見出し画像

宮沢和史とブラジル

※ 2006年、東京・世田谷文学館での「宮沢和史の世界」展用に書いたテキストです。2006年以降についてはまとめていません。


■ 1994年、初めてのブラジル行き、『極東サンバ』

宮沢和史がブラジル・リオデジャネイロを初めて訪れたのは1994年5月。この旅立ちの直前にTHE BOOMはブラジルへの憧れを歌った「carnaval—カルナヴァル—」を東京でレコーディング(アルバム『極東サンバ』に収録)。この最初のブラジル旅行で宮沢はさまざまな打楽器を購入し、以降THE BOOMのブラジル音楽への傾倒が急速に進みます。

1994年11月にリリースされたTHE BOOMの6枚目のアルバム『極東サンバ』は、前述の「carnaval—カルナヴァル—」やサンバの「風になりたい」、ボサノヴァの「Poeta」、ポルトガル語での歌に初めて挑戦した「HAJA CORACAO」など、THE BOOMが初めてブラジル音楽にトライした記念すべき作品となりました。同アルバムは1996年『Samba do Extremo Oriente』というポルトガル語のタイトルで、ブラジルでもリリースされます(写真はリオデジャネイロのCDショップにて1996年に撮影)。

画像2

〈『極東サンバ』は、最近僕の聴いてる音楽が、ジャマイカにしろ、キューバにしろブラジルにしろ、地球の裏側のものが多くて、僕もそれをやってみたいと思ったのが始まりです。でもそのまんまの模倣はしたくないから、リズムとか音の構築とか演奏の仕方とかをもとにしながら、日本人や、日本にいる外国人たちの手で、東京という場所で響かせてみようと思ったんです。東京でみんなが踊れて、いちばん気持ち良く解放されるリズムが、僕らにも出来ないかなと、そのヒントがサンバになるような気がします〉(宮沢和史)

1995年2月にはTHE BOOM全員でリオのカーニバルを見学。宮沢は同年9月に念願のバイーア州・サルヴァドールを訪れ、バイーアの音楽イベント“フェスティン・バイーア”の主催者に自らTHE BOOMの出演交渉をします。


■ 1996年、THE BOOM初のブラジルツアー

画像1

そして、1996年5月にTHE BOOM初のブラジル・ツアー“Samba do Extremo Oriente”を敢行。サルヴァドールでは“フェスティン・バイーア”前夜祭への出演を含め2公演。リオデジャネイロではゲストにシモーネ・モレーノとペペウ・ゴメスが参加(前年、東京で開かれた彼らのコンサートにはTHE BOOMが参加)、サンパウロでは現地の日系人たちに熱く歓迎されました。

宮沢はすべてのライブ日程が終了後、THE BOOMがカバーした「砂の岬」(ブラジルのスタンダード的なナンバー)の舞台となったミナスジェライス州オーロプレート、チラデンチスを旅しています。このブラジル・ツアーの模様はビデオ『BRASIL』(1996年10月リリース)に収録されています。

『極東サンバ』リリースの翌1996年7月に発売されたアルバム『トロピカリズム』には前作ではなかったブラジル北東部バイーアの音楽の影響を感じさせる「TIMBAL YELE」「Call my name」「手紙」を収録。サンバの「Samba de Tokyo」や、ボサノヴァ「街はいつも満席」(ブラジル・ミナス出身のギタリスト、トニーニョ・オルタが参加)、ミルトン・ナシメントのカバー「砂の岬」など、ブラジルからの影響が大きく反映されたアルバムとなっています。アルバム・タイトルの「トロピカリズム」はカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらブラジルのミュージシャンたちが1960年代後半に興したムーブメント「トロピカリズモ」へのアンサー。

