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家族の断捨離

こんばんは。
前回のnoteから2週間。

無事(?)20日の予定日を過ぎ、家でまったり過ごしている日々が続いております。
明日は予定日を超えると分かっていたかのように先週予約を入れた定期検診です。
体調の変化は特になく、「しいて言うなら」程度の変化しかありません。
とにかく赤ちゃんはお腹の中で生きています。
ほんとは下腹部が痛くなると思うんだけど、上の方が痛いのは何だろ。
とにかく赤ちゃん3キロ超えてるので重くて細切れにしか寝れません。
昼間の方が寝れるのはなんでだろ。

話は変わりますが、この前朝方目覚めて寝れなくて「果たしてわたしなんかが母になれるのだろうか?」と
マタニティーブルー的な答えがない問題に頭を突っ込む時間がありました。笑
それで、自分が子どもだった頃のことを何となく思い出してしまったんですよね。
そしたら、マタニティーブルーってゆーより。ただの鬱になる寸前でした。笑
知らんけどめちゃくちゃ悲しくてオウオウ泣いてしまった。

ここからは怖いもの見たさというか、痛々しいことが多くなるので
読みたくない方はスルーしてください。
この後の点線から始まります。


これは決して、わたしの不幸自慢ではなく
ほんとに経験したことと、その頃のことを思い出して思ったこと
同じことがこの世のどこかで起きていないことを願って書きます。(デカく出たなw)
もし近くに似てる子がいたら助けてあげてください。(と言っても無闇に話しかけたら不審者扱いされるのかな?笑)

母になる、ということがよく分からないままもうすぐ赤ちゃんが産まれます。
きっとみんな、母になるってどーゆーことよ?!と手探りで第一子を育てていくんだと思う。
けど、わたしには見本になるような母は居なかった。
3人も経験したのに、居なかったんです。
産みの母に育ててもらった方でも、自分と相性が合わなくて苦労された方もたくさんいると思う。
そーゆー人の方がわたしより大変なのかもしれない。
意外と母親とうまくいってる女性って少ないんじゃないかな。


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わたしの産みの母は20歳で父と結婚、21歳でわたしを、25歳で弟を産んだ。
27歳で歯医者と浮気して、本気になって出ていった。
父は許さなかった。
断固としてわたしたち姉弟の親権は母に譲らず、仕事のために小さい頃から父の母、祖母に預けられた。
祖母は若かったので祖母の隠し子では?なんて、祖母の会社の人に言われたりした。
血の繋がっていない人にたくさんお世話になった。(覚えてないけど)

わたしが6〜7歳の頃には母は居なくて、それでも毎日ポストを見て手紙が来ていないか確認した。
今思うと子どもは無条件に母親を信じてるんだね。
それでも祖母との暮らしは楽しかった。
父は関東、祖母と弟と3人で7歳まで福島で暮らした。
冬になると空き地に作った雪の滑り台が楽しかった。

7歳の時、父は再婚した。
「新しいママだよ、よろしくね!」と言われたけど、幼心に
(なんで?ばーちゃんとこのまま暮らしたいのに)と思っていた。
祖母は福島に一人残り、私たち新しい家族は関東に引っ越した。
小学2年生からの新しい学校、新しい家、新しい家族、新しい生活。
何にも楽しみじゃなかった。不安だった。福島に帰りたかった。
最初は楽しそうに振る舞うも、そんなことが続かない予感はしていたんだと思う。
この頃から人を見る目の直感的なものが身についていたんだと思う。


