いい加減に消えてほしい表現についての覚書

子供のころ、言語学者を名乗る人がテレビに出て「これは本当は間違った表現なんですよ〜」と言いながらニヤニヤドヤドヤしていたのを見て、漠然とした嫌悪感を覚えたような記憶がある。おそらく、そのときの嫌悪感というのは「よく使われる表現は変わっていくのだから正しいもクソもない」という見方に関連しているのだろう。もちろん、そこで「若者の言葉の乱れがけしからん」と説教していた人のニヤニヤが気持ち悪いというのが直接的な理由だったかもしれない。

そうは言っても、私にも「キモいからマジやめろ」と思う表現がないわけではない。それらが「間違った表現だ」と言うためには文法や語法の規範性についての踏み込んだ議論が必要になるので、そこまでは今回はやらない。以下のものは、私がいい加減に消えてほしいと思う表現のリストだ。


体言止め

体言止めについては、見出しと列挙を例外として擁護の余地がないと私は思う。地の文で体言止めを使っていいのは詩だけだ。地の文で体言止めが大量に使われている文章は、得てして内容も雰囲気に頼っていて理解不能だ。そういうのがポエムと呼ばれるのは実にぴったりだ。最近では、理解不能な文章がポエムと呼ばれることについて、詩に詳しい人や教養のある人が疑問を呈している。けれども、詩をまさに雰囲気に頼った理解不能な文章として理解している私には、「ポエム」という悪口の何が悪いのかがわからない。悔しかったら、なんとなくの雰囲気に頼らず理解可能なしかたで詩を説明するべきだ。

見出しに近い用法として、ある話題を導入するときにまず長大な修飾節をともなった体言止め文を置くというものがある。念頭に置いているのは

クソみたいなネットニュースの文章でしばしば見られる体言止め。私はこれが非常に嫌いだ。

というものだ。こんなのは

クソみたいなネットニュースの文章では、しばしば体言止めが見られる。私はこれが非常に嫌いだ。

でいいじゃないか。余韻で共感を得ようとしてるんじゃねーよ。

助詞止め

終助詞による助詞止めについては、基本的には文句を言うつもりはない。私が嫌いなのは、ある論文で「新幹線要約」と呼ばれているものを典型例として、いわゆる「てにをは」で文を終えるものだ。つまり

クソみたいなネットニュースの文章には、しばしば体言止めが。

ひどい表現は学術論文にも。

雰囲気に頼るのではなくクリアな文章を。

のようなものを念頭に置いている。広告のキャッチコピーにはこういうのが溢れている(ただし、あれは事実上の詩のようなものかもしれない。そうだとすれば文章のクリアさなんかどうでもいい領域だということになるので、体言止めでも助詞止めでも何でもやればいい)。テレビ番組でも、字幕であれ人が話す言葉であれ多用されている。こういう表現にばかり触れているとまともな文章が書けなくなるのでは。やめたほうがいいかと。本当にそうなるかどうかについて実証的な研究があれば。ほらこうやって助詞止めを続けるとうざいかと。この段落の後半みたいな文章を平気で書いている人は反省したほうがいいのでは。

開いて書けばいいものをわざわざ漢字で書くこと

「『ない』をなんでも『無い』と書か無いでほしい」という秀逸な記事がある。「存在しない」を意味する独立した形容詞としての「ない」とは異なり動詞を補助するだけの「ない」は開いて書くのが原則だというのを、どこかで聞いたことがある。ただし、私は前者でさえ開いたほうがいい状況が圧倒的に多いと思っている。とりわけ、存在しないということを強調するために漢字にしているだけの「無い」、つまり

見出しでも列挙でもないところで体言止めを使うメリットは無い。

というような場合の「無い」は、開くべきだ。漢字で書くことによって強調ができるという考えが理解できない。強調したければ、日本語文であれば下線や傍点を使うのが通常だし、そういう装飾ができなければ構文をいじるとか強調語を使うとかすればいい(強調のために約物を使う人がいるが、下で触れるように、それについても私はアンチを張っている)。