〈「砂の岬」はミルトン・ナシメントというブラジルの歌手の曲です。はじめてこの曲を聴いたときはすごく不思議な音楽に聴こえてね。まだブラジル音楽にどっぷり浸かってなかったから「これがブラジルの音楽なのかなあ」とか思いながら聴いていたんだけど、何回も聴いているうちにアジアのメロディに共通するものを感じたんです。1995年にシモーネ・モレーノというバイーアの女性シンガーが来日したときに、アンコールで彼女が「砂の岬」を歌ったんです。シモーネのは歌とギターだけの、すごくテンポを落としたバラードだった。それを聴いて「自分も歌ってみたいな」と思ったんです。ただ、どうせ歌うなら日本語で歌いたかった。かつてブラジルのミナスという町がゴールドラッシュでにぎわって、多くの人がアフリカからブラジルまで奴隷として連れてこられて、しかしやがて金も採れなくなってしまって……という内容の歌です。それを僕は大筋の背景、書いた人の心境とかを生かしたまま、ちょっと変えたつもりなんです。というのは同じシチュエーションでは僕は歌えないわけです。見てもいないし、実感もありませんからね。想像で歌ってもいいんですけど。だから僕は日本を離れてブラジルで暮らし、大地を耕して頑張っている人たちや、故郷を離れていろんな町で暮らしている人が聴いても感じられるような歌に日本語で訳したんです〉(宮沢和史)

画像3


■ 1998年、ブラジルレコーディングのソロアルバム

1997年7月、ドイツ・チュービンゲンでのフェスティバル“Viva! Afro-Brasil”にTHE BOOMは出演しました(同日の出演者はジルベルト・ジル、カルリーニョス・ブラウン、セレーナ・ペレイラというブラジル勢)。

※ こちらのmixcloudでそのライヴ音源が聴けます。DJは同レポートを書いた、宮沢和史と親交があるイギリスの音楽ジャーナリスト、ポール・フィッシャー。

このドイツでのフェスと、4日後に行なわれたスイス・モントルーでのフェスへの出演というヨーロッパ・ツアーを終え、宮沢和史は初のソロ・アルバムのレコーディングに突入します。

1997年秋からスティングのプロデュースで知られるヒュー・パジャムとファースト・ソロ・アルバム『Sixteenth Moon』をロンドンでレコーディング。アルバムが完成すると宮沢はそのまま2枚目のソロ・アルバムのレコーディングにブラジル・サルヴァドールへ移動。カルリーニョス・ブラウンとのセッションからブラジル・レコーディングがスタートしました。ブラウンと3曲を完成させると、次はリオデジャネイロでマルコス・スザーノのプロデュースにより残りの全曲をレコーディング。できあがったアルバムは宮沢和史による造語『AFROSICK』(アフロ起源の音楽に取り憑かれた男たちという意味)と名付けられました。

〈MIYAZAWAとの仕事はとても大きな喜びだった。なぜなら彼は優秀な歌手、ミュージシャンであるだけでなく、自分がやりたいことをちゃんとわかってる人間だからね。彼は自分が考えていた音楽のアイデアを実現するために僕に協力を依頼してきたんだ。そこで真夏のリオのスタジオでレコーディングに臨んだわけだけど、結果は本当に素晴らしものができたよ。ブラジルの最高のミュージシャンが集まってくれたし、レニーニ、パウリーニョ・モスカ、ペドロ・ルイスといった僕の仲間に頼んで、MIYAZAWAの作った曲にポルトガル語の歌詞をつけてもらった。カルリーニョス・ブラウンが作詞した最高に美しいバラードもある。これはもうブラジルの音楽というだけじゃなくて、インターナショナルな音楽として誇れる画期的な内容のアルバムだよ〉(マルコス・スザーノ)

1998年5月、アルバム『AFROSICK』のオリジナル・ポルトガル語ヴァージョンがまずブラジルでリリース。続いて一部の曲を日本語で新たにレコーディングした日本盤が7月に発売。また、内海イズル、ライナー・トゥルービーらがリミックスしたアナログ2枚を日本だけでなくヨーロッパでリリースしました。

同年10月にはブラジルと日本でツアーを行なっています。ブラジルはサンパウロとリオ公演。バンドメンバーはマルコス・スザーノ、フェルナンド・モウラを中心に組まれた全員ブラジル人のメンバー。日本は東京と大阪。日本公演にはマルコス・スザーノ、フェルナンド・モウラの他にペドル・ルイス&パレーヂ、パウリーニョ・モスカが参加。後にリリースされるビデオ&DVD『afrosick』には、ブラジルでのアルバム・レコーディング風景、ブラジルと日本でのツアーの模様が収録されています。

