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日記124:「wowakaの命日」

穴が空く。
穴が空くと、そこには慣性の法則だかなんだかで、面白いほどに周囲の物が集まって、そうして吸い込まれていっては堆く積もるのだということを、先日ふとしたときに思った。アカウントを消しては作り、消しては作り、それを幾度となく繰り返しつつもnoteそのものを書くのをやめないのは、そういうこともあるのかもしれない。
去年、親戚が死んだ。ひとりかふたりが死んだのだが、生憎私にはなんら接点のない人物だったので、特に思ったこともなかった。
人が死んで悲しむのは心の弱いことで、心の弱い人間のすることだと、私は未だに思う。人なんていずれは死ぬのだから、そんなことでくよくよして引きずられたりなんてするのは弱さだと。
wowakaのアクリルスタンドの横に、今年はいくつか雑貨が増えた。観葉植物と別のスタンドである。別段そこまで特別な思い入れがあってそれを買い、並べたわけではない。特別ではない思い入れは、でも、確かにあった。

結局、私はどうしたらよいのだろう。
wowakaの死を延々と嘆き悲しんで、おのれの思い浮かべる強さに反してまで、そうやってずっと彼の死を悼んでいる。悼むのはずっとやっていること、彼がいずれ生き返るんじゃあないかと思うのも、もう何年もやっていることだ。気が狂っている。
なにが悲しいのかもそろそろわからなくなってきた。傷の痛みを忘れるというより、痛いのがなんだったのかが捉えられなくなっている。麻痺である。
人の死がこんなにも痛いものだと思いたくないから彼の死をとりわけ高尚に考えている節もある。怖がりなのだ、私は。
近所のスーパーマーケットが先々月くらいに閉店したとき、なんとなくwowakaのことを思い浮かべた。その店は私が生まれたころからある老舗スーパーだった。wowakaは私が初めて音楽に興味を持った瞬間から存在する人物だった。

人の死に対する思いの正解なんて端から存在しないのである。だから生者は生きるしかない。
wowakaへ。そっちは暖かかったりするんだろうか。

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