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傑作ミステリー「九マイルは遠すぎる」ハリイ・ケメルマン著・ブックレビュー(令和6年2月23日『日高新報』掲載)

「九マイルは遠すぎる。まして雨の中ならなおさらだ」。
そういって安楽椅子探偵は座ったまま事件を解決した。
ふつう、人はどれくらいかかるのかと訊かれると、
 「十マイルくらいかな、とか、二時間ぐらいかかるのかな」とか答えるものだ。九マイルというのは実際に本人が歩いたに違いない。しかも、これから向かうのではなく、こちらに向かって歩いて来たから正確に距離が分かったのだというのである。しかも、雨の中である。歩く理由もまたある。電車もバスもない。つまり、終電が終わって始発もまだ出ていない。深夜一時から五時のあいだなら歩くしか方法がなかったのだ。
 日本の競馬に「マイルチャンピオンシップ」というG1レースがある。1マイルのスピードを競うレースである。1マイルは1600メートル。その距離を争うレースなのだ。それでいうと九マイルはかなり遠いということになる。メートル換算にして14、400メートルなのである。しかも、雨の中を歩くのである。それが安楽椅子探偵の疑問となった。
 場所はニューヨーク郊外の小さな町フェアーフィールド。ここは本当に小さな町だ。というのもわたしはこの町に行ったことがあるのである。実は娘がこの町の大学に留学していたことがある。わたしは娘の生活が心配で数年前に会いに行っていたのだ。
 ニューヨーク中央駅でラウンドチケット(往復切符)を買って鈍行列車で会いに行った。特急列車は止まらない。ニューヨークからは二時間半ほどで着く町だ。都会の喧騒を外れた緑に囲まれた小さな町。終点まで乗るとボストンに着く路線である。
 フェラーフィールドの駅に着くとタクシーは一台だけしか止まっていた。タクシーに乗り込みフェアーフィールド大学まで行ってくれと運転手に言うと、どうしてだと尋ねてきた。
 「娘が留学しているんだ。様子を見に日本からやってきた」
 「それはそれはご苦労なことだ。俺も一人娘がいるが、男の子と違って女の子は大変だな。親は心配ばかりだ。日本からだとどれくらいかかるんだ?」
 「ニューヨークまで13時間かな」
 「まいったね。そんなに日本って遠いんだ」
 そういって運転手は目を丸くしていた。
 降りるとき、楽しく会話できたのでメーターの金額より少し多めにチップを含めて渡した。すると、
 「これは、貰いすぎだよお客さん。チップ多すぎる。チップ半分返すから」
 そう言って半分返してきた。なんとも人のいい運転手であった。そんなのどかな町に殺人事件が起こった。

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