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映画みたいな人生

 モンスターコールズ、すっごくよかった。
 原作を読んでから観たんだけど(ただ、どうしても新鮮に楽しむべくやっぱり後で読むべきだったかも)、本当に出会えてよかったなと思える作品だった。私は死にまつわる話には諸々の理由でちょっと斜に構えてしまう節があるんだけれども、物語で救われることは確かにあると思えるお話しだった。

 勝利くん、本当によかった。たぶん勝利くんより演技が達者なひとはもちろんいるんだろうけれど、あれは勝利くんが演じるべきと思える役だった。時々言葉が平坦になるのも、怒りが爆発することも、拗ねたような態度も、なにもかもよかったなあ。コナーって不条理ばかりぶつけられて、特別になりたかったわけじゃないのに急に特別に選ばれて、怒って当然なんだよね。でもなかなか現実で上手く怒ることなんてできなくて、だからこそこんな形で発散した感情を見れたことがよかったなあ。この役を引き寄せられたことってすごい。あまりセラピーという言葉は軽率に使いたくないんだけれど、勝利くんの心や、同じような立場になっている/なっていた人たちの心を優しくささえるお話しだったと思う。
 舞台的なことで言うと、ロープと椅子がメインでアンサンブルの振り付けと共に展開される構造は大好きだった!とくにロープはかなり緻密で難しそうで、それだけにイチイの木が「できていく」過程に魅せられてしまった。
 勝利くんが雑誌で、「板の上ではみんな人間の本質を考えている」って話していたことが印象的で、小手先だけではやりたくないって話してる勝利くんにぴったりの、真実を探求することができる場所だなと改めて思った。また違うストレートプレイが見たいし、欲張りなのでSHOCKも観たい(落選しました)

 内容については、なんというか語りたいことがつきなくて、でも私はその考えをきちんと項立てして言語化できないので(今飲んでるし……)、思うがままにつらつら書いていこうと思う。

 とにかく、「物語って暴力的」って言葉が印象的だった。舞台でもお母さんは病状を理解しているのに信じたい心から(そして息子を失望させたくないから)「よくなる」って言い張って、お父さんは「お前から友だちや学校は奪えないよ」とアメリカに連れて行けないストーリーを勝手に描くし、コナーは疲れた心を夢に見て、「僕が願ったからお母さんは死ぬ」と自分を責める。物語には現実や論理の縛りがないことをいいことに、ときに嘘を信じたいがために、そこにはなんでもありな世界が生まれてしまう。
 事務所問題もそうなんだけど、何かの構造的、システム的な問題を考えるときにストーリーを持ち込むと、その本来の問題が曖昧になって、本質的でない議論になっていくことが「かなり嫌」だなと思うことが最近増えていた。ひどくなると単なる陰謀論とかになるし。でもそれだけ私って(世の中って)物語性に惹かれてしまうという裏返しなのかもしれない。なんで物語に惹かれちゃうんだろう。結局人の心を動かすのは人の気持ちだからなのかな。でも時々SNSとかでも、気持ちが暴走したり、そもそも上手く伝わらなかったり、正義というストーリーが一本道で排他的に描かれたり。だからこそあえて自分の感情と逆を意識しようとしてみたり、なんかいろいろ考えることが多かった。究極、あんま考えたくねーなー、みたいになって考えて悩んでも損!ってなってみたり、だけどそうやって投げ出すのは悪?とか考えてみたり。ただ好きなだけだしとか言ってみたり。去年の秋とか、いちいちそうやって自分に言い訳するのも疲れてきてた気もする。

 でも、だからこそいまこのお話が見れてよかったなって思った。コナーが疲れて終わりたいって気持ちを持ったことが少しでもあること、それと母の病状は「違う」と否定すること。気持ちは自由で、ときにコントロールもつかず、自分でも理解できず、扱いきれなくなるけれど、「行動していない」ならばそこに結果を結びつける必要はないこと。物語は暴力的だけれど、嘘をつくけれど、確かに真実は含まれていて、どれを選び出すかは最後私の行動だということ。それで捨てられる物語や人生もあるけれど、自分にとって真実を選べたと信じること。
 最後確かにコナーが物語で救われて、本当によかったなあと思った。物語は凶暴で、手に負えなくて、時に過剰なまでに先鋭化してしまうこともある。でも確かに人を救う力があって、わたしはまだそこを信じてたいなと思う。

