かきたい

noteを書こうと思ったの
みんなが書いたnoteを読むのがすごく楽しくて、私もやってみようかな〜って思ってここ一週間ずっと書いてた

でもなかなか書けなくて、いや書いてたんだ かなりの数を書いてた
でもどれもこれもやっぱり支離滅裂で、話があっちに行ったりこっちに行ったり。

少し前にnoteを2本投稿した。
支離滅裂であることを主とし、人からの見られ方や伝わりやすさ、自意識が極限まで度外視された文章。


こういうのとか

こういうの。

この時は人のnoteをあまり読んだことがなかったし、自分のことを見ている人もほとんどいないと思っていたので、適当に書いて、公開できた。

投稿から少し経って、好きな人たち、興味のある人たちの中でnoteブームが起こった。
それを読むと、とっても面白くて、綺麗で、ぽかぽか、ぴかぴかしてたり、まったりしたり、フルスロットルだったり。

ドン!急に公的な自意識が芽生える。

この言い回しはパーソナルすぎるかな、とか、一言で言えるのに10行使っちゃうのなんか変だな、とか、話が飛びすぎて話が見えないな、とか思ってたら、下書きに10本くらい書きかけのnoteが

それも一本のnoteにつき5〜6つのトピック。同時多発的に思考が暴走していて、収拾がつかない状態。究極のマジカルバナナ。

トピックを分けて投稿しようとしても、全く関係のない話同士が結びついて話が進んでいったりするから、それはそれで内容が薄くなる。

そして毎晩、こんなものは人様に見せられないなあと途中でアプリを閉じる。

思えば私はどんな分野でも自意識や理想、妄執に取り憑かれがち。
歌とか、絵とか、舞台演出とか、脚本とか、それら以上に気楽でいいはずのnoteとか。

創作とか、ものづくりをしたことのある人なら「どのように作ればいいかを悩むよりもまずは作りきるのが大切だ」みたいなことをどこへ行っても再三口酸っぱく言われてきたと思う。

ものづくりだけじゃなく、人としての成熟が「自分は何者かになれるはずだ」というアイデンティティ追い求め症候群から「自分は確かに何者にもなれないのだ」という事実を受け入れ、地に足のついた努力ができるようになるまでのように、わたしはこの駄文を試金石にすることにした

なんの飾り気のない文章を、なんのてらいもなく投稿することで、自分の書くことなどこの程度なのだと明日の自分に知らしめてやるのだ〜

つまりハードルを下げに下げたの
空っぽのあたまをもって

「できないこと」について話している時が一番等身大の自分でいられる。
できることは、かっこつけちゃう。
逆方向にかっこつけちゃう。

わたしってばこんなにできるんだぞ、って言うのが恥ずかしくて、本当はできることをできないって言ってみたり、得意なことじゃなくて苦手なことばかりアピールしたり。

そんな自分が一番恥ずかしいなんてことわかってるから言わないでね。黙って読め

「等身大でいること」がわたしの創作や、生き方や、振る舞いにおいての一つのテーマや、美学みたいなものな気がする 早速大袈裟な言い方だな

感じたことを素直に、取り繕わず、押し付けず、ただただそこに在ることをゆっくりと咀嚼するような そんな生き方が、表現がしたい

文章を書くたび「大袈裟な言い方だねえ」って、わたしの中のババアが文句を言う

でも本当に思っているんだから、いい
それ以外に形容することばが見当たらないから、いまはそれでいい

大袈裟だってわざわざ言って保険をかけてもい
い そういう臆病さが見えてもいい

等身大ってそういうことですわよね

楽しみながらわたしだけのnote、出していきますね

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