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【つながる旅行記#3】初めての稚内。貴重な1日の休日をどう過ごすか part.3

前回のあらすじ
ニートの頃のおかしな自分語りをしていたら文字数がちょっと増えすぎた。
とりあえず記念塔には着いたので稚内市を見渡す。もう日は落ちているが、休みは今日だけだ。せっかくなので近くのスポットに行ってみよう。
目指すは氷雪の門。どんなもんなのか。

氷雪の門へ

稚内市を見下ろして今日は十分満足感はあるが、せっかくなので氷雪の門を目指す。マップを見ると1キロほど歩けば着くみたいだ。

坂を下る

しかしもう18時だというのに全然明るい。
やはり5月。夏も近づいて日が長くなった。

セイコーマートで買ったカフェラテとお菓子を食べつつ歩く。
ああ、素晴らしい。
自分で仕事をしっかりやって、お金を稼いで、こうやって自由に過ごすことはなんて素晴らしいんだろう。
今までのニート期間で失った時間は本当にもったいなかったが、やっと自分の人生が始まった気がする。

そんなことをコンビニ商品の食べ歩きで思えるようになるのだから、ニートも一度くらいはやってみるべきなのかもしれない。

そんなことを思いながら歩いていると……?

なんかいる

なにか茶色いものが見えた。
しかもデカい。
これは……エゾシカじゃな……?

軽々とロープなんぞ飛び越えていく

稚内到着初日にしてエゾシカと遭遇することに成功した。
本当に居るんだ……。

考えてみれば百年記念塔は高台というかもはや山にあるので、自然はたっぷりである。シカも居るのだ。
こんな隠れる場所のないところに居るのはちょっと驚いたけど。

そんなこんなで到着した。
今日歩いてきた距離を思えば、1キロなんて問題なく感じてしまう。
氷雪の門はこのそこそこ広い公園の一角にあるようだ。

公園内には犬の像もある。
なにを記念した像だろうか。

なんとこの公園は南極探検に日本が始めて挑戦する際に、犬ぞりをひかせる樺太犬を訓練した公園だったらしい。
タロとジロの物語は自分でも聞いたことがある。
彼らはこんな日本の最北で訓練をして旅立っていったのか……。

遠い昔の物語にちょっと感動していると、なにやら気配を感じることに気づいた。周囲に目線を動かす。

何か居る
シカでした

銅像に気を取られて全然気づかなかったが、めちゃくちゃエゾシカが居た
少しは物音を立てろと。
思えばもう時刻も18時40分。
こんな公園に来ている物好きは自分以外に一人も居ない。
人の気配が無くなる時間帯を見計らって、シカたちはこの公園に集まっているのだろう。

なにを食べているんだろうか

シカたちはひたすら地面のなにかを食べている。
こちらに突進してくる様子はない。

気にせずに観光しよう。
もう流石に暗くなりそうだし。

謙虚なんだかなんなんだか

もう少し早く来ていれば北海道で1番か2番においしいソフトクリームが食べられたらしい。

あれが氷雪の門だ

氷雪の門はどうやら公園の端にあるモニュメントらしい。

近くには別のモニュメントもあった。

教學之碑

これは「教學之碑」といって、かつて樺太の豊原(今のユジノサハリンスク)にあった樺太師範學校を想い、開校50年を記念して同窓会の方たちが建立したもののようだ。
近くにある説明文を見ると、「男女共学という専門学校教育の実施は我が国最初の画期的な試みで、上田光㬢校長の卓越した教育理念によるものであった」と書いてある。
日本の男女共学は樺太から始まっていた……?

台座には樺太の石がはまっている

そしていよいよ氷雪の門である。

氷雪の門

暗くなってきたのも相まって、ものすごく伝わってくる何かがある。そして台座には「樺太慰霊碑」の文字。

近くの説明を見る。要約すると以下のような感じだ。

日本領だった南樺太(現サハリン島)には、終戦当時約42万人の日本人が生活していた。しかしソ連軍の突然の進撃により人々はすべてを捨てて祖国に逃げ帰ることになった。
この碑は帰らぬ樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人たちの慰霊のため、1963年に建てられたものである。
天気の良い日には、像の背後の宗谷海峡の向こうに、かつて人々が生活していた樺太が見えます。

