「モノを売る」以上の充足感を得ていた【音声と文章】
山田ゆり
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※文章と音声、どちらでも楽しめます。
おはようございます。
山田ゆりです。
今回は
「モノを売る」以上の充足感を得ていた
をお伝えいたします。
私は高校を卒業してすぐに
東京に本社がある地元の店舗に入社した。
その会社に事務係として6年勤め
自分で仕入れて販売を経験してみたくなり
店長に直談判をし、後継者が育った1年後に
売り場異動していただいた。
私は販売できるのならどこでもいいと志願していて、
たまたま退職者がでたおもちゃ売り場に配属された。
1980年代、ファミコン全盛期の頃で
おもちゃ売り場はお店の花形だということを知ったのは入ってからだった。
そして、100店舗近いお店の中で
私の売り場が一番売れていて
「パイロット店」と呼ばれていた。
あの頃、1月1日は店休日。
初売りは1月2日。
おもちゃ売り場のその日一日の売り上げ目標は「一本」。
そしてそれはクリアしていた。
「一本」とは「1億円」。
婦人服、紳士服、服飾、化粧品、家電製品、日用品、寝具、ギフト、食品など
様々な売り場が地下1階から地上8階まである店舗の中で
初売りの一日の売上が
おもちゃ売り場で1億円だった。
その金額のほとんどは高単価なファミコン関係ではあったが
それでもその他の商品も売り上げにかなり貢献していた。
私は女児玩具を担当していた。
当時は、リカちゃんやジェニーちゃん、
3年2組のなかまたち、シルバニアファミリー、
こえだちゃん、はたおり、ミシン、綿あめの機械などが主流だった。
それらが売り場に平積みされていて
あっという間になくなっていった。
その補充のために関東方面の問屋さんが応援に来て下さり
バックルームからの品出しや接客をして下さっていた。
当時は、近隣に大きなおもちゃ屋さんがなかったこともあり、
クリスマス、年末年始、旧盆の時期のおもちゃ売り場はごった返していた。
時代はバブル全盛期だった。
売上もうなぎ登りだったが
迷子ちゃんも多かった。
20代の私は
2~3歳の迷子ちゃんを抱っこして
「ママ、もうすぐ来るからね。」って話しかけながら
売り場の中を歩き回っていた。
抱っこする時は
自分の心臓のところにその子の耳が当たるようにしていた。
その方が落ち着くかなと思って。
店内放送のお陰と、
私が売り場のある5階のフロアをグルグルしていたから、
早いうちに親御さんが見つかった。
そこで親子の対面である。
今まで黙っていたお子様がお母さんの姿を見て泣き出す。
お母さんの嬉しそうな顔。
私はそのシーンを一人でじ~んとして見ている。
あの頃、何でも感動しやすい年代だったと思う。
親御さんは深々とお辞儀をされ、こちらの方が恐縮する。
「ママに会えて良かったね。ばいば~い。」
お母さんに抱っこされ
小さいもみじの手が、バイバイしている。
モノを売るという達成感。
しかし、
それにも増して
人さまにお役に立てたという充足感。
あの頃
それらがいっぱい詰まっていた。
今回は
「モノを売る」以上の充足感を得ていた
をお伝えいたしました。
本日も、最後までお聴きくださり
ありがとうございました。
ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日をお過ごし下さい。
山田ゆりでした。
◆◆ kindle出版しました ◆◆
https://amzn.to/3exJcNx
【わたしだけじゃないんだ】
突然、アルツハイマー型認知症になった同居の実母を介護した、
子育てOLの10年と10日の記録
※amazonアンリミテッドに加入して、
期間内に解約すれば無料で読めます。
https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/hz/signup?tag=yuri53yuri-22
◆◆ note有料マガジン ◆◆
【自分のための人生】
https://note.com/tukuda/m/m5b66808db98c
『読むとほっこりする』
『胸にじーんと来ました』
などの感想をいただいています。
◆◆ アファメーション ◆◆
.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。
私は愛されています
大きな愛で包まれています
失敗しても
ご迷惑をおかけしても
どんな時でも
