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『スーツ=軍服⁉』(改訂版)第72回

『スーツ=軍服⁉』(改訂版)連載72回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
 
五、ブルゾンとカジュアル、下着、水着の章

①戦闘服とブルゾン

映画「硫黄島からの手紙」

二〇〇六年末、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」が公開された。「これはすごい!」と思った。アメリカ人監督があれを撮った、ハリウッドで、というのは大変なことだと思う。
ひとつの戦争を描くに、敵味方両サイドから描く、ということ自体、実際にはなかなかないことだ。かつての「空軍大戦略」や「トラトラトラ!」「史上最大の作戦」などが名作とされるのは、多くの場合、制作国の観客から見て都合のいい展開になりがちな戦争映画が、とにかく両サイドきちんと描かれ、それぞれの国の俳優が自国語でしゃべる、という点で画期的だったからだ。実際、ハリウッドの映画というと、敵であるドイツ兵や日本兵は血も涙もない「けだもの」のような扱いであり、一方、連合軍側の兵士は正義の味方で、人道的で、といったことになりがちだ。そして、面倒くさいからだろうが、日本人だろうがドイツ人だろうが平気で英語をしゃべらせてしまうのがごく普通だった。イーストウッド監督自身も「ああいう一方の側が正義の味方、という戦争映画はうんざり」と語っていたそうだ。
が、わざわざ二本、アメリカサイドと日本サイドの映画を同時制作するというのは、これは壮挙である。そして、ほとんど日本語台詞で、ほとんど日本人しか出演しないハリウッド映画……そういうものを作ったというのは大変なことである。商業的な成功を追求したがる制作会社として、日本サイドに立った日本語の映画、などというものは尋常な判断ではなかなか企画が通らないはずで、スティーブン・スピルバーグとクリント・イーストウッドという強力チームでなければ決して実現しなかったに違いない。
日本人が見て、いくらか台詞まわしとして「当時の日本軍人はこうは言わないかも」というところもないではなく、たとえば小銃を「ライフル」と言ってみたり、直属上官を「大尉」と呼んだり(陸軍なら中隊長殿、などと呼びそうなもの)、連隊旗が外の野戦司令部に雨ざらしで衛兵も着けずに飾ってあったり(平時の軍旗祭の資料でも参照したのかもしれない)、という具合に、細かくいうと疑問もなくはない。が、そんなのは日本製作の歴史映画でもよくある問題で、ことさら「アメリカ映画だから」というべき違和感がほとんどないのはすごい。まるで日本映画のように見てしまうのだが、つい忘れがちだが、これはハリウッド映画である。つまり、イーストウッド監督はアメリカ人の観客に見せようとして作っているのだ、というのは大事なポイントだ。
ところで、この映画の公開当時、あるメディアで、本作品を否定する記事を見かけたことがある。
別に大御所の作品だろうとヒット映画だろうと、世の中、礼賛一色である必要はない。批判の声が上がることは健全である。だから、否定的な意見があるのは構わないが、否定のための否定というか、始めに難癖という結論ありき、というか、そういう無理のある批判は考え物だと思った。いわく、その記事には「果たして栗林中将は偉かったのか、あんな参謀将校がつけるヒモの肩章を飾って実戦をやるのか、戦闘服も着ず通常の軍服で戦うのか」というような見出しが付いていたのだが、私は個人的に、その批判の趣旨の方に疑問を覚えた。
一項目目は見方の問題だからいい。渡辺謙が演じた主人公である陸軍中将・栗林忠道は実在の人物だから、評価もさまざまに分かれるとは思う。しかし、それにしても、これは個人的な感慨だが、この記事を書き、見出しを付けた記者は、栗林以外のほかの日本陸軍の将軍たちが、いかに無責任体質だったかを少しは知っての上で書いているのだろうか。自分の個人的な事情(大抵は、手柄を立てたいとか、ライバルの先を越したいとか)で、無理に立てた作戦に失敗し、他人に責任をなすりつけ、戦後も平然と生き延びた、というたぐいの人は非常に多い。それに比べれば、少なくとも、自らも戦死するまで戦い抜いた栗林は、無責任なトップではなかった、といえるとは思うのである。
