『<子ども>のための哲学』を読んで

こんばんは。

永井均さんの『<子ども>のための哲学』を読みました。


どうして私はRei(自分のフルネーム)なのだろう。
他の誰かでも良かったはずなのに。
この自分を通してしか世界を見ることができない。
大きい方の自分(性格、性質、外見などではない方の自分)がいなかったら、世界は存在しないのかな。


自己嫌悪の塊のようになって、自分以外の何者かになりたいと思っていた期間が前にあった。
でも外見、性格、嗜好、声、人間関係、とりまく環境なにもかも変わっても、肝心の魂の性質(無私の私)が変わらなかったら…?


私はこのReiという自分ではなく、他の誰かだったかもしれない、と考えるだけでなんだか気持ちが楽になる。
何もできていない自分を責める気にはならない。



池田晶子さんの『14歳からの哲学』という本をきっかけに哲学に関心を持つようになりました。
2年生からは、昨年授業でお世話になった先生の影響で哲学対話に参加するようになって、更に哲学を身近に感じています。



水中に沈みがちな人にとっての哲学は水面にはいあがるための唯一の方法。
現実の世の中の基準からみれば、ひとめぐりして、はじめてふつうのひとと同じ水準に達することができるだけ

『<子ども>のための哲学』のこの部分を読んで、「あ、そうなのか」と軽く衝撃を受けました。
自分でも気づかないうちに、多くの同年代の人(友達)よりも高尚なことをしているような、優越感に似た気持ちがあった気がします。
自分は豊かに生きるための知恵をたくさん知っている、みたいな(笑)



実際考えていることを人と話すと「そんなこと考えてるのすごい」「知的だね」「さすが」というような目で見られている感じがして、ますます「現実の私」と「他者が思う私」の溝は深まるばかり。


自分の哲学ほどわかりやすいものはない。
なぜって、世の中で通用しているふつうの考え方がわからないから、自分に理解できる考え方でそれをおぎなおうとしたとき、そこに生まれるのが哲学なのだから。


そうだよね。いたってシンプル。
小学5年生の時、まだ「哲学」という言葉を知らない頃に、「どうして生きてるんだろう」「何のために生きているのだろう」と突然思って、そこからゆっくりとゆっくりと思考の旅が始まった気がする。


生きることは当たり前のように為されていて、人は毎日起きて食べて寝て、学校に行ったり仕事に行ったりして生活をするけれど、毎日毎日なぜ同じようなことをしているのだろう、と多分漠然と思っていた。



考えること、目に見えない内面世界に思考を巡らせる行為は高尚に見えがちだ。
1年でノートを10冊書いた自分をどこか誇らしく感じていた。
やろうと思ってやったわけではなかった。
書かなければ、何がしたいのか、どう生きればいいのか、自分が誰なのかを見失っていた。
書かなければ自分を保つことができなかった。
だからとにかく書いていた。
今こうしてnoteを書いているのもそうだ。



世の中で通用している考えで納得ができて、特に引っかかることがなく、時々落ち込んでも基本的に水面上で楽しく生きられるのならそれでなんの問題もない。
わざわざ水面下に行こうとも思わないだろう。
私がしているのは水面上に行くために、おぎなう工程なんだな。
初めから辿り着いている人と同じところに行く唯一の手段が哲学なのか~と。



「私は真面目で偉いのでは?」と少し勘違いしていたことが恥ずかしい。
最初から水面上に浮くことができたら、こんなには病んでいなかったと思う。
けれども、水面下にいない私は哲学カフェのあの楽しさや読書の喜びを知らないだろう。
だから私はこの性質で良かったと思う。


もしも私がReiではない他の誰かだったら、私はHSS型HSPという、人から理解されにくい性質との付き合い方に苦しむことがなかったかもしれない。
と思うと同時に、そんなことを言い始めたらきりがないと気付くのだけれど。


文章を書くことが好きという自分の強みも手放すことになるかもしれないし。
そして、他者にもその人以外には決して分からない苦しみの1つや2つはあるはずだから。



哲学や考える行為が単に自分を救うためのものであり、高尚かそうでないかは私にとってあまり重要ではなくなった。
このことは大きなことだ。
「人にすごいって思われたい」という他者目線ありきな行動をしていた私にとって、考えることを個性も独自性も無しに「無私の私」としてできるのはそれ自体が救いになりうる。


他者から向けられる期待(勝手に私が意識しているだけ)に応える自信がなくて先延ばしにしてきたすべてのこと(大学の授業、課題、サークルの仕事)も、これからは自分のためにやる。



アイデンティティは、「自分が思う私」「他者が思う私」「自己理想」の三角形でできていると授業で習った。
将来の可能性が大きいため、青年期はこの三角形が揺らぐという。
「他者が思う私」は私がどうにかできる領域ではない。
だから私は自分の行動と「自己理想」を少しずつ近づける日々を過ごしていきたい。


他者から私に向けられる思いや評価は潔く他者に委ねる。
変えられないものに執着しても何も生まれない。
すべての基礎となる「考える」行為。
それを自分に依るものとしてやっと落とし込むことができた。
誰かから「それは優れた考察だ」と言われなくても、褒められることがなくても、私は自分が納得できるところまで考え続けていきたい。



人を傷つけることはしない。
その中で言いたいことを言い、自分が本当にやりたいことをやる。
他の誰かではなく、私は今Reiとして存在している。
だからReiのために生きていきたい。
もっとReiの性質、嗜好を知って、水面に上がるまでの過程を思いっきり楽しみたいと思う。



そうして大きい方の自分(魂)がReiと一緒に成長できたら、それが私が生きる醍醐味だと言えるだろう。


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