「ない」以外にも不必要に漢字で書かれがちな語が幾つか有って、上方に表示を実施した記事の下部の方に存在するリンク先で紹介されて居る。此れは未検証なのだが、実際よりも頭を良く見せ様と奮闘仕て居る人々には「事」を漢字で書きたがる人が可成り居る。「事」を漢字で書いた方が良い状況なんて、熟語以外で無いと思う。この段落を読んで違和感がない人は反省してほしい。

強調のための鉤括弧

どうやら世の中には鉤括弧を強調のために使う人がいるらしい。まずそのことが信じられない。たとえば

見出しでも列挙でもないところで体言止めを使うメリットは「ない」。

という表現に違和感のない人が少なくないそうだ。上のアレと悪魔合体させると

見出しでも列挙でもないところで体言止めを使うメリットは「無い」。

という、いかにもツイッターやnoteで量産されそうな文章ができあがる。

普通の鉤括弧以外のものについても、まれではあるが、強調のために使われることがある。隅付き括弧(【】←これ)は、傍点や下線のような装飾ができないときに強調のために使われる約物の代表格ではないだろうか。白状すると私もそういう使い方をしたことが何度もある。本当に恥ずかしい。

そうやって約物を強調用途で使ってきたくせに人の悪口を続けるなら、山括弧(〈〉←これ)は基本的にすべて不格好だ。山括弧が使われる状況には大きく分けて二つある。第一は、フランス哲学の和訳本にありがちな、日常語を括ることで「これはテクニカルタームなんだよ、うちら特有のすんごい含蓄を込めてるんだよ」と示すための標識としての用法だ。第二は、修飾節が長すぎて切れ目がわからないときの助けとするような用法だ。そういう機能を約物にまかせると文章が約物だらけになって気持ち悪いとか思わないんだろうか。

似た約物の混同――全角山括弧、不等号、ギュメ

とはいえ、山括弧を山括弧として使っている分にはマシで、山括弧のつもりで全角不等号(<>←これ)を使っている文章の多さには本当にイライラさせられる。日本語文で全角不等号を括弧として使うと、括弧で括られた部分の前後に隙間がまったくないので、見栄えがかなり悪い。その見栄えの悪さで「この約物の使いかたは本当に正しいんだろうか」と疑問に思ってほしいところだ。

一度、ギュメ(«» ←これ)を使うべきところで二重山括弧を使っている文献を見たことがあり、かなり驚いた。その文献はさらにひどく、ドイツ語文献の引用のためにつまりフランス語とは逆の向きでギュメ(を意図した二重山括弧)が使われていたことから、二重山括弧と括弧内のものとの隙間がかなり空いていた。そういうのを見たら「何かがおかしい」と気づくべきだ。

約物その他

まず、欧文を書くときに、通常であればスペースを置くところには約物があってもスペースを置け。コンマやピリオドはスペースの代わりにならない。

次に、欧文引用符は左と右で形が違う場合がほとんどなので、きちんと確認しろ。日本語文の中に引用符つき欧文がたまに出てくるような文章では、しばしば引用符がすべて右引用符になっている。これは、直前の日本語文とのあいだにスペースを入れないことによって右引用符と判定されているためだと思われる。私は、2バイト文字と1バイト文字の境目には一般にスペースを入れたほうがよいと思っているのだが、左引用符を手打ちで適切に入れられる自信がない人はとりわけスペースを入れたほうがいいと思われる。

