『二十一世紀の音霊』インタビュー

THE BOOM/宮沢和史、2003年のドキュメンタリー映像『二十一世紀の音霊』プロデューサーへのロングインタビュー。このテキストはマジすごいです。こんなヒリヒリした現場で僕らはやってました、というのがわかってもらえると思います。特に後半のヨーロッパツアーのあたり。リスボン、ワルシャワ、チュービンゲンの3都市をまわったヨーロッパツアーについてはこちらにも。


河原志野(フジテレビ721『二十一世紀の音霊』プロデューサー)


DVD『二十一世紀の音霊』は、2003年のTHE BOOM全国ツアーや高知、札幌での“未完の夜”、新曲「白いハマナス」のレコーディング、さらにポルトガル、ポーランド、ドイツでの宮沢和史ソロ・ツアーを追ったドキュメンタリー作品であり、もともとは2003年9月、フジテレビ721でオンエアされた同名の番組をパッケージしたものです。この番組のプロデューサー、ヨーロッパにも同行した河原さんにTHE BOOM、宮沢和史との2003年について聞いてみました。

———そもそも『二十一世紀の音霊』はどういうコンセプトの番組なんですか?

河原 21世紀になるときにアーティストたちはどういうことを考えながら世紀をまたぐんだろうという興味からスタートしたんです。アーティストがどういうふうに曲を作ったり、どういうことを考えて曲が出来上がっていくのか、というのを長い期間を通して撮っていこうというのが番組のもともとのコンセプトです。

———その対象に宮沢和史/THE BOOMを選んだのはどういう理由だったんですか?

河原 もともとは『音霊』チームのADが私にプレゼンしたんです。THE BOOMというバンドはすごい活動をしていると。日本各地いろんなところをまわっていて、そのまわり方も、呼ばれたところに行く、聴きたいと思っている人にちゃんと歌を届けるツアーをやっているということを聞いて、それは面白いなと思ったんですね。ドキュメンタリーを何本か作ってる人間としては。他の音楽業界の人にも聞いてみると、あの集客力はなかなかないんですよと。あんなツアーができるのは日本でもそんなにいないということを聞いて、それは相当説得力があることなんだろうと思って、それでやってみたいなと。

———それはいつ頃だったんですか。

河原 2002年の終わりですね。東芝EMIにまずご相談に行って、担当の方に宮沢さんのこれまでの活動を説明していただいたら、私の大好きな世界で、「すごい、これはやるしかないでしょう」みたいな。それでその足でフジテレビと話して、会社も即決だったんです。『音霊』って手前味噌なんですけど、年間に2アーティストから3アーティスト、しかも長い期間追う番組、フジテレビ721の看板番組ということで、誰を取り上げるかこんなにすんなり決まることはまずないんですね。でもツアーの内容がとにかく面白い、やってみましょうということで走り出した感じでした。

———では、河原さんが今回初めてTHE BOOMのステージを観たのは?

河原 2003年4月の長崎。ツアーの初日ですね。

———あのライブよかったですね。

河原 よかったですねー。お客さんの気合もすごかった。一所懸命聴いてて、会場が一体になってましたね、夕陽も良かったし。

———長崎が普通のコンサートと違ったのはプロのイベンターが開催したのではなく、THE BOOMを呼びたいと思ってる方たちが主催した。あの方たちの想いがコンサートを更に良くしてましたね。

河原 その通りですね。それは感じましたね。前年の長崎が台風で中止になったから翌年のツアーの初日が長崎になったというのもすごい話だなと思っていて。でもその部分についてはちゃんと取材できる時間がなかったんです。ホントにギリギリ、長崎のライブの2日ぐらい前に「やりましょう」というGOサインが出たんで。実行委員長の山本さんのインタビューを取るのが精一杯だったんだけど、「とにかく長崎の市民と『島唄』をみんなで歌いたい」という言葉がすごく印象にありました。実際、みんなが一所懸命歌ってるでしょ、感動しましたね。

———河原さんもカメラをまわしてたんですか?

河原 この日は持ってないですね。カーツ鈴木さんだけ。多分この日、初めて宮沢さんたちはこの番組のことを聞いてるんですね、「取材が入ります」って。前の年のツアーDVD(『この空のどこかに』)とは違ってドキュメンタリー番組なんでもっと内側に入っちゃいますよ、ということもあの日に聞かされてるはずなんですよね。それでメンバー側の了承があって、マネージャーの長岡さんからカーツさんに「(カメラを)まわしていいです」という電話があったのが、会場でスタンバってる時だったんです。

———えー!

