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田畑を相続した我が家の場合

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代々続いた田畑を相続した場合、あなただったらどうされますか? 夫の急逝で女性4人だけの会社員の家族が田畑を相続した。 日中はフルタイムで働く家族は、田畑を耕す時間がない。 「…
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#専業農家

農業の未来【音声と文章】

我が家は代々、お米の専業農家だった。 祖父母が住む実家に住んでいた頃、母と伯母の二人姉妹のところへ父が婿入りした。 そして何町もの田んぼを耕していた。 一町はおよそ1万平方メートル(3千坪)で野球場のグラウンド部分くらいの広さになり、それを数か所所有していた。 それらを祖父、父、母、伯母、そして雇われている男性が数人で、稲作を続けてきた。 それから時代は流れ、いろいろな事情があって両親は祖父母の家から独立した。 一番の理由は50代の祖父が若いお嫁さんをもらい男の子が生まれ、母が跡取りではなくなったことだ。その男の子は母の第一子の二年後に生まれた。 父は数反の田んぼを遺産相続し、農業を続けていた。 祖父の息子は相続した田を全て売り払い、大きな家を建て、そこに一人で暮らしている。 あの頃、先祖代々から続いている田を全部売ってしまったその人に対し私は、なんてひどい人だと思っていた。 あれから数十年が過ぎ、私の夫が急逝し、私は夫から田畑を相続した。 気持ちの上ではその田畑を継続したかった。 しかし、正社員として働いている事、我が家は女性三人の娘しかおらず男手が無いこと。 みんな忙しくて農業をする時間が無かった。 農業をするために会社を辞めるのは正論ではない。夫は亡くなったが私たちはこれからも生きていかなければならない。 だから田畑を耕作するのは諦めた。そして農業委員会へ田畑を貸したいという申請を出した。 田畑を耕作しないと決めたらそれでいいと私は勘違いしていたことにすぐに気が付いた。 田畑は生き物である。草がどんどん生えていく。山奥の誰も住んでいない土地だったら放置しても良いが、周りが田畑の場所で草が伸び放題の我が家に苦情が来て初めて耕作をしなくても草刈りや堰の管理が必要であることを知った。 それを最初は自分たちの手でやってみたが私たち女性だけでしかも仕事を持っている身で、田畑の管理は難しいことが分かった。 結局、お金を出して草刈りや草取りをしてもらうことになった。 田畑からは何も生まれないのに、税金や管理費がかかる。それは年間で6桁の金額になる。 この先、何も生み出さない土地を持っているという理由だけで、お金を無駄にしないといけないのかと思うとやり切れなかった。 農業委員会に何度か出向き、タダでもいいから土地を誰かにもらってほしいとお願いした。しかし、土地をタダで譲渡することはできないと言われ、数年間、無駄金を出してきた。 その時、祖父の息子が何町もの田んぼを全て売り払った理由が分かった。 耕作できな田畑を持っている場合、その土地は「資産」ではなく生活を圧迫する「負債」でしかないのだ。 耕せば「資産」だが、放置していれば「負債」なのだ。 私の周りには年老いた農家の方しかいない。 草取りを依頼していた方は、「腰が曲がってきて、もうできない」と言われ草取りの契約が切れ、どうしようと困っていたところだった。 夫が亡くなって4年目に、我が家の田畑は売買と賃貸借がそれぞれ決まった。 もう、草刈りで悩むことは無くなった。 高齢化が進み、日本の農業に対する期待度は私はとても低く感じていた。 しかし、今回、我が家の田畑を売買、または借りて下さった方々は、30代後半か40代前半の若々しい方々ばかりだった。 体格も良く明るくて、お話をお聞きすると農業に対する将来の計画がしっかりしていて、嫌々でやっていないのが手に取るように分かった。 これからの農業は私が思っているほどは暗くはないのかもしれない。 若いやる気のある人が私の知らないところにたくさんいらっしゃるのかもしれない。 どうか続けていってほしい。 農業を諦めた私は切にそう思う。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1749日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。 どちらでも数分で楽しめます。#ad  農業の未来

変わったもの。変わらないもの。【音声と文章】

※note毎日連続投稿1700日をコミット中! 1620日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む、 どちらでも数分で楽しめます。 おはようございます。 山田ゆりです。 今回は 変わったもの。変わらないもの。 をお伝えいたします。 祖父がまだ健在だったころ、祖父、両親、叔母たちと一緒に まだ小学生だった私たち3姉弟も手伝って 稲刈りをしていた風景が今でも心の絵画として残っている。 稲を刈るとバッタが「大変だ、大変だ」と言わんばかりに飛び跳ねる。 赤とんぼが稲を刈っている母の麦わら帽子の上にとまる。 手で刈った稲を束ねて棒に差して干したり こま犬のような形にして田んぼに立てて置いたりしていた。 私たち子どもは10時と3時の休憩時間が特に楽しみだった。 いつも食べ慣れているリンゴや梨、葡萄の他に袋菓子が出された。 あの頃は普段、袋菓子を食べる習慣が無かったから、 私たちはそれを目当てにお手伝いをしていたところもある。 母が大きなやかんに水を入れて持って来てくれ、 私たちは普段使っているコップに水を入れて飲んだ。 みんな、田んぼに藁を敷いてそれに体育座りのような格好で座っていた。 藁を厚めに敷かないとお尻がひやひやした。 足元にはバッタが飛び交っていた。 どこもかしこも稲刈りが進んでいて、 その光景をふるさとのお山は静かに見守っていた。 夕焼けの匂いがしてきた頃にお山は赤く染まり始め、 あっという間に日が落ちて実りの秋の終わりを感じさせた。 帰りは父が運転するトラクターの荷台にみんなが乗り家に帰った。 手に持った藁はザラザラして、その先にトンボが止まる。 私は藁を左手にそっと持ち替えて 右手でトンボの羽をつかもうとする。 しかし、トンボは大きなたくさんの目で私を捉え スーッと上に飛んで行ってしまった。 それを見て姉や弟が笑う。 私も笑う。 あの頃は、これがずっと続くと思っていた。 祖父と弟が亡くなった。 私はお婿さんをとった。 父が亡くなり、夫が会社を辞めて専業農家になった。 叔母と母が亡くなった。 それでも夫と私と3人の娘たち5人で田畑を守ってきた。 夫以外はお手伝い程度しかできなかったが、しかし、 我が家が作ったお米を食べられる幸せを味わっていた。 やがて、予告もなく夫が急逝した。 田畑を夫から相続はしたが、農業をすることができない。 稲刈りをしないで冬がやって来るなんて お米を買って食べるなんて 赤とんぼと戯れていたあの頃は思ってもみなかったことである。 田植えや稲刈りをして当たり前だった我が家は、それができなくなった。 刈り取った田んぼに藁を敷いて座り 果物やお菓子を食べながら でき秋を喜び季節の節目を感じる。 何代も続いたその風習を 次の世代は体感できないのかと思うと それを選択した私は胸が痛い。 しかし、我がふるさとのお山は それでも大きくすそ野を広げて 今日も変わらず私たちを見守ってくれている。 今回は 変わったもの。変わらないもの。 をお伝えいたしました。 本日も、最後までお聴きくださり ありがとうございました。  ちょっとした勇気が世界を変えます。 今日も素敵な一日をお過ごし下さい。 山田ゆりでした。 ◆◆ アファメーション ◆◆ .。*゚+.*.。.。*゚+.*.。.。*゚+.*.。 私は愛されています 大きな愛で包まれています 失敗しても ご迷惑をおかけしても どんな時でも 愛されています .。*゚+.*.。.。*゚+.*.。゚+..。*゚+