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ショートショート

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「こうだったらいいな」「ああなりたいなぁ」「もしもこうだったら怖いなぁ」たくさんの「もしも」の世界です。
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#仕事について話そう

やってみないと分からない(ショートショート)

高橋「部長、僕は今のプロジェクトをうまく成功させることができるのか心配で、それを考えると夜も眠れません。」 高橋はそう言いながら、大根に箸を刺した。 真ん中に突き抜けるように刺した大根の丸い穴は中まで醤油の色だった。 高橋はふーっふーっとして、歯並びの良い口を開け、豪快に一口で口の中に運んだ。 高橋「これまで何度かお客様のA様と電話やメールなどでやりとりをさせていただきました。 その数回のやり取りでA様はとても繊細な感覚をお持ちだということを感じています。 僕はA様のご要望にそえる様に精いっぱい対応させていただいているつもりですが、僕はもう駄目かもしれません。」 部長はネクタイを軽く緩めて言った。 部長「君はとても一生懸命なのは毎日の行いから分かっている。私から見ても君は立派に業務を遂行している。何がもう駄目なのかな?」 高橋「はい。来週の火曜日に、A様との二度目の面談があります。 僕はこの会社に転職してきて3年になります。 これまでたくさんの仕事をさせていただきましたが、今回のような大きな案件は初めてです。 何をどのように事を進めればよいのか、毎日手探り状態です。 自分なりに過去の似たような記録を見たりしていますが、イマイチ、ピンときません。 次回の面談の時に、どんなご要望やご質問が出るか予想もつきません。 面談中にA様からのご質問に対して的確にお答えできる自信が全くありません。僕は駄目な人間です。」 部長「君がA様の質問に的確にお答えできなかった場合、何が起こると思うかな?」 高橋「はい。A様からのご質問に対してうまくお応えできず、しどろもどろな対応をしてしまうのではないかと思います。 そしてそれが呼び水となって、その後のご質問に対しての回答も満足のいく内容にならない気がします。 すると、きっとA様は僕に、いや、この会社に対して不信感を抱かれると思います。 僕は駄目な人間です。 小さなことですぐに落ち込んでしまう小心者なんです。 僕は社会人としての覚悟がないんです。 何をやっても楽しくないんです。 僕は意気地なしで、すぐにへたれて、これでは駄目だと思います。 仕事を通して自分が幸せになれる将来なんて、想像できないです。」 高橋は自分の思いを一気に話した。 部長は時々頷きながら静かに聞いていた。 そして高橋に質問した。 部長「A様が君に対して不信感を抱かれるのは、いきなり不信感を抱かれるのかな?」 高橋は天井を見上げて少し考えた。 その時初めて周りのざわめきが耳に入ってきたように感じた。 これまで自分のことしか見えていなかったことに高橋は気が付いた。 高橋「いいえ、1回目で少し不信感を抱かれ、それが何度か重なって、決定的なものに変わる、ってところでしょうか。」 部長「1回目で不信感を抱かれて、それが何度か重なり決定的な不信感になるということ? 君のその言葉で、何か気づいたことはないかな?」 高橋はお皿の中のゆで卵を箸でころころ転がしながら考えた。 しばしの沈黙があった。 高橋「んーん。」 そして、卵に箸を刺して高橋は今までとは違い、ニヤリとしながら元気に言った。 高橋「やってみないと分からないです!」

思いをシュレッダーに(ショートショート)【音声と文章】

「では、これから 〇〇銀行の新年会なので私は上がります!」 3時間近くの重役会議が終わり社長室に駆け込んできた社長は、右手にブレザーを持ち、社長室の電気を消し、事務所の皆に向かってそう言い放ち、脱兎のごとく会社を出られた。 えーっ! のり子はあいた口がふさがらなかった。 そうか。どおりで。 ほとんど毎日、残業されている奥様が今日は定刻になって「お先しま~す」とグッチのバッグを小脇に抱えて帰って行かれた理由がその時分かった。 のり子が今手掛けている案件は、社長に判断をいただけないと次に進めない段階にきている。 その件について、奥様に「CC」で、社長宛のメールを送っていた。 一日待っても社長から返信が来なかったので、のり子は題名に注意が行くように変えて再度メールを送った。 しかし、返事は来なかった。 今日こそは社長にその件の回答を聞こう。 直接、会議が終わったらすぐに社長室に行こうとのり子は決心して、残業しながら重役会議が終わるのを待っていた。 今の社長に替わって仕事のやり方が全く変わってしまった。 これまでのり子は、前社長の秘書的立場にあった。 前社長は超アナログな方で、思っていることは口頭でおっしゃる方だった。 だから社長室に呼ばれると1時間以上戻れないことは日常茶飯事だった。 PC操作ができない社長は、作ってほしい書類は全て口頭でおっしゃって、のり子がそれを作り、5~6回、社長の添削を受けた後に書類が出来上がる、そのような状態だった。 社長は今考えている事をいつものり子に話をされていた。 例えばそろそろ高所作業車を買い替えるとか、あの取締役の生命保険の金額を変えるとか、来年の人事のことなど、のり子に話をされていた。 社長が何を思われているかをのり子はいつも聞かされていたから、今このことをしているのはあの件に繋がるのだなと、会社の動きを察知しながら仕事をしてこられた。 しかし、70代の前社長から50代の新社長になり全てが変わってしまった。 一番変わったのが、社長は何を考えていらっしゃるのかをのり子には言わない事だ。 そして、社長に直接のり子が接することはできなくなった。 前社長の時はのり子とのり子の直属の上長にいろいろなことを話された。 しかし、新社長はのり子の直属の上長だけに全てを話し、のり子には話がこないことがほとんどになった。 これまではのり子から社長に直接お聞きしていたのが、社長が替わられてからは、のり子が直属の上長へ「この件で社長にお聞きしたいのですが」とお伺いを立てる。そして、その内容を上長が社長へ話し、社長から上長へ、上長からのり子へという流れに変わった。 直属の上長はとても忙しい方で、すぐには社長に聞いてくださらない。ジリジリとした思いでのり子はいつも待っている。 また、口頭では質疑の内容が残らないから、社長宛にメールをするようにとも言われている。 その際は必ず、直属の上長に「CC」で送るようにという条件付きである。 つまり、のり子の行動を全て直属の上長に報告するようにとのことなのだ。 口頭で言ってもすぐには答えが来ない。 メールを送っても、その日に返信が来ない。 「私には一日に100件以上のメールが来ているから、見逃すことが多いんですよ。」と社長がおっしゃっていたが、そりゃそうだ。 口頭で済むことでもメールにするようにしているからだ。 長引いている重役会議が終わったらすぐにお聞きしようとのり子は待ち構えていた。 しかし、社長は帰られた。 今日もこの案件は止まったままになってしまった。 明日こそは、社長のお返事をお聞きしよう。 たった、イエスかノーの言葉だけなのだ。 それを聞くことができず数日過ぎてしまった。 経営者にもいろいろなタイプがある。 のり子はこの会社に入って3人の代表者を見てきた。 くるりと振り向き、キャビネットの中からファイルを取り出す。 中には平成のものがあった。 これまで大事だと思ってファイリングしてきた書類。 もう、要らないかもしれない。 人を変えることはできない。 自分が変わるしかない。 のり子はその古い書類をシュレッダーにかけた。 ※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1723日目。 ※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。どちらでも数分で楽しめます。#ad