河原 「メンバーに話したんでどうぞ」って。ドキドキして待ってました。でもやっぱりカーツさんは前の年にツアーをずっと撮っているんで、みなさん柔らかく入ってきて。

———初対面時の印象は?

河原 宮沢さんとはほとんど話せず。カーツさんが撮ってる横で少し他のメンバーとは話せたんですけど。初日なのになんでこんなにリラックスしてるんだろう、リラックスしている、楽しんでるなあと思ってましたね。あと、栃木さんが気をつかっていろいろ話しかけてくれて「なんていい人なんだろう」という印象がありました。

———長崎のライブを観て、番組として「これはイケるな」と思いました?

河原 うん。私がそれまでに思っていたTHE BOOMは、申し訳ないんですけど「島唄」のTHE BOOMだったり「風になりたい」のTHE BOOMだったり、シングルだけの世界だったんです。だけど長崎のライブを観て確実にTHE BOOMというバンドは独自の世界をここに作ってるんだなというのを思ったんですね。この人たちにしか作れない世界がある。だからドキュメンタリー番組として成立すると思いましたね。

———長崎の次に河原さんがツアーに同行したのは?

河原 福島(5月)かな。

———楽屋で新曲のミーティングをしているシーンも撮ってますね。

河原 そうです。カーツさんと行く予定だったんですが、急に都合が悪くなってしまって、ひとりで行ったんです。

———でも入り込んでますね。

河原 いや、結構まだ距離はありましたね(笑)。ここでも地元の青年会議所の人たちが一所懸命THE BOOMを迎えようとしているのがよく分かりましたね。テントひとつ張るのも大変そうだったし。


ヨーロッパに行けば何かが出てくるんじゃないかと、ヨーロッパで何かを仕掛ければと思ったんです。


———7月にはMIYAZAWA-SICKのヨーロッパ・ツアーがあったんですが、この企画がスタートした時点でヨーロッパ・ツアーに同行というのも決めていたんですか?

河原 なかったですね。ヨーロッパ・ツアーを予定しているというのは聞いていたんですが、うちは同行しようかどうか迷ってましたね。ただ、THE BOOMのツアーを撮ってるときに宮沢さんがいつも余裕があるということに気付いて……。

———余裕?

河原 宮沢さんの「素」が見えないというか、いい宮沢さんしか見えてないって。これではファンの方は喜ぶ番組にはなるけど、そうじゃない人たちを巻き込みたいという気持ちがあったので、焦ってたんですよ。ヨーロッパに行けば何かが出てくるんじゃないかと、ヨーロッパで何かを仕掛ければと思ったんです。それでカーツさんと2人で取材に出たという感じなんです。

———でもヨーロッパ・ツアーといってもどこでライブをやるのかというのもギリギリまで決まらなかったじゃないですか。予定立てるのが大変だったんじゃないですか?

河原 テルセイラ島でのライブがキャンセルになり、実際に他のライブもかなりグラグラでしたもんね。うちもコーディネーターを使おうとかリサーチをしようかとか考えるんだけど、二転三転していて、これは追いつけはしないなと思って、とりあえず行ってみれば何とかなるといった感じでしたね。

———ヨーロッパ・ツアーに向けてのメンバー・スタッフ合同ミーティングも撮影していますね。

河原 はい。

———ああいったミーティング映像を公開するのって多分初めてだと思うんですが、いきなり「機材が揃うかどうか」といったレベルの説明をMIYA自身がみんなにしてるじゃないですか、ファンにとってはすごくびっくりするシーンだと思うんですよ。

河原 私たちもびっくりしましたね。ミーティングといってもスタッフが行程などを説明するぐらいだと思って行ったんですよね。でもそういった「絵」があれば、ヨーロッパに行く前のスタートの説明としては番組的にいいんじゃないかしらというぐらいの考えで行ったんですが、実際にあの場で宮沢さんがみんなにちゃんと説明してというシーンを見て、「あ、この人が全部本当に決めてるのね」という驚きがありましたね。なかなかそんなふうにいかないですよね、普通。スタッフの方ももちろんいろんなことをやってらっしゃるけれども、すべてのモチベーションのトップというのは宮沢さんなんだというのはあの時思いましたね。