7〜13歳

2番目の母は若くてヒステリックだった。
看護婦をしていて、マンションから子どもの足で歩いて30分くらいの総合病院に勤めてた。
わたしは鍵っ子で、弟は保育園。
保育園にはわたし一人で迎えにいくこともあった。
よくやったのが鍵を家に忘れて学校に行ってしまい、家に入れないため病院まで鍵を取りに行ったこと。
今思えば精神的に不安定で忘れ物が多くなっていた気がする。
病院の手術室の手前の会議室に何度も行ったことがある。
そこでママを待ち、鍵を受け取る。
ただそれだけなのに当時24歳だったママは小学生の子どもが居ることが恥ずかしいのか
鍵を忘れるわたしに怒鳴り散らかした。
(そんなに怒鳴り散らすほうが恥ずかしいって思わないの?と言ってやりたかったw)
鍵を渡してもらえない日もあった。
そんな日は同じマンションの友達んちに遊びに行ったり、外で友達とひたすら葉っぱを駐車場で並べて遊んだりしてた。(ナゾ笑)
ある冬の日、雪が玄関の前に積もっていてママが帰ってくるのを待ってた。
また鍵を忘れた。
でもこの前も忘れたし、もう病院に行っても渡してもらえないし、ママに恥ずかしい思いをさせてしまう
と思うと取りに行くのもだるかった。
弟の保育園のお迎えをして帰ってきたママに普通に家に入れてもらえると思ったら
わたしには「そこで反省してなさい!」と雪の中裸足で立たされた。
あ〜あ、パパ早く帰ってこないかな〜。寒いな〜。
ぼーっと玄関前で外を眺めていたら上の階に住む家族が帰ってきた。
「何で裸足なの!うちにおいで!」とそんなに仲良くない子のお家だったけど、お邪魔した。
あったかい飲み物をもらって、玄関でいい、と言うわたしを家にあげ足を拭いてあったかい部屋に通してくれた。
「一緒にママのところに行こうか?」と言ってくれたけど、余計怒られる気がして怖かった。
でも、今この瞬間一旦いなくなってるわたしに気付いていれば、もう一緒に行ってもらった方が良いのだろうな
・・・なんて細かいことを考えなくてはならない子どもだった。
結局、それが2〜3回あった。
もちろんママは怒り狂った。
顔見たくない!部屋にいなさい!とトイレに行くのも怖かった覚えがある。
怖いと言っても最初は怯えていたけど、だんだんと
怒られるのがめんどくさいし、うるさいし、ダリーな・・・
という感覚にどんどん変わっていった。
そんなことがあったので、近所に迷惑かけるのもどうかと思ったのか、
病院に鍵を取りに行くとすんなり渡してくれるようになった。
これは良かった。
鍵を忘れる私が悪いけど、最初からすんなり渡せよ・・・と子どもながらに思ってた。
きっとわたしがなんとなくママをバカにしてるのが態度に出てて、気に食わなかったのでは?と今になって思う。

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えーーーーっと、、、長くなってるな笑
そうそう、わたしは母になるんだよね、うんうん。笑
ついつい昔のことを思い出すとその時のことをくさりのように色々思い出してしまって
長くなってしまう。。

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他にも、怒鳴られ案件や嫌な思いだらけで・・・
・キャベツとレタスの買い間違いでキレられた
・ノンフライ麺じゃないカップ麺を買っちゃって怒鳴られた
・まずいご飯をまずそうに食べてしまった(キッシュだったんだけどカチカチだったw)
・夫婦喧嘩では包丁を振り回す。パパが大変そうだった。
・弟はわたしほど厳しくされてなかったけど、弟もわたしも体調悪区なるとそのことを言えなかった
・夏休み、冬休みは作り置きのご飯。美味しくなかった。
・宿題がなぜかできなかった。集中力がないだけじゃなく普通に病んでたんだろうな。病んでたから集中力なかったのかも。
・着たくもないフリルの服をお揃いで無理矢理着せられてた。ママもわたしも似合ってないのに。
・脱毛症になって「何か悩んでるなら言いなさい!」と言われ「特にない」と言うとキレ散らかされて
 (いやwそれだよw)とは言えずに黙るしかなかった。
・怒られたらとにかく時が過ぎるのを待つ
・自分が悪いと思ってなくてもとにかく謝る
・泣いたら負け
・絶対にやり返さない、不利になるから