次に二項目目について。栗林が飾緒(しょくちょ、あるいはしょくしょ=ヒモ飾り)をつけて登場するのは、着任した日のシーンと、戦闘開始の日のシーンの二回だけである。旧軍では本来、新任地に着任時は礼装で、勲章もみんな着けて行くもので、日本軍の礼装には「ヒモの肩章」がそもそもあるのだから、実際に栗林がフルデコレートの状態で着任したかどうかはともかく、そう頭ごなしに「おかしい、おかしい」と否定するべき事とも思えない。
少し古い時代の例だが、現役軍人でもあった森鷗外の小説「鶏」(明治四十二年発表)には、主人公・石田少佐が地方に赴任する描写として「石田はその頃の通常礼装というのをして、勲章を帯びていた。……石田は早速正装に着更えて司令部へ出た。(中略)廉あって上官に謁する時というので、着任の挨拶は正装ですることになっていた」とある。
この鷗外の小説にあるように、日本陸軍の場合、通常の軍服に勲章や飾緒を着けた「通常礼装」というものと、大礼服である「正装」があった。日中戦争(一九三七~)以後は戦時体制ということで礼式を簡略化する通達が出て、質素さが求められたが、しかし何事も例外ということもあり、太平洋戦争当時の記録でも、空襲が始まるまでの内地では、新任の将校が勲章を帯びた通常礼装で転任先に赴任した実例を読んだことがある。
栗林の硫黄島着任は、一九四四年六月。まだまだ本土空襲もなく、太平洋の制海権も完全にアメリカに傾く前のことであり、決して戦争末期のなんでも省略、なんでも暗くて地味な生活、という段階ではない。つい忘れがちだが、本当に日本本土の一般国民が敗戦を実感するのは四五年に入ってからのことである。しかも硫黄島は東京都(四三年に都制施行)の一部。四四年六月当時の激戦地は遠くサイパン島であり、栗林着任時の感覚はまだ最前線ではない。そして、礼装については中西立太『日本の軍装』に「平常は参謀将校、皇族付武官だけが(飾緒を)つけていたが、式典のときは」全ての将官につけられた、とある。
つまり、日ごろからあのヒモを下げているのは確かに参謀だけである。しかし、礼装としては、一般の将官も着けてよく、規定としては正しいのである。戦闘開始にあたってもう一度礼装して見せた(ただしこのときは、帽子を略帽にしていたから、フルの礼装ではない)、というのも描き方としては別にいいのではないか。栗林は最高指揮官で一番前にいるワケではなく、今生最後の戦い、ということで、あの場面で礼装に威儀を正してみせるのは、それが史実かどうかは別にして、映画的な演出としてそんなに妙でもあるまい。
それから三項目目の「戦闘服も着ず」というのはなんだろうか。実はここにいちばん引っかかったのだが、当時の日本陸軍には「戦闘服」なんてものは初めからないのだった。通常の軍服がそのまま戦闘服だった。戦闘服、という明確なものを当時、採用していたのは米軍と英軍だけで、ドイツ軍、ソ連軍も通常の軍服で基本的に戦っていた。難癖をつけるにしても、間違った前提で記事を書いてはいけないと思うが、いかがだろうか。
あの映画について史実との不整合を言うなら、「あれはイオウジマ」なのか、ということのほうがよほど問題だった。どうせ突っ込むならそちらを指摘すれば良かったのに、と思う。現地では硫黄島は「いおうとう」と呼ばれていた。古い戦記本などにも確かに「いおうとう」とルビが振られていた。戦後、なぜか米軍が「イオウジマ」と呼び、また強襲揚陸艦「イオージマ」なる軍艦まで配備して、すっかり定着してしまった。
どうも、旧陸軍と現地の人たち、それに役場は「いおうとう」と読んでおり、一方で旧海軍は「いおうじま」と呼んでいた、というのが真相らしい。そのために水路図などには「いおうじま」とあり、これがアメリカ側に伝わったようである。
二〇〇七年夏、国土地理院が「硫黄島の表記はいおうとう」と発表した。映画のヒットが動かした話だろうが、この方が公式的のようである。少なくとも日本陸軍、つまり栗林本人たちは「いおうとう」と言っていたはずである。だから、「イオウジマからの手紙」ではなく、「イオウトウからの手紙」であるべきだったのではないか。あえて難癖をつけるなら、この方が面白かった。ただし、アメリカ側、特に海兵隊関係者は、イオージマとして記憶しているので、今さら変更したくない、という意見だそうである。


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