———MIYAは誰よりも海外での経験がありますしね。僕が河原さんに初めて会ったのは成田空港でしたね。ヨーロッパへの出発の当日。

河原 カーツさんが宮沢さんについてスイス経由の便で先に出て、私は他のメンバーと一緒でしたね。

———ポルトガル・リスボンに着いたその夜は平和でしたね。

河原 着いたその夜のホテルでのことが印象に残っているんです。先に着いてた宮沢さんがメンバーを迎えるじゃないですか。あのときに宮沢さんがすごくうれしそうな顔をして。「ホッとした」ってつぶやいたんですよ。撮っておけばよかったと思ったんですけど、すごくうれしそうな顔をしていたのが印象的で。「みんなでやるんだ」という思いはあるけれど、でもこの人はすごく責任を感じているんだなと思ったんですね。

———僕たちの到着をロビーで待っててくれたんですよね。

河原 ねえ。みんなの荷物をひとつひとつ確認して、みんながチェックインするのをじーっと見て、でしたもんね。その後みんなで飲んだりしてね。

———その次の日からは激動の日々だったんですが、ああいうのは番組を作る側としては「やった!」という感じだったんですか(笑)。

河原 あはははは。到着した翌日の朝ですよね、宮沢さんとロビーで話していて、「去年もMIYAZAWA-SICKでスペインに行ったんだけど、それを記録していなくて、今回は記録してもらえることが嬉しいんですよ」とおっしゃってて。まあね、記録はできるのよって正直思ったんですよ(笑)。記録をすることはできる。でも、ニュアンスは難しいんですけど、同行したってそんなにたいしたこと撮れないんですよ、正直。だから宮沢さんにそう言われてプレッシャーだなと思ったんですね。宮沢さんからのプレッシャーと、番組プロデューサーとして、番組として、内側にではなく外側に対してこのツアーをどう見せるかということについてのプレッシャー。「よろしくね」って言われたことがすごく印象に残ってるんですけど、でもじゃあどうしようかなと思ってた矢先に、もういろんなことが次から次へ最後まで起こり続けたんだけど(笑)。

———まず、リスボンでの「会場の変更」ですね。それも会場のあのロケーション。リスボン到着の翌日、スタッフと車で会場を下見に行ったときに本気で「これはお客がひとりも来ないかもしれない」と思ったんですよ。場所が場所だし、事前告知もほぼゼロ。例えば日比谷野音みたいに街の中の会場だったら告知がなくても音を出していれば通行人が集まってくれるかもしれないですよね。でもそんなことが絶対ありえないような森の奥でしたからね。

河原 だってタクシーの運転手さんだって知らなかったですからね。

———それで告知フライヤを作って撒こうということになったんですが、『音霊』を見ると、フライヤをデザインしている本田さんに、河原さんが「フライヤは効果ありますか?」って訊いてますよね? 

河原 あれは、答えはわかってました。だってあのときみんな「何ができるかなあ、できることをしよう」と思ってたじゃないですか。できるという保証があってやってることではない。わからないけどやってみようという状況だったから、本田さんは絶対ああいう答えだと思ってたんです。でもこの答えは欲しいと思ったんです、番組上は。だからあのとき、私は引いてましたよ。遠くの位置から撮っていられたと思う。

———僕もあの時点ではフライヤを作ったってどこでどういう人に配っていいのか分からないし、時間ないし、どうだろうって思ってました。でも会場を下見に行って、それで「これはヤバイ」と思ったんですよ。何もしなかったら本当にお客さんゼロだって。

河原 あーそれから変わったんですか。

———変わりましたね(笑)。

河原 あの会場から少し離れた野外のコンサート会場でフライヤを配ったじゃないですか。あのとき私、泣いちゃったんです。スタッフの人たちがすごいなと思って。そのときは一緒になってたんですよね、たぶん。もっと引いた目線でカメラを回してなけりゃいけないんだろうけど、この人たちの気迫、成功させるためにやれることをここでやるんだという思いを目の当たりにして。「言葉が通じればね」というのがかなり印象的だったんですけど、本当に言葉も通じないところで一枚一枚ていねいに、みんな一言一言、声をかけながら渡していて。すごいな、この異国の地に来て、何の後ろだてもなく、何の保証もなく、数日後に控えているライブに向けてやれるだけのことをやろうとしている人たちにすごいなと思ったんですよね。

———言葉ができたらなあってことは本当に感じましたね。そうすればMIYAの魅力を説明できるのにって。河原さんとは次の日の昼間、ふたりでリスボン市内を回ったんですよね。フライヤ配りで。