 話は変わるけれど、コナーは学校の宿題で「ライフライティング」を振られることが結構印象的で、人生の物語性ってどういうことなのかなって考えたりした。
 私は仕事でしばしば人の臨終や、そこに向かう過程に立ち会うのだけれども、そうなると軽々しく未来の話なんてできなくて、ふとした会話はちょっとした思い出話が多くなる。そのひとつひとつが本当に印象深く、言葉を聞くだけでふっと頭にイメージが過るような、あるいはその話をしている人たちの顔が忘れられなくなってしまうような、そういう話を聞いているときに「人生の物語性」を感じている。たぶん話している人たちはそこまでその物語を意識してないのかもしれないけれど、私は結構全部覚えていて、たとえば「大学の食堂で働いてた女の子に勇気出して話しかけて、今の妻です」とか、「昔は電話の交換手の仕事があって交代制で大変で」とか、「炭鉱が閉鎖になって家族で移住してきて」とか、あるいはもっと日常の「朝ドラを見てるんです」とか「車で歌うのが好きで」とか「家族で外食するなら必ずお寿司で」とか。その人の記憶や感情を、その人が思い出しながら話している姿って、本当に物語が聞こえてくる。正直生きていると毎日ドラマのようには生きられなくて、しんどいなあとか、なんだか毎日なあなあだなあとか、または言葉で表せない苦しみも当然あったはずなんだけど、私はそのいちばん素敵な上澄みを本人たちの言葉と表情で聞くことができてしまうラッキーをいただけるので、いい仕事だなあと思ったりもする(そうじゃないことも多いけどね)。

 最近は推し活でも、勝手に推したちの物語性を想像してつくって消費してしまってるなと思って、なんだか正直自分に嫌気や疲れを感じてる。でもやっぱり、誰しもがたくさんの物語を持っていて、それは全部が全部めちゃくちゃドラマチックでないかもしれないけれど、そこにリアルの手触りと思いと真実があるから、どうしても心が動いてしまう。時間が経てばより修飾もされてしまうかもしれない。アイドルなんてましてやその生き方を覗かせてもらって、一番いいところだけ見せてくれているから、わたしなんてすぐに物語をそこに見出してしまう。けれど真実なんてひとつではなくて、物事は多面的で、心は移ろいゆく。わたしがアイドルを好きな限り、もちろん気持ちは自分の自由なんだけれど、どこからを行動に移してよいのか、移すべきなのか考えることだけは忘れてはいけない。それでも、そうやってバランスをとりながら、ゆっくり応援できていければいいなあ、といまは思っている。

 最近はもろもろ気持ちの浮き沈みもあり、あまり全てを追いかけきれてないんだけど、さっきケンティーのインタビューをようやく読んで「映画のような人生を」って言葉を見ておお、って思わず唸ってしまった!わたしなんてなんだかめちゃくちゃ綺麗な空だなあってときにも、高校生が笑いながら走ってるのをみただけでも、子どもといっしょに寝てるときでも、なんかふとしたときに「映画のワンシーンみたいじゃーん!最高!」って思ってしまうタイプだから笑、もう十分ケンティーの人生は映画丸々一本つくれるよ!?って思うんだけど、きっとケンティーの考えてる映画は私の想像を遥かに超えた、大スペクタル超大作なんだろうなあ。みんな生きてるだけで物語があるけれど、それをもっとドラマチックに、刺激的にしたいと願うエネルギーって、本当にすごい。ほんと、わたしには持ちえなかったエネルギーに惹かれたんだよなあ。その物語をどう読んでいくのか、週刊少年ジャンプを早読みするのか、単行本出たら買うのか、アニメ化したときにまとめ買いするのか、どういうスピード感、熱量で追うのかはまだ正直想像がつかないけれど、そっと、ずっとどんな形でも見続けられたらいいなっていまは確かに思っている。
 わたしはふとした瞬間にアイドルを消費してしまってきたし、これからもしてしまうかもしれない。その暴力性って考えはじめるとキリがない。けどきっとセクシーゾーンはみんなそれでも磨かれてキラキラしてくれてるだろうなあって思ったりなんかして、また物語を勝手に書いちゃってごめんなんだけど笑、でも素敵なひとたちを応援できたなって心から感じてる。

 最後に。わたしタキサン系の抗がん剤を取り扱うことはいっぱいあったけど、イチイからできてるって知らなかった。知ったときにめちゃくちゃ泣いてしまった。それから舞台でFFさんにちょっと挨拶できて、素敵だったねとお喋りできた。なんというかこういう一生忘れないと思える記憶がいちいち増えてくのって最高なんだよな〜。推しがいると知らない土地に行けるし、普段なら会えない人と出会えるし、そんなひとたちと同じものが好きって言ってる空間、めっちゃ最高。

 病気とかってほんと不条理だからこそ祈ってる!みんな同じものを見て、元気に過ごせますように。それだけでいいよね〜!


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