の過程の差異を明確にして、その歴史的経緯を革命の様相として問題にするための理論は、レーニンの国家論および階級闘争論に大きな影響を与えているよ。なぜなら、ロシアはヨーロッパではあったものの、他の西洋諸国…特にイギリスやフランスのように初期にブルジョワ革命(絶対王政が、市民社会の構成員である小ブルジョワジーと農民を中心とした人たちによって打倒されて、封建的な特権者である大土地所有者を基礎とした支配の形態を変革したもの)を経験した国家…とは、歴史的経緯において大きな差異を有していたから、西洋のような市民社会の構成とは違った形の支配形態であったからだよ。まずはじめに、ロシアにおいてはかつて存在した農奴制という封建的な支配形態を基礎としながら、当時のロシアの統治者であった皇帝(ツァーリ)は、その農奴制においてお互いに大土地所有者同士であった他の貴族との対立の融和を、西洋のブルジョワ資本を上から(封建的特権者と結びついた人たち)導入しながら行うことで統治をしていたよ。そのため、かつてのフランス革命において、革命の中心を担った小ブルジョワジーや商工業者が育たないまま資本主義化が進んで、プロレタリアートが組織されていったよ。このことは、ロシアボリシェヴィキがWW1以前より理論の中心としていた二段階革命論を、現実のものとして考えるのは、社会の構成を考えると困難であったよ。二段階革命論とは、マルクスの資本主義社会のこれからの予測として提示された、「高度に資本主義が発展することで、巨大に組織されたプロレタリア階級によって革命が起こる」というテーゼと、唯物史観における「封建制が革命によって倒されることで、ブルジョワジーの市民による資本主義社会が生まれ、これも革命によって倒されることで、共産社会へと移行する」というテーゼのもとに考えられた革命論だよ。つまり、ロシアにおいては資本主義社会において打倒されているはずの封建的な制度を基礎とした上で、資本主義社会となっているため、まずはこの封建制を打倒する市民革命をおこない、その上で組織化されたプロレタリア階級によって、共産主義革命を行なうというものだよ。そして、これが困難なのは、先程も提示した通り、歴史的経緯として先に市民革命を経験した国家とは、階級の構成も、プロレタリアートの組織のされ方も異なるため、単純に同じ経緯を辿ることは困難であるから。これを明白に示したのが、トロツキーの永続革命論だよ。トロツキーの主張では、先程も示したように、ロシアでは小ブルジョワジーや商工業者が十分に育っていない状態で、封建的特権者と結びついた人たちによって、ブルジョワ階級が形成されていたから、フランス革命のように小ブルジョワジーと農民の同盟による、封建的な制度を基礎とするツァーリの打倒は、社会の構成上不可能であることを主張したよ。そのため、農民は支配体制そのものである上からのブルジョワ階級に従属するか、上からのブルジョワ階級によって組織された新しい階級であるプロレタリアート階級に従属することしかできないと主張したよ。もちろん、トロツキーはツァーリの打倒と、プロレタリアートによるブルジョワジーの打倒を掲げるマルクス主義者であったから、必然的に革命においては後者の選択を、農民やプロレタリア階級に呼びかけることになるよ。これは、レーニンの二段階革命論とは対立した考えであったので、当初彼らはお互いに論敵として対立していたよ。しかし、後にレーニンは、帝国主義下におけるロシアの経済状況の分析や、ロシアで発生した革命の波の中で生れた現実の運動を目の当たりにすることで、トロツキーと同じ境地に立つことになるよ。

ロシア革命の趨勢と、レーニンの「4月テーゼ」および「国家と革命」

 WW1の勃発に伴い、第一次ロシア革命とも称される、日露戦争による国内の疲弊に端を発したツァーリズムと、資本主義の矛盾はこの大戦での大敗と、国内のさらなる疲弊によって最大限に達したよ。そこで、ロシアでは2月革命が勃発し、ツァーリの権力を絶対とするツァーリズムは打倒されて、臨時政府が発足したよ。しかし、この臨時政府の基礎とするところは国内の大ブルジョワの連合であって、自由主義者によって立憲制のもと新しい皇帝を擁立する案がでていたり、民衆が求めていた即時停戦については消極的であったりと、既に大きな矛盾を抱えたよ。そして、この革命の進展にあたって、既にロシアではソヴィエトという労働者の自主的なコミューンが各地にできており、労働者による民主主義が生まれつつあったよ。この状況をみたレーニンは、4月テーゼを発表することで、この労働者によるソヴィエトに対して、即時停戦と臨時政府の大ブルジョワジーや自由主義者に対する闘争のために、このソヴィエトを労働者権力として束ねて民兵として組織することによって、臨時政府打倒こそが労働者権力の目指すべきところであるというのを、党の内外や、労働者たちに呼びかけたよ。これは、後の「国家と革命」においての労働者による独裁…プロレタリア独裁の必要性をとなえる論理にも繋がるよ。なぜなら、それまでとなえていた二段階革命論による形式的なブルジョワ革命の勃発では、現時点においては、大ブルジョワの連合に対して従属するプロレタリアートを組織することにしかならず、もう既にソヴィエトという形で労働者権力の民主的な誕生を現実としてみたレーニンは、民主主義革命にあたるブルジョワ革命はもう既に飛び越していて、この労働者権力による独裁によって、大ブルジョワの連合である臨時政府を打倒するための、労働者権力にとって、ブルジョワに対して独裁的な権力をえるための革命の段階へと移行したという認識に至ったからだよ。これによって、先述した通り、レーニンはトロツキーとおなじ境地に立つこととなり、両者は政治革命における方法論として同じものを共有することになるよ。

 結びに

今回は、私の個人的な学業の締切の都合上あまり時間をかけることができなかったから、今回はレーニンが国家論を形成するまでの過程についてまで取り扱ったよ。次回からは、「国家と革命」と「帝国主義論」を基軸として、「永続革命論」における世界革命論とそのための民族解放の論理を参照としながら、よりイデオロギー的な様相について記述していく予定だよ。




 

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