河原 あの日は暑かったでしょ。とにかく日光が強かったんですよね。ポルトガルって極端ですよね、朝・夕の気温差が。頭クラクラくるぐらいだったんですけど、あきらめなかったでしょ、杉山さんも。なかなかあきらめてくれないこの人、みたいな(笑)。

———CDショップにフライヤを置いてもらおうと思ったんですが断られ続けましたからね。

河原 ポルトガルって日本以上に厳しいですよね。撮影も店内でカメラをちょっと向けただけで警備員2人に囲まれて無線、トランシーバーでなんかやり取りされて、「No, No」って言われて。

———でも楽しかったです。異国でちゃんと目的を持って街をまわって、それでいろんな人と話せるなんてなかなかないじゃないですか。観光よりもずっと濃い街歩きができて。楽しいなーって思ってました。

河原 旧市街の坂道からの景色が最高でしたもんね。坂の途中の小さなレコード店でフライヤを入り口に貼ってもらったときはすごくうれしかったですね。

———うれしくて近くの店でジュース飲んで。労働のあとの乾杯って感じで(笑)。

河原 あの坂で出会った日本人の若いカップルにも感動しましたね。フライヤを渡したら当日、会場まで5時間歩いてきてくれた子たち。

———お金がなくて旧市街から郊外のあの森までの距離をずーっと歩いて来てくれたんですよね。開演前に会場で見つけたときにすごくうれしくて。お客さんに対して、正直、あそこまで「ありがとう」って思ったことはないです。「お腹すいてない?」ってパンとバナナあげたんですよね。

河原 あの二人を番組の中に入れようか入れまいか迷ったんだけれど、リスボンのライブはもう宮沢さんたちの気持ちで押していくところだなと思って入れなかったんです。

———ひとりひとり声をかけてフライヤを渡した人たちが会場に来てくれた。あれはうれしかったなあ。夜、みんなでバイロアルト(ファド・レストランやバーが並ぶエリア)でフライヤを配ったのも面白かったですね。僕自身初めて場所だったからメンバーやスタッフ全員で行くことになって不安だったんですよ。またお店に断られたらとか、全然人もいないようなところだったら、とか思って。僕だけだったら一人で意気消沈するだけなんだけど。

河原 私は「いい絵が撮れるな」って思った(笑)。でも。宮沢さんも配りましたよね。宮沢和史がですよ。自分でフライヤを配ってるんですよ!

———あのバイロアルトの雰囲気は良かったですね。レゲエとかロックとか店ごとに違う音楽が流れてて、もちろんファド・レストランもあって。ここにいる人たちにライブにきて欲しいって、顔が見えましたからね。

河原 そうですよね。文化として音楽や遊びが根付いてる感じでしたからね。

———ただ配るだけじゃなくて「ストリート・ライブをしてフライヤを配ったらどうかな」というMIYAの提案から行なわれたリスボンでのストリート・ライブ。これ、本当はフジテレビのやらせなんですよね(笑)。

河原 違いますよ(笑)。でも実は私たちがヨーロッパで仕掛けようと考えていたのはストリート・ライブだったんです。出発前に都内の喫茶店で長岡さんに持ちかけたんです。

———ストリート・ライブをやるように仕掛けようって?

河原 (最初のライブの予定地だった)テルセイラ島で。それはTHE BOOMがストリート・ライブ出身だからという背景がもちろんあったんですけど、異国の地でストリート・ライブをやるってやっぱり骨太じゃないとできないし、それが見せられるかなと思ってたんですね。ただ、そんなことを言い出す間もなくあんなことになって(笑)。

———でももし「仕掛け」でストリート・ライブをやったらもっとましな状況でできたと思うんですよ。だけど実際にリスボンの路上で行なわれたライブは電気なし、MIYAのマイクも無し。

河原 ホントですよね。

———それでもメンバーがやれるのはすごいと思ったし、でもそこで高野さんがライブの後に「MIYAの言葉が伝わったかどうかは分からない」と言ってますよね。シビアですよね。ちゃんと『音霊』ではあの言葉を残している。あれ、作りようによっては、「異国の地でストリート・ライブを敢行! 盛り上がりました!」って感じで伝えることだってできるじゃないですか、現場にいなかった人たちには。

河原 そう。「盛り上がった」って伝えることは充分できる。「作れる」素材だったんですけどね。でもそんなことをしなくてもよかったじゃないですか。今回のヨーロッパ・ツアーはそんな小細工をする必要も全くないツアーだったから、ストレートに見せたほうが絶対に人にはわかるはずだし、高野さんだからあの言葉は言っていいと思ったし。これが宮沢さんと付き合いがそんなに無い人——そんな人はメンバーにはいないんですけど——が言うんじゃなくて、本当に宮沢さんをわかっていて、一緒にやっている高野さんが言うんだから、いいわけですよね。

———そして本番の日。お客さんが入るかどうか、本当に不安でした。

河原 だってライブが始まるちょっと前の時間になってもお客さんが全然いなかったじゃないですか。だけどメンバーみんなに悲壮感は無かった。絶対焦っているというか、ここでやるのかなと思ってたはずなんだけどみんな笑ってたでしょ。これは隠しているのか余裕なのかどっちなんでしょうね?