愛されています
.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。゚+..。*゚+
.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。゚+..。*゚+
大それたことはしなくてもよい
そこに向かう姿勢が大事
日々忘れない努力をする
.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。゚+..。*゚+
※文章と音声、どちらでも楽しめます。
おはようございます。
山田ゆりです。
今回は
「モノを売る」以上の充足感を得ていた
をお伝えいたします。
私は高校を卒業してすぐに
東京に本社がある地元の店舗に入社した。
その会社に事務係として6年勤め
自分で仕入れて販売を経験してみたくなり
店長に直談判をし、後継者が育った1年後に
売り場異動していただいた。
私は販売できるのならどこでもいいと志願していて、
たまたま退職者がでたおもちゃ売り場に配属された。
1980年代、ファミコン全盛期の頃で
おもちゃ売り場はお店の花形だということを知ったのは入ってからだった。
そして、100店舗近いお店の中で
私の売り場が一番売れていて
「パイロット店」と呼ばれていた。
あの頃、1月1日は店休日。
初売りは1月2日。
おもちゃ売り場のその日一日の売り上げ目標は「一本」。
そしてそれはクリアしていた。
「一本」とは「1億円」。
婦人服、紳士服、服飾、化粧品、家電製品、日用品、寝具、ギフト、食品など
様々な売り場が地下1階から地上8階まである店舗の中で
初売りの一日の売上が
おもちゃ売り場で1億円だった。
その金額のほとんどは高単価なファミコン関係ではあったが
それでもその他の商品も売り上げにかなり貢献していた。
私は女児玩具を担当していた。
当時は、リカちゃんやジェニーちゃん、
3年2組のなかまたち、シルバニアファミリー、
こえだちゃん、はたおり、ミシン、綿あめの機械などが主流だった。
それらが売り場に平積みされていて
あっという間になくなっていった。
その補充のために関東方面の問屋さんが応援に来て下さり
バックルームからの品出しや接客をして下さっていた。
当時は、近隣に大きなおもちゃ屋さんがなかったこともあり、
クリスマス、年末年始、旧盆の時期のおもちゃ売り場はごった返していた。
時代はバブル全盛期だった。
売上もうなぎ登りだったが
迷子ちゃんも多かった。
20代の私は
2~3歳の迷子ちゃんを抱っこして
「ママ、もうすぐ来るからね。」って話しかけながら
売り場の中を歩き回っていた。
抱っこする時は
自分の心臓のところにその子の耳が当たるようにしていた。
その方が落ち着くかなと思って。
店内放送のお陰と、
私が売り場のある5階のフロアをグルグルしていたから、
早いうちに親御さんが見つかった。
そこで親子の対面である。
今まで黙っていたお子様がお母さんの姿を見て泣き出す。
お母さんの嬉しそうな顔。
私はそのシーンを一人でじ~んとして見ている。
あの頃、何でも感動しやすい年代だったと思う。
親御さんは深々とお辞儀をされ、こちらの方が恐縮する。
「ママに会えて良かったね。ばいば~い。」
お母さんに抱っこされ
小さいもみじの手が、バイバイしている。
モノを売るという達成感。
しかし、
それにも増して
人さまにお役に立てたという充足感。
あの頃
それらがいっぱい詰まっていた。
今回は
「モノを売る」以上の充足感を得ていた
をお伝えいたしました。
本日も、最後までお聴きくださり
ありがとうございました。
ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日をお過ごし下さい。
山田ゆりでした。
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突然、アルツハイマー型認知症になった同居の実母を介護した、
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失敗しても
ご迷惑をおかけしても
どんな時でも
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大それたことはしなくてもよい
そこに向かう姿勢が大事
日々忘れない努力をする
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