小説✴︎梅はその日の難逃れ 第10話
「大したこと無いですから」
青年は自転車を起こして行こうとした。
しかし、彼のシャツの肩には汚れと破れがあるのを小春は見逃さなかった。
「お兄さん、肩のそこ。破れを直すから寄ってちょうだいな」
「あ、気が付かなかった」
「お急ぎ?お時間無い?」
「いや、まだ大丈夫ですが」
「じゃあ、お願いだから私に繕わせてくださいな」
千鳥も小春の声を聞き
木戸から顔を出した。
「あ、あの。小春さんなら
短時間で直してくれると思いますし
どうぞお入りください」
縁側に案内し、小春は薬箱を持って
縁側に座る。
千鳥は外の枝を片づけた。
「ちょっと沁みるかもしれないけど、消毒させてね。目をつむってくださる?」
小春は青年の前髪を上げて、消毒しようと見つめた顔に、手を止めた。
先程話したばかりの千登勢に
よく似た顔がそこにあった。
つい、ピンセットの綿を落としてしまった。
「あ、ごめんなさい。もう一回」
消毒液を染み込ませた綿を傷口に少し
触れさせると
少し沁みたのか、青年は眉を動かす。
千鳥が縁側に戻って来たので
「千鳥ちゃん、ここに絆創膏を貼ってくれる?」
「はい。小春さん、ちょっと手を洗ってくるから」
「そうね。じゃ、私は裁縫箱取ってくるわ」
小春は、さっきまであんな話をして
気持ちが娘時代に戻っていたせいだろうか。
年甲斐もなく、青年に千登勢の面影を感じ鼓動が早くなることに自分でも驚いていた。
そしてまた、千鳥も
初めて会った青年に今まで感じたことの無い感情が芽生えた。
名前も何も知らない彼の
柔らかい言葉遣いと少し色素の薄い瞳。
小春に言われて絆創膏を額に貼るとき、弟以外の男性の顔がこんなに近くにすることは、今までなかったせいかも知れない。
でも、見つめられた瞳に、自分の顔が映っていたのが見えたとき、急に心臓が高鳴った。
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