———僕はあのときメンバーに近寄れなかったんですけどね。というかそれよりも道路に出て、走ってくる車にアピールしようと思って。会場が道路からもかなり奥の方にある場所だったし、さらにレストランの裏で道路からじゃ絶対わからない場所だったんでしょ。フライヤ持ってる人でもどこが会場かわからないかと思って。

河原 あの時も半分自分は入りかけちゃって、お客さんが来なかったらどうしようという思いだったんですよ。だけどそれじゃあこの人たちのよさを伝えられないと途中で自分自身気付くんですけど。スタッフになりかけてるというか、多分なってたんですよね、気持ちは。フライヤ配りに一緒に行ったのもあって。でもそれじゃあいけないと、「余裕」の顔を撮ってるわけにはいかない、「入らないね、どうしよう」という表情を撮らなくちゃいけないって一瞬我にかえりました。

———森の中の真っ暗な道でフライヤ振り回してましたね、僕は。

河原 私、そこ撮れば良かったと思っててね。

———いや、そんなとこはどうでもいいんですけど。たまーに車が横に止まって、窓が開くと、運転手が僕らが作ったフライヤを持ってるんですよ。「会場はこっち?」なんて、ポル語だか英語だかで聞かれて。うれしかったですねー。どうやって知って来てくれたんだろうって不思議に思うくらい。『音霊』を見た人は「えー、こんなにお客さん少ないの?」と思ったかもしれないけど、僕らにしてみると「こんなに来てくれた!」という感じでしたからね。

河原 本当に来られないところですからね。日本じゃあんな森の奥に会場なんて無いし、っていうぐらいの場所ですからね。

———実際ライブはすごく盛り上がって、終演後にはバックステージにお客さんたちが押し寄せてきて。

河原 「素晴らしかったよ」「良かったよ」ってお客さんが楽屋にまで押し寄せてきてエールを送ってくれることなんて無いじゃないですか。日本だと関係者しか入れないから。でもお客さんみんな言わずにはいられないという状態でしたよね。

———メンバーの言葉もよかったですよね。僕らスタッフもうれしかったんですけど、メンバーはそれ以上の気持ちだったろうし。クールな人かなと思っていたtatsuさんも「現実じゃないみたい。ライブやってそんなのはじめて」と言ってましたね。

河原 みんな「素」で。あれだけキャリアのある人たちの集まりなのに新人みたいなコメントだったし。宮沢さんもライブ直後なのにあんなコメントが出せるなんてすごいでしょうね。

———「俺ひとりじゃ何もできないけど、みんなでやったステージだね」って言ってくれて。あのコメントを『音霊』で知ったときもうれしかったですね。

河原 でも実際スタッフも含めて全員が一緒に夢を見たんですよね。

———次はポーランド。ワルシャワ空港でのあの熱烈な歓迎はフジテレビの「仕込み」だったんですよね。

河原 思いつきもしませんよ(笑)。ホント「仕込み」のような、あ、「仕込み」だと思った視聴者いるのかなあ?

———MIYAより先に税関を出て待ってたんでしたっけ?

河原 あのときちょうどカーツさんがテープチェンジをして。本当はテープがギリギリ残ってたんですよ。「どうしよう換える?」「換えとこうか」って話をして、換えたんですよ。税関出て荷物を待ってるときに。それであのポーランド入国シーンを撮れたんです。まさかあんな歓迎があるとは思わずにまわしてたんですけど。「テープ換えてよかったね」って帰国してからもう何回も言い合いました(笑)。「あのとき換えてなかったらアウトだよね」って。

