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思い出と記憶と虚像と真実。

私の中で、一番古い記憶といえば保育園の頃。お散歩で近くの公園へ歩いたり、園長先生と似ているサンタさんが来ていたり、好きな子2人にバレンタインデーの日チョコを渡せず、先生に協力してもらったり、下駄箱で一人母を待つ間、無音とは耳が痛くなることだと知ったり。当時見た夢だって覚えていて、その中でとある先生に意地悪されたからと現実でもその先生が苦手になったり。全く変なことばかり覚えている。そんな古い記憶の中でも、一番忘れられない言葉がある。それは、父からの言葉だ。

「お父さんとお母さん、どちらと一緒に住みたい?」

思い返せば、保育園児という幼子にその質問は酷ではなかろうか。事実、私は今でも忘れない。父の言葉、胸の苦しみ、鼻の奥の痛さ。子どもながらに察した、『もう、どちらかとは一緒に暮らせない』ということ。

そのときの思考だっていまだに覚えている。なんでそんなことを聞くのか、私はどちらとも一緒に暮らしたい。それじゃダメなのか。全部聞きたくて、全部聞けなくて、涙をこらえて、こらえる顔を見せたくなくて、父に抱き着いた。見えないところで、涙がこぼれて、苦しかった。

多分、きっと、父と母の関係に綻びが出てきていることを、私は察してたのだと思う。珍しく3人で買い物に行ったとき、私を真ん中にして両親と手をつないだ私は、両親の手を繋がせようと2人の手を近づけて、繋ぐように促した。2人は繋がなかった。何で繋がないんだろう、なんて、それが疑問の始まりで。どちらと一緒に住みたいか聞かれてから、そこまで月日は経ってなかったと思う。離婚が決まった。

最後に父を送り出した朝も覚えている。私はその時初めて、母が父にキスをしたところを見たのだ。いつもとは違う朝だった。ヒューヒュー!なんて囃し立てて、笑った。なんだ、仲良しじゃん。そう思った。嬉しかった。それから、父は帰ってこなかった。しばらくは帰ってくると信じていた。何日も、何週間も、何か月も。父が帰ってくるものだと、ずっと信じていた。

そのうち、住んでいた家を引っ越して、苗字を新たに小学校生活が始まった。

離婚、という言葉を知らない。知らないが、知っていた。どちらかと一緒には暮らせなくなること。苗字が変わること。そして、意外にも周りにはそういう子どもが多いこと。

担任の先生からみんなへ告げられた、苗字の変更。好奇心旺盛な小学1年生は、無邪気に聞いてくる。なんで苗字変わったの?と。知らないながらに知っていた、リコンしたんだよ、と返す。リコンってなあに?わからない。ただ、分かることは、帰ってくるべき家族が帰ってこなくなることだった。

幼いから忘れる、なんてのは大間違いで、人それぞれ記憶のされ方は違えど衝撃の強さや、記憶力なんかで変わるものだと思うし、現にこうして未だに幼い記憶を保ったまま私は生き続けている。当時の傷も一緒に。それが重くて、たまに肩の荷を下ろしたくなる。吐き出したくなる。誰かに話を聞いてほしくなる。記憶を紐解くとき、いつだって最初に出てくるのは衝撃の強い記憶ばかりだ。

ただ、数年後私は父と再会を果たすし、今だって連絡を取り合うし、会いにだっていく仲だし、母もそれを知っている。父と母も、会いはしないが時々電話をする仲だ。独特で、絶妙な距離感を保っているし、そうなったのは私の存在があるからだと自負している。

私は、母のことが大好きだ。父のことも大好きだ。2人のことが大好きで、そして尊敬している。母のような愛情深い人になりたいし、父のように穏やかに堅実な人でありたいと思う。でも、それでも。

私は2人のようにはなりたくない。

そしてそれがきっと、私が出来うるひとつの親孝行だと思っている。


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