「〜方」

「Xする方法」を意味する「X法」を「X方」と書く人がそれなりにいる。やめろ。

「〜を鑑みて」

「〜を考えて」との混同だろう。てにをはで迷うような人は、「鑑みる」なんていう言葉は身の丈に合わないので使わなきゃいい。

「あえて」

理由を明示しろ。明示できる理由もないくせに思慮深い人ぶんな。

「みんな」

反例が一人でもいれば偽になる。正直に「多くの人」と言え。

「楽しむ」

楽しくないと感じていても楽しいと感じているかのようにふるまうとか、楽しいと感じられるように努力するとか、そういうのは「楽しい」の対極にある態度だと私は思う。「楽しむ」がそういう含みをもって使われる以上、私は「楽しむ」を自分自身の使用禁止用語に入れている。

「答えがない」

「この問題には答えがない」という表現は、いろいろな意味で使われる。ざっと挙げるだけでも

(1)答えが定義できるのかできないのかがわかっていない。
(2)答えが定義できないとわかっている。
(3)答えが定義できるとわかっているのだが、その答えが人によって異なるのか異ならないのかがわかっていない。
(4)答えが定義できかつ人によって異ならないとわかっているのだが、その答えが何かがまだわかっていない。
(5)答えが定義できかつ人によって異なるとわかっている。
(6)「巻末解答集」という意味での「答え」が付されていない。

というのが考えられる。世の人々は、「この問題には答えがない」を言うときどうせ深く考えていないので、上にあるもののうちどういう意味がどういう場面で意図されているのかを考えても仕方ない。もっとも、何をしたらその問題に答えたことになるのかの段階で難問があるような問題に取り組むという経験は限られた研究者にしかないだろうから、世の人々が「この問題には答えがない」というときに念頭に置かれているのは「みんな違ってみんないい」程度のことなんだろう。実際には、話題になっている問題が「みんな違ってみんないい」で処理していいものかどうかという問題が当然生じるわけだが、そういう問題に興味をもつ人は少ないし、むしろそういう問題に興味をもたないことがこの社会では「大人」とされるようだ。

「一般の方」「社会人」「実業」

有名人が非有名人を指して「一般の方」と言うのが、私はかなり気に食わない。自分たちは特別だってか? こういう表現は、芸能やスポーツだけが専門性をもっておりそれ以外の技術は特筆に値しないというような考えにもとづいた表現ではないだろうか。

同じように、会社勤めの人々が自らを指して「社会人」と表現するのは、それ以外の人々は社会の(真の)構成員ではないという含みがあるので、私は非常に嫌いだ。実態に合わせて「会社人」とでも言えばいい。また、「社会人」と対比された「学生」という表現には強く反対したい。とりわけ博士課程学生については、あれが初期研究職だということを世の人々はさっさと理解するべきだ(もしかすると、学術研究という仕事がこの世にあるということの理解から始めるべき人々がかなりいるかもしれない)。

「実業」という表現は、たしか「虚業」と対比されて使われる言葉だったはずだが、いつの間にか「社会人」とだいたい同じ使われ方をするようになったような気がする。「実業団」って要するに企業ってことでしょ。何か自分たちこそが中身のあることをしているんだというような驕りが含みとして感じられて、私はこういう言葉がかなり嫌いだ。「社会人」にせよ「実業」にせよ、「理論より実践だ」とか「現実を見ろ」とか軽々しく言っちゃう人々が好んで使う言葉だというイメージが私にはあり、自分のものの見方こそが正しいのだということを根拠なしに前提しているところに私は強い違和感と反感を覚える。

とはいえ、私はそういう「実業」に勤しむ「社会人」を指して「世の人々」という言葉を(侮蔑的な含みを前面に出して)使う。芸能人やスポーツ選手がいう「一般の方」や企業労働者がいう非「社会人」とだいたい同じだ。私が「世の人々」にあたる人々を心からバカにしているかどうかはともかくとして、「一般の方」や「社会人」といった語によって日々バカにされる側が意趣返しとして相手をバカにすることは許されるはずだ。念のため強調しておくと、私がバカにしているのは、企業労働者それ自体ではなく、二言目には実践だ現実だといいながら自分(たち)の見方の適切性を前提するような人々だ。個人レベルでみれば、そのような愚かさのない企業労働者は当然いる。

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