———異国で「島唄」の合唱で迎えられるなんて、全く想像してなかったですからね。

河原 でもあれがひとつの象徴ですね。宮沢さんが音楽をやってる意味の。ああいうふうに音楽って伝わるんですよね。ラジオ局の中庭でギター弾いて「島唄」を歌ってた女の子いたじゃないですか。「島唄」への想いがものすごく強くて、歌いたくて歌いたくてしょうがなかったんでしょうね。番組を編集する段階で彼女が歌うシーンを切ろうという意見が多かったんです。本来、素人の女の子が歌ってるシーンをテレビであれだけ長く流すってありえないわけですよ。でも彼女の思いが強いというのはわかるからどうしても私はあのシーンを入れたかった。私はずっと高校生たちを撮ってたから。あの子の想いが映像に出たんじゃないかなと思ったんですけど。

———中庭のシーンが印象に残ってますね。ポーランドの高校生たちがずっと「島唄」を練習してたし、日本人学校の中学生たちがリコーダーを吹いて。

河原 いろいろもめたじゃないですか。会場がいっぱいで全員入れないかもしれないということになって。もう高校生たち必死でしたよね。どうしても一緒に歌いたいって。

———ライブ中はどこで撮ってたんですか?

河原 お客さんを中心に撮ってましたね。ポーランドの高校生たちや日本人学校の中学生たち、そうじゃないお客さんも。最終的に反映されなかったんですけど八島さんも撮ってたんですよ。八島さんが感極まっていく感じがありました。そりゃそうですよね。あれだけ「島唄」が好きで、異国でムーブメントを起こしてということだから。壁にもたれてステージを観てるうちにだんだん感極まってきてるんですよね。それを見ているうちに、これは普通のライブじゃない編集ができる、と思ってたのかなあ。でも実はあんまり覚えてないんですよ。もう瞬間瞬間で必死に撮ってたというのが強くて。

———ライブ直後の楽屋を撮ったのは?

河原 カーツさん。

———「また来たくなっちゃった」って、ライブの5分後に言ってましたよね。

河原 めちゃくちゃ素直な意見ですよね。私たちはポーランドが一番分かりやすいストーリー展開ができると思ってました。地元の人たちに宮沢さんの歌が広がっている。立役者がいて、歌に惚れてみんなが歌ってる。そこで宮沢さんと合唱する。でもそれだけに留まらなかったですね。


帰国後の編集でカーツさんは「ドイツのシーンは落とそう」って言ってたんです。


———次のドイツもこんなドラマがあるとは思っていなかったですね。

河原 スケジュールの都合で、ポーランドのあとカーツさんが日本に先に帰ってしまうということもあって、ドイツはライブを押さえるというのが一番の目的でした。だからドイツのカメラマンを二人呼んどいたんです。ライブのシーンだけ押さえておいて、ヨーロッパ・ツアーのストーリーの間、間できちんとしたライブ映像が必要なところに入れましょうというぐらいだったんです、最初の予定では。

———開演前の「早く始めろよ」という雰囲気、あの時はステージ上が緊迫してるというのが見えてたんですか?

河原 半分くらい。私は1カメだったから宮沢さんから離れられなくて宮沢さんと控え室にいたんです。でも藤井さんから入ってくる情報が「早く始めろ」と言ってるらしいと。だけど、リハーサルのときもそんなに大変な状況とは思ってなかったんですよ、正直言って。「もう始めるんだって!」ってみんなが準備し出したあたりから、これはただ事ではないって気付いて。

———楽屋でカメラまわしてたのはよかったですね。登場前のあの緊迫感!

河原 覚えてなかったんですけどね、まわしてたこと。宮沢さんも「俺がいなけりゃ始まらないんだから」って言ってたでしょ。編集のときに気付いたんだけど。すごいこの人って思って。でも焦ってましたよね。それでステージ上がる前も、どうしようという思いもありつつも、腹決めようということなんでしょうね。始まってからサウンドチェックしようなんてこともなかなか日本じゃないことだから。日本だと準備にいっぱい時間を割けるわけだから。

———ゲンタさんの提案でそれまでの1曲目と変えて「Save Yourself」にしたじゃないですか。イントロのセッションを長くやってるからその間にサウンドチェックしようって。ああいう提案はやっぱりゲンタさんは海外でのライブに慣れてるんだろうなと思いましたね。1曲目がそれまで通り「抜殻」でMIYAの歌から始まるようだったら音がちゃんと出るかわかからないですからね。

河原 そうですよね。それでも宮沢さんたちはやり遂げたんでしょうけどね。でもあそこで「この曲でサウンドチェックしよう」って言って実際にやれるのはやっぱりみんな骨太だからなんでしょうね。

———司会者がステージに出てきてライブが中断した瞬間はどこにいたんですか?

