シンエヴァンゲリオン舞台挨拶を見て、ようやく感想を少し書いておこうと思った。

今日エヴァの舞台挨拶を見てきた。
映画で泣いて、舞台挨拶で笑って、
やっぱりエヴァが好きで幸せだったなと改めて思いました。
そして、今こそ感想を書いておきたいと思いました。

今回がシンエヴァ視聴2回目で
初回見た時点で色々個人的に考えていたことはあったし
改めてチェックしておきたいポイントとかもあったんだけど
俺はシンエヴァをある種の卒業式だと思っていたから
一回見て終わりにして、長く浸ることは
やめておこうと思っていた
んです。

でも今回、庵野監督が100億目指したいって言っていたので
俺もシンエヴァを盛り上げるのに少しでも貢献したいなと思い
賑やかしに参加しようと思い至りました。

でも俺は考察とか他人に公開するのが嫌いなんですよね。
それって個々人が自分で考えて見つけて、
喜びを覚えるもの
だと思っているので、あまり邪魔はしたくない。
し、あくまで個人的な感想として残しておきたい。

基本的に考察めいた事はしないし、
内容についてあまり深堀りした内容は言及しない。
特に、初期の上映時に配布された、アスカが表紙の
ネタバレ注意と書かれた紙に書いてあるような
難語の数々については(ほぼ)触れない

アレをもらった時に誰もがツッコミを入れたかと思うが
あの中に書かれていた言葉の数々は
ネタバレでもなんでもない
じゃないか。
シンエヴァを楽しむにあたって
あの言葉の何一つを理解する必要がないじゃないか。

あの紙はむしろ、
「ここら辺は考察から除外していい」という
皮肉の利いたネタのようにも見えたし、
あるいは、まだそっちに注目したい人は
「まとめておいたからせいぜい役立ててくれ」という
どちらにしても何らかの皮肉だと解釈した。

僕は、というかそこそこエヴァ好き歴が長い人は
今回のエヴァが旧劇場版ひいてはアニメの最終回から
同じ物語の繰り返しをしているだけだと気づいただろうし
多少ポジティブさに影響があったとはいえ
基本的には既定路線だったのだから

今更「エヴァが難解」だとか「エヴァの真相」とか
「〇〇の謎について」、みたいな話は
ちょっとうんざり気味である。
エヴァの根幹は父子関係を中心として、
やや賢いせいで厄介な性格をした人間たちの
愛憎劇でしかない
だろう。と思う。

よって、あんまり謎に感じる部分がもはやない
すんなり全てを受け入れた人間を対象
として
少しだけ整理して内容について
言及をしておきたいとそう思う。

今回は二つだけ、
考えが比較的まとまっているので
残しておこうと思う。

一、アスカとケンケンについて

二、最後は現実に帰れたのかどうか
について

一、アスカとケンケンについて


ここは最も議論が紛糾するポイントの一つである。
何故なら、アスカを好きなオタクがこの世界にはあまりにも多いから
そして、ケンケンを過小評価している人間が多いから
である。

アスカを奪われた、という嫉妬で多くのオタクが狂っている。
ケンケンも、シンでは良い男になってたとはいえ、
元を正せば、軍事オタクの痛いやつで、
アニメ版ではアスカの盗撮担当とかもしていた
それこそ俺ら側の人間じゃないか!という認識を持っている
そんな人間のなんと多いことか!
知らんけど。

馬鹿野郎、と。
アニメ見直してこいと。

いやむしろ見てない人間が吠えてるのか?と。
言いたい。

ケンケンのキャラクターについて
新劇場版ではそこまでの深掘りがなかったから
何でケンケンの地位が爆上がりしたのか
わからない人間が多い
だろう。

違うよ。ケンケンは元からすげー奴なんだ。
すげー良い奴なんだ
、ということを
ちゃんとアニメ版では描いているよね
、、、ということを順に確認してみよう。

前提として、ここでは
旧作の彼らと新作の彼らを
状況が変わっただけの同一の人格として扱う
ので
そういう読み方が違うと思う人は、解釈不一致ということで
お引き取り願おうと思う。