パパもメンタルやられてたんだろうね。
ある日突然祖母が福島から来ることになった。
も〜う天にも登る気持ちで嬉しかった。
もちろん、心配かけるからママのことは言わないけどね。
よく覚えてないけど、その時確かママは妹を妊娠してたんだと思う。
そして妹が生まれて間も無く別居することになった。
パパはママに変な薬を飲まされて入院してしまった。
(これは本当に警察沙汰だったんだけど、パパは訴えなかった。妹が産まれたばかりだったからかな?)
祖母がそばにいてくれたから何だっていーや〜なんてわたしは呑気だったし、離れられて良かった〜と思っていた。
その頃ちょうど何回目かの生理で、祖母に生理用ショーツやスポブラを持ってないことに驚かれた。
母親としてアイツは何もやってなかったんだな、とママのことを怒ってた。
叔母(パパの妹)や祖母に一式買ってもらい、(はぁ、こーゆーものなんだ〜)と思った記憶。
わたしは何かを買ってもらうことにも抵抗あったし、叔母と祖母はわたしのこと思って泣いていた。
何だか、わたしって可哀想な子なのかな?と自分で思った。

パパにはそんなにママのことを話さなかった。
きっとパパも私たちのために母親が必要な時期だから〜と再婚したんだろうし
ママのことを言ったところでパパはすぐには解決できない気がしてたから。
とにかく時が過ぎるのを待つ、それに限る!!と思って過ごしてたな。
正直に、ママ嫌だ、こんなことがあって怖かった、嫌い、と言えたら何か変わっていたのかな。
そしてわたしはガマン強い子どもになってしまっていたんだなーと、今思い返すと悲しくなる。
大人に気を遣って生きていた。というか、そうじゃないと生きる術がなかったから
そうするしかなかったかのように思える。

時間系列がちょっと進むんだけど22歳のころ、わたしはアパレルでバイトしてて。
そのお店にわたしが休憩中にわたしを訪ねてきた女性が居たよ〜と副店長に聞いた。
特徴を聞いたらママだった。
怖かった。
もう絶対会いたくないのに、なんで会いに来たんだろ。懺悔??
今ももう二度と会いたくない・・・
早くこの世からいなくなって欲しい。(言い過ぎ。でもそのくらい嫌悪でしかない。)

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ここまで書いてて疲れちゃったな笑
でも何で書くのかって、もう思い出したくないから〜というのもあるし
今が幸せだから思い出せるという矛盾した現実。
このことを丸っ切り忘れることなんてないんだろうけど、忘れて生きていくためには
記さなければ〜と思ったんですよね。
これから辛いことがあったときに、こんなことも乗り越えてきたんだから大丈夫に決まってる!と
自分への喝でもあるというか。
そもそもは「母になるとは?」とゆーところから派生してるんだけどねw

まだまだ、わたしが経験した「母」はもう一人いるんだな〜。

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13歳〜

3番目のママは穏やかだった。
今回はいつの間にかうちにパパの彼女として来るようになり「新しいママです」なんてぎょうぎょうしいものは無く。
え、いつの間に結婚したんだ?と言う感じ。
もうわたしも弟もなんとなくモノがわかる年齢だったしね。
というか、わからざるを得なかったように思う。
ちゃんと説明はして欲しかったな。

(ほんと、最初のママと離婚して、福島で祖母と暮らしていた時が一番楽しかった。)

そんな感じでフェードインしてきた3番目のママ。
彼女はわたしの14つ上で、お姉ちゃんのような存在だった。
よく話を聞いてくれて、優しかった。
でも、私たちの母親として覚悟して嫁に来たというよりは、ただ単にパパのことが好きで来たんだろうな〜という感じ。
だからわたしの中の位置付けも「ママ」ではなく「パパのことを好きな人で家のことをやってくれる人」だった。