〈ある意味『AFROSICK』のショーはCD以上に感慨深く印象的でした。全く異なる日本とブラジルの文化に音楽を通じて触れる機会を得て、どの国々でも言葉や貧富の差の壁も壊し、音楽によって通じえる素晴らしい体験が出来て本当に感謝しています。僕にとってそれらが『AFROSICK』のメッセージなのだと思います。音楽はユニバーサルな言葉だと改めて実感しました。音楽はそれぞれの人たちの感情を伝えていくものだと信じています。リオとサンパウロで行なわれたショーでは、いいオーディエンスが集まったと思いました。真摯で献身的な仕事は必ずみんなに理解され、言葉の違いは大きな問題ではないとわかったライヴでした〉(フェルナンド・モウラ)


■ 2001年、『MIYAZAWA』

THE BOOMの活動再開、ツアーをはさみ、2001年3月に宮沢和史3枚目のソロ・アルバム『MIYAZAWA』のレコーディングがブラジルでスタートしました。プロデューサーはアート・リンゼイ。

サルヴァドール、サンパウロ、リオデジャネイロ、ニューヨーク、東京、沖縄、ブエノスアイレスを旅してレコーディングされたこの『MIYAZAWA』については、こちらにその旅の軌跡がまとめられています。サルヴァドールでは「沖縄に降る雪」のレコーディングに参加したカルリーニョス・ブラウンとチンバラーダのステージに突然あげられ、バイーアの観衆に「島唄」を披露しています。また、同アルバムはTRAMAレーベルよりブラジルでもリリースされています。

ブラジルのリズムで沖縄音階が三線で歌われるという「沖縄に降る雪」は、沖縄を舞台にした映画『ナビィの恋』(中江裕司監督)に宮沢が出会ったことから生まれた曲です。

〈サンラーという男性が故郷の沖縄の島を追われ、ブラジルに行き、60年後に島に残してきたかつての恋人ナビィを迎えに来る。自分をそんなサンラーの立場に置いて、沖縄を遠くから想う歌です。「沖縄に降る雪」というのはこれ以上美しいものがないという象徴。はじめて純粋に沖縄へのラブソングが書けました。沖縄音階とブラジルのリズムが、真ん中に僕がいることで非常にいい距離感になったと思います〉(宮沢和史)

宮沢和史がブラジルの隣国アルゼンチンを訪れたのは、このアルバムの収録曲「ゲバラとエビータのためのタンゴ」での、タンゴのマエストロ、オスバルド・レケーナとのレコーディングが初めて。この翌2002年、アルゼンチンではアルフレッド・カセーロによる「島唄」カバーが記録的な大ヒットになり、宮沢も4月にブエノスアイレスでカセーロと共にコンサートを行なっています。

アルフレド・カセーロは同年6月に来日。ワールドカップ、日本対チュニジア戦の試合直前、国立競技場“Public Viewing”に宮沢とカセーロが出演。スタンドを埋めた5万人のサポーターとともに「島唄」が大合唱になりました。THE BOOMとは日比谷野外音楽堂などで共演。その後、宮沢とともに「島唄」の故郷、沖縄を訪れ、本島南部、竹富島などを旅しました。2002年の大晦日にはNHK「紅白歌合戦」にアルフレド・カセーロ+THE BOOMとして出演、「島唄」を歌いました。


■ 21世紀ブラジルと宮沢

2001年9月には、“大航海時代”にポルトガルから伝わった音楽が伝搬先の国でどう発展していったかを探るというNHKのドキュメンタリー番組『遥かなる音楽の道・海を渡ったサウダーデ』のために、ハワイ、インドネシア、ブラジルを長期取材。サルヴァドールとリオをガイドしています。

2004年1月にリリースした宮沢和史4枚目のソロ・アルバム『SPIRITEK』では「2 Continentes」をリオデジャネイロで、『AFROSICK』からの盟友フェルナンド・モウラによるプロデュースでレコーディングしています。また、2003年にブラジルでリリースされたフェルナンド・モウラのアルバム『do bom e do melhor』収録の「Chovendo na Roseira」(薔薇に降る雨)には宮沢がボーカルで参加しています。

2004年3月からブラジルのテレビ局REDE RECORDでオンエアが始まった長編TVドラマ『Metamorphoses』(メタモルフォーゼス)の挿入歌に、宮沢和史の「Cancion de la Isla(Shima Uta)」「抜殻」(いずれも宮沢和史のベストアルバム『MIYAZAWA-SICK』収録曲)が起用され、両曲も収録されたサウンドトラックはブラジルのUniversal Musicより4月に発売になりました。

