20代に没頭していた趣味のひとつ【音声と文章】
山田ゆり
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※音声と文章、どちらでも楽しめます。
おはようございます。
山田ゆりです。
今回は、
20代に没頭していた趣味のひとつ
ということをお伝えいたします。
私が小さい頃、我が家はとても貧乏だった。
小学校のクラスに一日50円
お小遣いをもらっている子が羨ましかった。
両親は共働きだった。
農業の父は、田植えと稲刈りの時は帰省するが
その他はずっと岐阜県に出稼ぎに行っていた。
留守を預かる母は、中華料理店で
皿洗いやデパートの掃除婦をしていた。
同じクラスの子たちは
スナック菓子を買って食べていたが
私は道端の「ミツ」と読んでいた草の実を食べていた。
お正月に親戚のおじさんからいただく
1枚の百円札が子どもの私の唯一の収入源だった。
小学校の同じクラスに
オルガンを持っている子がいた。
近所だったから時々遊びに行っていた。
彼女は一人っ子で
リカちゃん人形も私たちが欲しいものを何でも持っていた。
私は音楽が大好きで
歌う事も鍵盤を触る事も大好きだった。
彼女のお家には彼女と遊びたいというよりも
オルガンを触らせてもらうのが目的で行っていたかもしれない。
「いつかはオルガン」
あの車のCMのようだが
私はいつもそう思っていた。
小学校で教材の一つとして渡されたピアニカが
私にとってオルガンの代わりだった。
アコーディオンも大好きですぐに上手くなった。
だから学芸会の演奏の時は
いつもアコーディオンを弾いていた。
思えばあの頃から指先を動かすのが大好きだったのだ。
その後、鍵盤からワープロへ、そしてPCのキーボードへと
私の指の活躍の場は変化していった。
私はずっと、「オルガンを習いたい」と思っていた。
しかし、貧乏な我が家で
そんなこと、絶対に口には出せなかった。
子どもながらに無理なものは無理だと分かっていた。
無理な事を言って母を困らせたくなかったから、オルガンが欲しいことは胸の内にずっとしまっていた。
だからその後もずっと
家ではピアニカで遊んでいた。
やがて私は高校を卒業し就職した。
自分で自由に使えるお金ができた。
私はそれまで我慢していたことを
少しずつやるようになった。
「いつかはオルガン」
私はその言葉を決行した。
当時、エレクトーンが流行っていた。
私はエレクトーン教室の個人レッスンを受ける事にした。
勿論自宅にはエレクトーンがなかったので
週一の習いごとの日の1~2時間前に
エレクトーンの部屋を借りて練習し
稽古に望んだ。
一時間いくらかのお金を払って練習していた。
だからエレクトーンを自由に引けるのはその時間しかなかった。
そして、19歳の12月に、
私はエレクトーンを12回分割払いで購入した。
人生初のローンである。
自宅の縁側にドーンとエレクトーンが置かれた。
私は嬉しくてほぼ毎日大きなヘッドフォンをして練習に励んだ。
あの頃、エレクトーンをする目標があった。
姉の結婚が決まり、結婚式の演奏を私がすることになった。
私は自分からやりたいと申し出た。
今考えると大それたことだったが
姉は私にやらせてくれた。
姉の結婚式はこじんまりとしていたが
両家の親戚が集まり
私としては大舞台だった。
私は新郎新婦入場からおひらきまで
ずっと演奏をしていた。
どんな曲を弾いたか。
「青い山脈」は記憶にある。
他はウエディングソング。
「青い影」は大好きな曲なのでそれも弾いた。
エレクトーンを習い始めて2~3年で
まだまだな時期だったが
良い体験をしたと思う。
今、旧宅の片づけを急ピッチでしている。
押し入れのずっと奥の方に
何やら重たい大きな段ボールがあった。
中は楽譜の山だった。
私がエレクトーンを習いたい理由は
当時流行っていた歌謡曲を弾いてみたかったから。
山口百恵さん、松田聖子さん、さだまさしさん、
長渕剛さん、ちびまる子ちゃん、おかあさんといっしょ、
チェッカーズ、松山千春さん。その他歌謡曲。
他にウエディング全集。
また、コード表も。
当時の楽譜がたくさん出てきた。
百恵さんの楽譜も♪
https://yamayuri58.com/tyoubo/wp-content/uploads/2021/08/20210824_055749.jpg
歌謡曲がいっぱい
https://yamayuri58.com/tyoubo/wp-content/uploads/2021/08/20210824_060045.jpg
ウエディング全集も
https://yamayuri58.com/tyoubo/wp-content/uploads/2021/08/20210824_060308.jpg
エレクトーンはこちら
https://yamayuri58.com/tyoubo/wp-content/uploads/2021/08/20210824_055819.jpg
その後、夫と巡り会い結婚。
3人の子宝に恵まれ、
エレクトーンは娘たちが頻繁に遊んでいた。
やがて音が出なくなり
修理をして一度は直ったがまた音が出なくなり、
部品がもうないから直せないということで
数年間、縁側に置かれていた。
そして母の介護が終わった頃に
エレクトーンは業者さんに引き取ってもらった。
懐かしい青春の一コマである。
「いつかは○○」
また新しい目標を立ててそれを目指す。
さて、あなたには何が当てはまるだろうか。
今回は
20代に没頭していた趣味のひとつ
ということをお伝えいたしました。
本日も、最後までお聴きくださり
ありがとうございました。
ちょっとした勇気が世界を変えます。
今日も素敵な一日をお過ごし下さい。
山田ゆりでした。
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大それたことはしなくてもよい