しばらくして弟ができた。
わたしはその時中学2年。
早くこの家を出た方がいいな・・・パパの家族なんだ、ここは。
わたしの居場所は自分で作らなければ、なんて思うようになって、進学はどうでも良くなった。
ママはつわりがひどく、よく背中をさすった。
弟が産まれたら可愛くてしょうがなかった。
偽善とかそーゆー感情はなく、本当に愛情いっぱいに弟を一緒に育てた。
弟が3歳の時、妹ができた。
わたしは高校2年。
気持ちは変わらない。そのためにめちゃくちゃバイトして、男に媚びる術を身につけた。笑
妹は早い段階でお腹で育たなくなり、ママは病院に行くことが増え。
妹は1000gいかずに産まれた。
どうやらママの命も妹の命も危なかったらしい。
でもパパはどっちも救ってくれと医者に懇願したとか。
(ま、そんなことはわたしには関係ないんですけど。というのも、わたしが妊娠したと報告したときに
 この話されて「うん、で?」って感じてしまったwオメェの人生だろがっwwwみたいに思っちゃったわたし。汗)

妹のことも弟のこともすごく可愛かった。
と、同時にバイトと男で家にいることが減った。
早く家から出たい、誰かと出来ちゃった結婚しちゃおっかな〜なんて思ってた。
とにかく「パパが作った新しい家庭」に居場所を感じれなかった。
でも、ママの子どもに対する愛情を見ていたら(あ〜、母ってこうあるべきだよね)と
学べることもあった。
でも、妹の障害があり虐待まがいのようにヒステリックになることもあったので目が離せない時もあった。
わたしは高校を卒業し、出来ちゃった結婚をすることもなくw
実家から通える範囲の職場を見つけ、家族の世話(と言ったら大袈裟だけど)と男と仕事に明け暮れた。
わたしはその時20歳。
この頃、お金目的で産みのママに会ったけど「ゆーちゃんはお金目的で私に会ったの?」と言われた。
いや、逆にそれ以外何があるんすか?・・・とは言えなかったし、3万のネックレスしかゲット出来なかった。
成人のお祝いで30万くらい貰えると踏んでいたのに大誤算。笑
もう二度と会うことは無かったし、これからも無い。

この頃、上の弟が統合失調症を発症して毎日にように体を傷つけて血まみれだった。
週に1回は病院に運ばれて傷縫ってたかな。
妹はてんかんがあったし、ママも精神的に不安定だしでなんだかんだ大変だった。
救急車ってマジで揺れないんだね、という印象。
救命救急の人に「またですか・・・」と呆れられたこともあった。平謝りよね、もう笑
でも、上の弟も妹も今、生きてる。
すごいよね、人間って。生きてりゃ何でもできるんだよ。(話がいきなりデカいw)

ま、そんな上の弟も今は家族と縁をほぼ切って婿に行った。
連絡も取らないし、ただ精神的に安定した結婚生活をしてるみたいで良かった。

ママは自分の母親が体が悪くなってから、この2年で介護の資格を取り、勉強して今は障害児施設で働いてる。
妹は同居してるパパの母、つまりわたしを育ててくれた祖母と相性が合わず
障害児施設に住んでる。
年に4回10日ずつ帰って来るから、それに合わせてわたしも実家に帰ることが多い。
コロナになってからは全然会えてなくて去年の夏に会ったきり。
彼女はもう18歳。言葉はうまく発せないけど、自分のことはある程度できるみたい。
これも施設生活のおかげなんだとか。
人ってすごいね。
あの時、死ななくて良かった。(何回言うんだよって感じだね)
下の弟は元気に夢を叶えていて、うちで唯一大学進学した。姉として本当に誇らしい。今でも大好きだし小さい頃のまま気持ちが止まっている。
何でもしてあげたくなっちゃう。笑

さて、ここまで「なんだ〜、3番目のママは良さげじゃね?!」と思いますよね。
ところがどっこい(←古い)わたし気付いてしまったんですよ。
わたしの愛情を利用されていたんじゃないかと。
わたしが妊娠したのに、彼女はなにかしてくれるわけでもなく。
何なら「ばーちゃんがやりたがってるしわたしが関わらない方が良いでしょう?」とでも言いたげ。
なのに妊娠中のわたしに関係ない祖母との関係が悪化したことの愚痴で電話してきたり。
え?電話なんて2ヶ月に1回するかしないかなのに?この電話はわたしの体調を心配しての電話じゃないんだ?と思ったことが何回か発生。