河原 そのときは表にいて、司会者が出てきちゃって宮沢さんが引っ込んだからヤバイと思って裏にまわったのかな。

———それはアクシデントに気付いて?

河原 絶対宮沢さんは何か言うはずだと思ったんです。トラブルだと思ったから。宮沢さんの表情は押さえなくちゃと思ったんだけど、間に合わなかったんです。裏まで行くのに人がいっぱいで。あのとき盛り上がってたじゃないですか。

———じゃあメンバーと主催者側のやり取りというのは見えてなかった?

河原 そう、見えてなかった。だからマルコスが「もう1曲やらせろ」って言ってた状況は見えなかったです。

———再開しての「ちむぐり唄者」はステージの上から撮ってましたよね。

河原 盛り上がりましたよねー、「ちむぐり」は。

———あの「ちむぐり」は一生忘れないと思います。自分はああいう場面で何もできなかったという悔しさと、最高のパフォーマンスをみせたバンドへの誇りというか。クラウディアもあのときはじめてステージ前まで踊りに出てきたんですよね。

河原 だけど、帰国後の編集でカーツさんは「ドイツのシーンは落とそう」って言ってたんです。

———落とそうって?

河原 ドイツのあのシーンは番組の中に一切入れないって。何で落とそうかと思ったかというと、帰国してからもう一度宮沢さんにインタビューしに行ったんですけど、そのときに「全部が全部を出して希薄に伝わるよりか、もしカットできる部分があれば思いきってカットして伝えるべきものを伝えるやり方でいってください」と言われたんです。カーツさんは宮沢さんと付き合いが長いから「もしかしてドイツのことを言ってるのかなあ」って。

———あのステージから戻ってきた直後、楽屋で「もうこの話はやめよう」って言ったじゃないですか。僕もあの場にいてあの言葉を聞いて、こんな悔しいことはもう言うのはやめようということかもと思ったんですよ。この場にいる人以外にはこの話をするのはやめようということだと。

河原 私もそう思いました。だから見せることも酷だと。カーツさんとしては宮沢さんにこのシーンを見せることも酷だと考えたんです。長岡さんもあの後泣いてたんですよ、悔しくて。だけど私は、これは伝わる、この人のやろうとしているすごさは伝わると思ったんです。でも『音霊』をやるときにいつも思っているのはミュージシャンやスタッフの運命を私たちが背負うことは出来ない。だからその人たちにとって悪いと思うものを出して、世の中に間違った情報なりプロモーション的に出したくないものを出して何かが変わってしまうことは避けたい。ジャーナリスティックじゃなくて恥ずかしいんですけど、いつもそう思っているんです。どうしてもダメだと言われたときに「いや、コレはどうしても必要なんです」とこちらが主張しちゃいけないと思っているんです。これだけつきあって「ダメ」と言われるんだったらじゃあダメなんですね、というふうに思っているんだけど。……最終的にドイツのシーンを入れようと決めたのは杉山さんの言葉なんですよ。書きにくいと思うんだけど、編集スタジオで、「河原さんたちがドキュメンタリーを作る人間としていいと思うんだったらちゃんとやってください」って言ったでしょ? そうだよね、と思って、そのとき。それでこれはきっと入れたほうがいいと思った自分を思い出しました。それで「やろうよ」ということを強く言えるようになったんです。宮沢さんたちもドイツのあのシーンも問題ないと寛大でしたし。

———うわあ。僕は「ドイツのシーンを入れない」なんていう選択肢があったことを今知りました。あのシーンは絶対に必要だと思っていたので。

河原 え、本当ですか? あのとき知っててそういうことを言ってたと思ってた。それで言ってるんだと。

———いや、僕はポルトガルでのフライヤ配りのシーンで自分が出ているところが恥ずかしくて、そういうメンバー以外のシーンは削って欲しいなあと思いつつ、でもここはドキュメンタリーとして必要なんだったら仕方ないなと。ドキュメンタリーとして必要ならそのままいってください、という意味で。

河原 うわあ、そういう意味だったんだー(笑)。

———僕も楽屋で「この話をするのはもやめよう」という言葉を聞いた時点では封印かなと思ったんですけど、でもそのあとホテルに帰るバスの中でもうみんなが「次」に向かって盛り上がったじゃないですか。次はどこに行きたいって話で全員が盛り上がったし、ホテルでのMIYAのスピーチ、「また来年もやるんだ」という言葉を聞いて、もう完全に前向きになったんです。だから楽屋での「この話はもうやめよう」という言葉は、主催者側に対する怒りを口にするのはもうやめようということだと思ったんです。