そこに向かう姿勢が大事
日々忘れない努力をする
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「読むとほっこりする」
「胸にじーんと来ました」
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おはようございます。
山田ゆりです。
今回は、
20代に没頭していた趣味のひとつ
ということをお伝えいたします。
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お小遣いをもらっている子が羨ましかった。
両親は共働きだった。
農業の父は、田植えと稲刈りの時は帰省するが
その他はずっと岐阜県に出稼ぎに行っていた。
留守を預かる母は、中華料理店で
皿洗いやデパートの掃除婦をしていた。
同じクラスの子たちは
スナック菓子を買って食べていたが
私は道端の「ミツ」と読んでいた草の実を食べていた。
お正月に親戚のおじさんからいただく
1枚の百円札が子どもの私の唯一の収入源だった。
小学校の同じクラスに
オルガンを持っている子がいた。
近所だったから時々遊びに行っていた。
彼女は一人っ子で
リカちゃん人形も私たちが欲しいものを何でも持っていた。
私は音楽が大好きで
歌う事も鍵盤を触る事も大好きだった。
彼女のお家には彼女と遊びたいというよりも
オルガンを触らせてもらうのが目的で行っていたかもしれない。
「いつかはオルガン」
あの車のCMのようだが
私はいつもそう思っていた。
小学校で教材の一つとして渡されたピアニカが
私にとってオルガンの代わりだった。
アコーディオンも大好きですぐに上手くなった。
だから学芸会の演奏の時は
いつもアコーディオンを弾いていた。
思えばあの頃から指先を動かすのが大好きだったのだ。
その後、鍵盤からワープロへ、そしてPCのキーボードへと
私の指の活躍の場は変化していった。
私はずっと、「オルガンを習いたい」と思っていた。
しかし、貧乏な我が家で
そんなこと、絶対に口には出せなかった。
子どもながらに無理なものは無理だと分かっていた。
無理な事を言って母を困らせたくなかったから、オルガンが欲しいことは胸の内にずっとしまっていた。
だからその後もずっと
家ではピアニカで遊んでいた。
やがて私は高校を卒業し就職した。
自分で自由に使えるお金ができた。
私はそれまで我慢していたことを
少しずつやるようになった。
「いつかはオルガン」
私はその言葉を決行した。
当時、エレクトーンが流行っていた。
私はエレクトーン教室の個人レッスンを受ける事にした。
勿論自宅にはエレクトーンがなかったので
週一の習いごとの日の1~2時間前に
エレクトーンの部屋を借りて練習し
稽古に望んだ。
一時間いくらかのお金を払って練習していた。
だからエレクトーンを自由に引けるのはその時間しかなかった。
そして、19歳の12月に、
私はエレクトーンを12回分割払いで購入した。
人生初のローンである。
自宅の縁側にドーンとエレクトーンが置かれた。
私は嬉しくてほぼ毎日大きなヘッドフォンをして練習に励んだ。
あの頃、エレクトーンをする目標があった。
姉の結婚が決まり、結婚式の演奏を私がすることになった。
私は自分からやりたいと申し出た。
今考えると大それたことだったが
姉は私にやらせてくれた。
姉の結婚式はこじんまりとしていたが
両家の親戚が集まり
私としては大舞台だった。
私は新郎新婦入場からおひらきまで
ずっと演奏をしていた。
どんな曲を弾いたか。
「青い山脈」は記憶にある。
他はウエディングソング。
「青い影」は大好きな曲なのでそれも弾いた。
エレクトーンを習い始めて2~3年で
まだまだな時期だったが
良い体験をしたと思う。
今、旧宅の片づけを急ピッチでしている。
押し入れのずっと奥の方に
何やら重たい大きな段ボールがあった。
中は楽譜の山だった。
私がエレクトーンを習いたい理由は
当時流行っていた歌謡曲を弾いてみたかったから。
山口百恵さん、松田聖子さん、さだまさしさん、
長渕剛さん、ちびまる子ちゃん、おかあさんといっしょ、
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また、コード表も。
当時の楽譜がたくさん出てきた。
百恵さんの楽譜も♪
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歌謡曲がいっぱい
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ウエディング全集も
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エレクトーンはこちら
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その後、夫と巡り会い結婚。
3人の子宝に恵まれ、
エレクトーンは娘たちが頻繁に遊んでいた。
やがて音が出なくなり
修理をして一度は直ったがまた音が出なくなり、
部品がもうないから直せないということで
数年間、縁側に置かれていた。
そして母の介護が終わった頃に
エレクトーンは業者さんに引き取ってもらった。
懐かしい青春の一コマである。
「いつかは○○」
また新しい目標を立ててそれを目指す。
さて、あなたには何が当てはまるだろうか。
今回は
20代に没頭していた趣味のひとつ
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本日も、最後までお聴きくださり
ありがとうございました。
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