彼女は彼女で自分の人生で一杯一杯なんだな〜と、引いて見てしまうわたし。
冷めてるとゆーか、人のこと下に見ちゃうの良くないね。

でも、そりゃそうだよね、自分の家族がやっと手から離れるようになって自分の好きなことを探して社会復帰したんだから
絶対自分の人生を謳歌するのに今が大事だし楽しいよ!
ずっと障害児の妹を育ててきて大変だったよね。わかるよ。
そこに14歳下の戸籍上だけの子どものわたしが妊娠した〜ってなっても
「すみませんけど、そっちはそっちで〜」なんて思ってるんだろうな〜と感じるわけです。
いや、わたしも頼りたくないしなるべくなら自分の家族でやっていきたいと思ってますよ。
・・・・でもさ、、、あれ???
あなたが困ってる時、わたしそばにいましたよね?
そばにいていろんなこと手伝ってましたよね?
進学もせずに、働いて自分のお金は自分で稼いで迷惑かけたことなんて数えるくらいしかないですよね?
弟、妹にめちゃくちゃ貢ぎましたよね?
なのに?
わたしは色々やったのに?
いや、別に当時はそーゆー見返りが欲しいとかのつもりで手伝ってたわけではないけど・・・
にしても・・・そりゃなくない?笑
え、これって愛情搾取?!・・・となったわけであります。
そんなわけで、これが産みの母だったらどうだったんだろうな〜と思ってしまうきっかけにもなったというか。(いや、あいつはあいつでクソビッチだからな〜なんて思ったり笑)
(口悪いw)
わたしはどこかでこの家族に見返りを求めていたのかもしれない。
弟と妹のことは好きだけど、ママに対してはきっと「パパの恋人」としてしか見れなかったし
きっとママも「パパの子ども」としてしか見れなかったんだと思う。
苦労した分、返して欲しい。
わたしの時間。
今までわたし、もっと自分勝手にやってくれば良かった。
家族のため、パパのため、弟妹のため、ホスピタリティーという言葉で片付けられてしまうんだよね、コレ。

それがやっと辞めれる。

自分のため、子どもと夫のため、猫のために。
きっとこの日をわたしは待ち望んでいたんだ。
何かをきっかけに、解放されたかったんだ。
このまま子どもの顔もみんなに見せないまま縁を切りたい。
さようなら、わたしの重荷。
もう愛情搾取を回収するのも辞めようかな、悔しいけど。
もう関わらないのが自分のためな気がする。
なんてったって関わるとメンタルが乱れるから。
ほんと、慰謝料欲しいw
いや、でも、もうそんなことすら思いたくないんだ。
わたしは家族と離れたいんだから。

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と、ここまでつらつらと自分の過去に区切りを付けるために書いたけど。

わたし、こんなことに想いを馳せてる場合じゃないんですよねw
もういつ産まれてもおかしくない大きなお腹。
新しく生まれようとしている赤ちゃんとともに頑張らなくては!!
母親だけが痛いんだと思っていたら、赤ちゃんも必死で産まれて来るらしく。
「産んでと頼んだ覚えはない!!」なんてセリフがドラマとかであるけど、
だったらマジで胎児死亡で自ら死を選んでるということもなきにしもあらず、らしいです。
だから、10ヶ月お腹で育ってこのまま出産できれば、生きたいと思ってこの世に産まれてくる
本人の意思なのでは?と思ったりしました。
うちは「わたしはわたし、あなたはあなた」スタイルだけど、あなたが何も出来ないうちは守りますから
一緒に大きくなりましょう。

お勉強させていただきます。(黒革の手帖の武井咲キレイでしたね)


それでは、良い夜を。

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