河原 あー、なるほど。愚痴るのはやめようと。

———そう。だからホテルのスピーチでMIYAが「このドイツもブッキングの担当者が苦労して僕らをこのラインナップに入れてくれたんだから」と、出られること自体がラッキーなんだということを話したじゃないですか。ああいうのすごいなあって。

河原 ああいうスピーチができるってすごいですよね。2、3日たって消化してたら違うでしょうけど、ライブが終わって数時間後にああいうことを言ってるんですからね。

———ドイツのあの中断シーンが無かったら最後のあのMIYAのスピーチの意味もわからないじゃないですか?

河原 でもあのシーンが無くてもある程度はできるんです。ポルトガルでゼロから始めてポーランドであったかいものがあってと。番組的にはそれでいいんじゃないかと。ドイツはただライブがありましたってことで繋いでもできるんです。

———あー、全然考えてませんでした。もうMIYAのあの言葉で、本当にこのツアーの一員でよかったと思ってたし、この悔しさは来年晴らしてって思ったし。

河原 あのとき気持ちよかったですね。

———帰国後のインタビューでMIYAは「歌を届けに行くのがいかに大変か、いかに喜びが大きいか、ヨーロッパで分かった。本当にやってよかった」と言ってたじゃないですか。あんなこともあったけどドイツの体験で自分たちに足りないものが分かったし。

河原 宮沢さんはインタビューで普通のこと言ってるでしょ。言葉がうまいとかじゃない。最初はインタビューにうまく答える人だと期待していたところもあったんですが、すごく普通のことを言う人だなと印象を受けたんです。でもやってることがああいうことで、インタビューはただ本心を普通に言ってるだけだから、ああやって番組の中にインタビューが入ってくると、ものすごい説得力になってるんですよね。一貫してるから、嘘が無いから普通に話すことが一番いいんだろうなって。なかなかああいうインタビューというのは今までなくて勉強になりました。

———編集している最中というのはかなり迷いがあったんですか?

河原 ありましたね。見ては直して見ては直してで、何回も直して。ドイツはやっぱり一番迷ったところですね。ポーランドは一回でOK。ポルトガルはまあまあ。ちょっと変えたぐらい。ドイツが一番迷ったかなあ。

———この『音霊』に入ってないけど、河原さんの中で強く印象に残ってるシーンは?

河原 リスボンの市内からライブ会場まで5時間かけて歩いてきたカップルをうまく表現できなかったのかなあというのはありましたね。あのライブに集まった人たちにいろんな人たちがいたというところが表現しきれてないでしょ。もうちょっと生かす方法があったかもしれないと思うんです。温度はどのぐらいで——寒かったですよね——その中でこの人たちはまた市内まで森の中を歩いて帰るんだとか。そんな状況の中、おじさんも子供もノリにノッてたし、日本人もポルトガルの人も同じように笑ってたし。そこらへんを表現しきれなかった。

———でも、それは限られた時間で説明するのはすごく難しいと思います。

河原 ……でも宮沢さんて相当高いモチベーションを持ってないときついですよね。人がやってないことをやるんだから。

———向上心。

河原 だって宮沢さんが崩れたらみんな崩れる状況ですもん。でも全然そうならないのはあの人が強いものをちゃんと持ってるから。

———この『音霊』の中でも言ってるけど、アルゼンチンで自分と一緒に歌ってくれた人が5000人いた、その映像が自分の頭の中に残ってるからそれを何度も追い求めたくなる、と。それなんですよね。だからってなかなか追い求めることができるなんて人はいないと思うんですよ。一回そこまでいったらもう満足しちゃうのが普通で。でもMIYAはそれがあったからまた追い求めたい、その次はもっと遠くでとか、もっと広くとか、そこがすごいですよね。……さて、この『音霊』がいよいよ3月にはDVD化されて発売になりますが。

河原 放送後も『音霊』のホームページに異例の多さで反響がありました。パッケージ化されることもうれしいですけれど、一緒に1年以上やってきた宮沢さんのチームがいいと思ってくれたことが一番うれしかったですね。『音霊』って一筋縄じゃいかない人たちが多いんですね、宮沢さん含めて。こちらはいつも真剣勝負でやってるけど、できあがった番組を見てないミュージシャンもいるんです。「あ、見てないです」とかね。でも宮沢さんは見てくれて、スタッフの人たちも「よかった」と言ってくれてることがうれしいですね。

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