そして結論を先に言えば、
ケンケンである’’必要’’はなかった。
しかし、ケンケンであればアスカの隣に立つ権利があった。

というのが俺の解釈である。

では

「行こう」

一の一、アスカのタイプはいつでも父親タイプ


まずはアスカってどんな人間のことが好きなのって
ところから確認してみよう。

旧作で好きになった人物は二人いる。
一人は当然、加治。
もう一人は、言葉にしてはいない奥ゆかしさはあるものの
碇シンジである。
執着の強度としては、どちらかというと加治寄り?と行った具合。

加治の属性を整理すると
頼れる大人の男タイプで、いつも飄々としている、心に余裕がある人間

アスカは母親を失って以来ややメンヘラ気味なので
親代わりに甘えさせてくれて支えになる人間が必要
支えてくれそうな加治に行くのは理解できる

ではシンジの属性はどうか
繊細な同い年の少年、しかしいざという時には助けてくれ
そして、意外な母性があり、お弁当作ってくれる人間である

→メンタル面には不安があるものの、やはり甘えられる、
支えられた経験があるシンジにも好意がいった

いや、アスカさん、なんてわかりやすいんだ(すきだ、、、結婚しよ)

シンエヴァにてシンジを評して
「あいつに必要なのは恋人じゃなくて母親でしょ」と言っていたのは、
自分も同じで父親タイプを求めていて
シンジのことが、痛いほどわかるからだろう。

一の二、「子供」と「大人」

アスカのタイプであるシンジと加治について、
単純に子供か大人かでひとまず区別できるが
その「大人」と「子供」についてより具体的に考えてみよう。

アスカが父親タイプの人間に好意を持ってしまうのは
先ほども触れた通り母親を早くに亡くしているから。
父親はそもそもいなくて、褒めてくれる人間がいなかったから。

褒められ経験の少なさから精神をおかしくしているキャラは
アスカに限らず多くのキャラに共通する特徴である。
シンジはもちろんのことミサト、リツコ、加治らも親を失くしている。
ついでに言えば、ケンスケもである。

チルドレン達のメンヘラっぷり、子供っぷりに関しては
もはや触れるまでもないが

大人メンヘラ筆頭のミサトが
父親に対する私怨や復讐のため
動いていることは作中何度も触れられるし
逃避先に膨大な飲酒量も描写されている。
リツコの異常なタバコの量とか猫とか
親亡くしを経験した人間達は何らかの形で
「寂しさ」を描写される事が多い。
いわば、大人の中にもアダルトなチルドレンが多くいるのが
エヴァという世界の在り方なのだ。

エヴァにおいて「大人」とは年齢的なことを指さない。
そんなこと言ったらゲンドウと冬月は一番しっかりしてなきゃだろう。
定義をちゃんとしないといけない。
ではこの世界において「大人」であるとはどういうことか

作中では「愛する人間の死を受け止められる人間」として表現される。
碇ゲンドウはシンエヴァにて、シンジに対して初めて
「大人になったな」と素直に認めたが、
愛する人間を失ってばかりの世界において
「大人」とはそういう人間を指すのだ。

ここにこそ旧作で加治に惹かれていた理由の一端があって
支えてくれるだけでなく、同じ痛みを抱えながらも
それを受け入れられる「大人」であること
が重要である事がわかる。

一の三、加治とケンケンの類似点

「大人」であること、をアスカのタイプであると定めた時
シンジは、ヒロイン達、特にミサトに
母親的な役割を押し付けてしまうので
ややアスカの隣に立つ資格が弱い(弱かった)と言える。
他のヒロイン達に対しても、優しくしてよ、と
甘えていたのは旧作の出来事だったが
シンでも大概周りの人間に支えられていた。
いやそれで良いんだよ。シンちゃんはまだ14歳だぞ。