1994年の最初のブラジル旅行からこの10年間で宮沢和史のブラジルへの旅は20回を越えました(※このテキストが書かれたのは2006年)。

2004年8月、宮沢和史にとって久しぶりの南米でのライブがアルゼンチン・ブエノスアイレス、ブラジル・サンパウロで行なわれました。ブエノスアイレスは8月4日(水)、5日(木)の両日、TEATRO ATENEOで。サンパウロは8月8日(日)会場はSESC PONPEIA CHOPERIA。

ブエノスアイレスでのコンサートは中盤「掌の海」弾き語りの後に、アルフレッド・カセーロが登場。「島唄」のスペイン語版である「Cancion de la Isla」を共演。次にブエノスアイレスだけのスペシャルメニュー、「ゲバラとエビータのためのタンゴ」をタンゴ・アレンジで、しかもカセーロが新たに書き下ろした新しい歌詞を組み込んでの宮沢とカセーロ両者が交互にリーディングするアルゼンチン・バージョンで披露しました。本編最後の「沖縄に降る雪」ではブエノスアイレス生まれの沖縄系アルゼンチン人メンバー、クラウディア大城が紹介され、会場は大拍手に包まれました。アンコールでは宮沢とカセーロふたりで登場。宮沢のギターでカセーロがTHE BOOMの「中央線」を日本語で歌いました。ラストは全員で「島唄」。会場の全員がスタンディングオベーションでMIYAZAWA-SICK BANDを讃えました。

サンパウロでは、ゼカ・バレイロ、ジャイール・オリヴェイラとヂエゴ・フィゲイレードがゲストに参加しました。観客の中心はポルトガル語を話す三世、四世といった若者たち。「島唄」は1996年の初のサンパウロ公演のときのように大歓声で迎えられました。特別ゲストのゼッカ・バレイロの「BABYLON」を宮沢が歌い、宮沢の「SAVE YOURSELF」をゼッカがポルトガル語で歌うというコラボレーションもありました。THE BOOMがカバーしているミルトン・ナシメントのナンバー「砂の岬」は出演者全員で合唱したそうです。

また、この南米公演にあわせて、7月、ブラジルのUniversal Music Brasilから宮沢和史ベストアルバム『MIYAZAWA-SICK』が、8月にはSONY ARGENTINAから『MIYAZAWA-SICK』がリリースになりました。

さらに宮沢は、9月にブラジルのミナス・ジェライス州オーロプレットで開かれた音楽祭“Tudo E Jazz - Festival Internacional de Jazz de Ouro Preto”に、フェルナンド・モウラのバンドのボーカリストとして単身日本から参加しました。宮沢がフェルナンド・モウラと共演したのは「砂の岬」「2 Continentes」「Cinco ou Seis」「薔薇に降る雨」「島唄」の5曲です。

2005年10月には同年1月〜2月のヨーロッパツアーに続く、中南米ツアーが行なわれました。ツアーはロンドリーナ(ブラジル)から始まり、サンパウロ(ブラジル)、テグシガルパ(ホンジュラス)、マナグア(ニカラグア)、グアナファト(メキシコ)、ハバナ(キューバ)の5カ国。

ロンドリーナ公演や、サンパウロ公演の興奮の様子、空前の盛り上がりとなったテグシガルパ公演、現地のバンドMacollaと共演したマナグア公演、野外フェスのグアナファト公演、ハリケーンに襲われ最終公演が中止になってしまった一日だけのハバナ公演など、このツアー記録、ドラマは、中南米ツアーblog+podcastingにまとめてあります。

2018年には、サンパウロでの「ブラジル日本移民110周年記念式典」で歌いました。
2019年には、サンパウロでの『第17回おきなわ祭り』に出演。

※ 関連エントリ → 「宮沢和史とカエターノ・ヴェローゾ」


■ 追記

2019年11月、宮沢和史は「Traveling to the MIYAZA-WORLD~ようこそ宮沢の世界へ」という4日連続のコンサートを東京で開催。その2日目が「AMOR BRASIL」というタイトルでブラジルにフォーカスして選曲され、それらの歌の合間にこれまでのブラジルとの関係を語る内容でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?