そしてまた近くに別の碑がある。

「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」

説明を見る。

この碑は終戦時、樺太の真岡(現ホルムスク)郵便局で通信業務を死守しようとした9人の女性の慰霊のために建てられたものです。
島民の集団疎開が開始される中、戦火は真岡の町にも広がり、窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々と迫る身の危険の中、真岡郵便局の電話交換手は最後まで交換台に向かいましたが、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら…」の言葉を残し、青酸カリを飲み自らの命を絶ちました。
終戦5日後、8月20日のことでした。

壮絶な話だった。
電話交換手と聞いて馴染みがない人も多いだろう。自分もそうだ。
当時の電話は、かけた人とかけたい相手を電話交換手によって繋ぐことで行っていたらしい。人力だったのだ。

電話交換手が居なければ通信は成り立たない。
ソ連軍の攻撃がすぐそこまで迫っていても、業務に従事していた9人の女性たちは最後まで業務を続けた。
そして本当に最後の最後、青酸カリを飲んで命を絶った……。

なんということだろうか。
そんな出来事があったことを、無駄に長く生きているくせに自分は何も知らなかった。

電話交換手は10代~20代の訓練と試験を受けた人のみが就ける当時の女性の花形職業だったようだ。
そして新潟日報の記事によれば、日本全国で多くの電話交換手達が自分たちは逃げずに通信の維持を続けた。警戒警報や空襲警報が発令されても、彼女たちは逃げることは許されない。空襲や軍からの情報を伝え続けるために。

平和ボケも甚だしい自分にはあまりにも遠い世界に感じてしまうが、当時の日本にはそういう事が起きていたのだ。戦争とはそういうものなのだ。

稚内に来たことではじめて、樺太という存在や当時のソ連軍の侵攻というものが自分に関わりのある情報として考えられるようになった気がする。

自分は何も知らないし、
知っていることもちゃんと考えてなんて居なかったのだ。

この地を訪れた昭和天皇による御歌

……帰ろう。
歳だけとってもなんの意味もない。

自分は人と触れ合うのが苦手だ。
勉強も本を読むのも苦手だ。
そうしてきた結果が、何も知らないまま、なんのスキルも得ないまま、
ただただ生きてきただけの今の自分に繋がっている。

今、どうにか仕事には就くことができた。
自分は変わらなければならない。

ふらふらと歩く

帰り道、ふらふらと歩きながら、戦争をしていた頃の日本人に思いを馳せる。
きっと今の自分には想像もできない苦労があっただろう。
自分はいかに恵まれているのかがよくわかる。

ゲストハウス氷雪

来た時に見たはずのゲストハウス氷雪。
氷雪の門があるからこの名前なのだろう。
これすらも来たときにはしっかり見てすら居なかったんだな。

エ…足湯?

疲れているのだろうか。
なんだかこの足湯の表記も変な感じに見えてしまった。
こんなものエコ足湯に決まってるだろう。
おそらくは近くにある風力発電を利用してうんたらかんたらしているのだ。
なにもおかしなところはない。

アホなことを考えてないでさっさと帰ろう。
さすがに暗くなってきた。
これから墓地ゾーンなのに。怖い。

町にも明かりがつく

来たときの坂道を下っていく。
すると足跡があった。

エゾシカはこんな道にもやってきているんだなと思った。
ヒグマとかも来るのだろうか。
だとしたら怖すぎる。

怖すぎてブレる

そしてどうにか町へ帰ってきた。
明かりがあるって素晴らしい。

商店街たすかる

さあ、もう帰って休もう。



始まりは静かだった。

今日やったことは、稚内の町をあちこち歩いて見て回っただけ

ニート卒業したての人間が出来ることはこの程度なのだろう。
宗谷岬にいきなり向かったりとか、そんなバイタリティは無いのだ。

しかしなんというか、安易な職業ではなく、この普通ではない職を選んでよかったと今は思えている。
いきなり稚内に来ることになるとは思わなかったけど、これが逆に自分にとって大事なことだったんだろう。
自分の知っている範疇を超えた場所にいきなり来たことで、明確に自分の無知に気付かされるきっかけになった。

本当に、部屋に引きこもってたら出会えなかった数々の経験が雪崩のように襲ってきた一日だった。2年間の引きこもり生活より、この1日の方が長く感じたくらいだ。

そして知らない物を見るのは素晴らしいことだなと、この歳にしてやっと気づいた。

どうにも他の人より2周くらい遅いな、自分は……。

今後どうなっていくのかはわからないが、これからは少しでも成長した人間になれればいいなと思う。ならなければ。

そんな覚悟が自然と湧いてきた。


次回↓


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