では加治の場合は
親がいない中でも飄々としていて、気にしてる様子は見られない。
シンジに「辛いことを知ってるのは君だけじゃない」とか言ったりするし、
ミサトというメンヘラを抱えてた実績もある。
「大人」だからこそ、父親がわりに求められていることを
理解していて、旧作ではアスカを遠ざけたりもした。

本題に入ろう。じゃあケンスケは?
シンエヴァで父親をニアサー以降の事故で
亡くしたことを描写されていたが、そもそも母親も実はいないのである。
旧作の4話で、シンジに「お母さんに心配されない?」と問われた時
「俺、そういうのいないから」と事もなげに言っていて、
当然のようにセカンドインパクトの被害者である。

でも自分のオタク趣味をもってそれなりに楽しそうに生きている様子。
彼は恐らく愛する人間の死を受け入れている側の人間であり
すなわち、ケンケンは14歳のあの頃から定義上「大人」
なのだ。

加えて、シンエヴァ序盤のケンケンとシンジのやり取りは
本来は序の時点で描かれるはずだったエヴァ4話の
セルフオマージュ描写だと考えられるが、
彼は昔も今も気遣いの鬼なのである。

エヴァ4話では、シンジがネルフから逃げてきたところに遭遇して、
だんまりなところに根気よく独り言まがいの状態で話しかけている
この時にシンジは「こいつ良いやつだな」と思い、友達になる。
シンエヴァでも同様に
シンジが口を開くのを根気よく待ち
シンジの再起に貢献する
役回りだったが、
昔からケンケンはそういう事ができる奴なのだ。

24話では、疎遠になったケンスケからシンジにメッセージが来ていて
「こんなことになっちゃって、トウジの事とかもあるけど、
元気にやれよ」みたいなこと言う。
シンジは友人達に会うのが気まずくなって逃げてきたのに、
ケンスケは歩み寄り、受け入れている。

ケンスケはシンジの再起に貢献してきた実績がある。
同様に、アスカのこともきっと支えられると思うのだ。
無論、ケンケンみたいな大人は他にもいくらでも居ただろう。
ケンケンはたまたま近くに居ただけ。
でもそれで良いじゃないか。縁がアスカを導いてくれる。

加治は破にてシンジにこう言っていた。
「辛いのは君だけじゃない」と。

ケンケンはシンエヴァにて奇しくも同じ台詞をシンジにいう。
「辛いのはお前だけじゃない」と。

アスカが好きで仕方なかった俺は
この時に彼の役割を完全に理解して、
ゲンドウばりに手を組んで言わざるを得ない。

ケンケン、あとは頼む。


二、最後は現実に帰れたのか


最後の駅のシーンは
少し映像を読み解く必要があったように思う。

突然現実的な世界観になり、
シンジは緒方恵美から神木隆之介に声変わりして
近づいてくる他者(マリ)に動じないほど大人になっていた。
むしろ「相変わらず可愛いね」と近づけるほどの
ある種の軽さもある

知り合いがこの点を加治をモデルとした
大人像として解釈していたが、なるほど、と思った。
確かに、破の自販機前での加治とシンジの距離感に酷似している。

しかし、ある程度の時が流れたと思わせるシーンで
いくつか不思議な点があった。
一つはもちろん、DSSチョーカーである。

誰もが思ったことだろう。
お前、それいつまで着けてんだ?と。

後もう一つ、綾波と渚のカップリングは解釈違いなんですけど??と。

馬鹿野郎、と言いたい。

あのシーンはまだ現実になど帰ってはいない
むしろ途中の過程なのではないか?というのが
俺の考えである。

そもそもあの宇部新川駅にチルドレンが集合している状況が
不自然であまりにも恣意的
なのだ。
あいつらの住んでる場所は箱根周辺だろうが。
シンでの場所の詳細は知らんけど、少なくとも関東周辺だろ。
少なくとも庵野監督の出身地である宇部新川あたりではない

逆に考えるんだ。
あの宇部新川駅はまだ現実ではない、
マイナス宇宙の中なのだ
と。
我々にとっての現実世界は
彼らにとっての現実世界ではない

逆なのだ。
あれこそはゴルゴダオブジェクトに刻まれた
現実世界と虚構世界の入り混じった記録の一つ
あの駅はまだ、彼らにとっての虚構の世界なのだ、と。

そう仮定した時、
マイナス宇宙に居たチルドレン達が
勢揃いしている理由がまず理解できる。
未だ現実に帰れていない人だけがあの場にいると。

加えて、大人になったシンジが
未だにDSSチョーカーをつけていた理由

現実世界ではほとんど時間の流れていない
空想上の世界だったからと理解できる。

だから全員落ち着いてくれ。
綾波と渚が近くにいたからといって
彼らにとっての現実に
ちゃんと帰った時はその限りではない
と。

全ては物語が終わり、映画が暗転した先に託されている

最後に、「庵野監督にありがとう、エヴァにさようなら」


さて、ここからは完全に愚痴に近いが、
今回のエヴァ、比較的には大絶賛の流れだが、
若干の否定的意見がある
らしい。
おいおい何をどう見たらそうなるんだと言いたくなるが
個人が抱く感想は人それぞれだから仕方ない。
でもね、一応は確認しておこう。
勘違いしてたら可哀想だから。。

その否の理由とは、この結末を見て
お前らもいいから恋人とか作って
「現実に帰れ」的なメッセージを受け取っている
人間が多数いるから
である。
まああんなにちゃんと大人になって
恋人関係っぽくなっている
シンジとマリを見れば無理もないが、
いや待てよ、と。

現実と虚構を混同するな。
お前らもとりあえずゴルゴダオブジェクトから出てこいよ。

繰り返しにはなるが、
俺の解釈ないし感想によれば
あの世界はまだ彼らにとっての虚構の世界。
だってそうだろ。あんな絵コンテみたいな姿になったり
突然宇部新川駅に飛ばされてしまう事が
シンジ達にとって現実な訳ない
だろ。

ピンク髪の人こと北上ミドリの言葉を借りれば
「こんなの絶対ヘン!!!!」な状況の延長なのだ。

彼らの現実は我々にとっての虚構の世界にある
シンジの言っていた「行こう」の
その行き先とはそれこそ第三村とかその辺だろう、と。
それを思い出せ。
退避したヴィレクルーを乗せてるであろう
タンポポ装置が4本、第三村に到着していたことを思い出せ。

彼らの現実は、まだ始まっていない。
彼らの現実が、本当に宇部新川のあの場所だったとして
恋人とキャッキャウフフする事が現実なのだとしたら
アスカの隣には、ケンケンがいないとダメだろうが。

だから、落ち込む必要はないと思うのだ。
彼らにとっても、我々にとっても
現実はまだ始まっていないし
決まっていない
のだから。

それぞれの現実を生きればいい。
彼らにとっては、
他人が傍にいないと寂しい彼らにとっては
恋人がただ近くにいただけ

我々にとっての現実と混同する事ないじゃないか。

そもそもあの庵野監督が、
特撮とアニメと漫画が大好きで、
あんな楽しい作品を
俺たちファンに提供してくれる庵野監督が
フィクションを愛する心を否定したりするわけないじゃないか

そもそも、この期に及んで
あんな風に意味不明な難語をいっぱい提出してきたのは
もっとエヴァのことを考えて欲しいからに決まっているじゃないか
俺だってシンエヴァを卒業式のつもりで見たけど
エヴァのことが好きでずっと浸っていたくてたまんないよ。

長いこと俺は、
彼らが幸せそうにしている姿を
ただ見たかった。
だから、
俺は希望につながる空想が見れて
本当に良かったと、心からそう思う。

最後に、庵野監督をはじめとして
全てのスタッフに本当にありがとうと言いたい。
エヴァンゲリオンに、さようならが出来て、本当に嬉しかった。


これが、涙。
これが、寂しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?