長い自分語りをしよう③漫画と幸福編

「漫画を描きたい」

僕の中にある最も恥ずかしい部分がこの感情です。
「漫画を描きたい」のです。
ただやはり大して「描いてない」のです。
「描いてない」のが「恥ずかしい」。
何故?
そもそも「描いてない」って
どこ基準で?
理由はわかっているのですが、
あえてはっきり言葉にするのはやめておきます。

①「目的をまた確認しよう」

「漫画を描きたい」とは言っても
「漫画家になりたい」とは
口が裂けても言えません。
そんな夢を見るには、
自分は歳を取りすぎていました。
こんな歳から新しい事をしようだなんて
「恥ずかしい」人間だと思いました。

実のところ同年代で漫画家を目指している人間を
何人もフォローしました。
また、そのような漫画家未満の人間を集めて
事業にしているらしい会社もフォローしました。
見て、安心したかったのです。
しかしこれは現実逃避だと理解していました。
自分のどうしようもない「痛さ」を
認めたくないだけだと知っていました。

僕は痛い人間だ。
それは知っている。

知っているけれど
僕は自分の「好き」を証明したい。
自分の「好き」を表現したい。

夢を夢として語るには10年遅い。
全ては遅すぎました。
だって、それまで一度も漫画を描かなかったのですから。

しかし、現実に少しだけでも
夢のかけらを組み込みたかった。
自分の人生を少しだけでも
ねじ曲げてみたい。
だからその夢が叶わなくとも

ただ「漫画を描きたい」のです。
「漫画を描く」という行為でもって
「自分」と「自分の人生」に
違う何かを取り入れたかった。

「恥ずかしい」
だからこそ
そこには「自分」の何かがあると
信じる事にしました。

「そんな事したら人生終わるよ」

どうせ「終わり」なんです。
だからこそ、好き勝手したっていい。
いずれ違う形で人生を終えるのだとしても
一生心に残る思い出を
今この瞬間に作れればいい。

「漫画を描きたい」

間違っていてもいい。
どうせ「終わり」なのだから。

②「もうここで 終わってもいい だからありったけを」

それでも凄まじい羞恥心
強い抵抗感がありました。

「漫画を描く」

最初に決めていた事なのに
まだ覚悟は決まっていませんでした。

しかしその心を抑えつけてくれるのは
「コミックマーケット」でした。
つまり僕には「締切」がありました。

「コミックマーケット」で
誰かが僕を待っているわけではないが、
僕だけは自分の事を信じて
やりたい事をやろうと思いました。

漫画の読書量が特別多いとは思いませんが
それでも一番熱意を向けてきたのです。
漫画の事に関しては多少詳しい。

そもそも、これまでの人生は
漫画を描くためにありました。
少なくとも僕にとっては
「漫画を描く」という線上に
人生を乗せていた
つもりでした。

僕は3年前までW大学の教育学部国語国文科に通っていました。

③「僕の現実はどこ? それは夢の終わりよ」

受験当時は望む学科に行けて大変喜んだものです。
我ながら最も努力をしたのは
受験期の時だったのではと思います。

何故そんなモチベーションがあったのか。
何故この大学の、この学部、この学科に
行きたかったのかと言えば、
「山本直樹」という稀代のエロ漫画家が
そこの卒業生だったからです。

当然、親にはそんなこと言いませんが、
僕の受験当時のモチベーションを支えていたのは
その大学に「山本直樹」の漫画が構成される為の
「何か」があると信じていたからです。

そうでなくとも、文学を学ぶ事は
必ず物語制作に役に立つだろうと信じていました。
多分それなりに役に立っているでしょう。

漫画を描く事は一度もなくとも
漫画を描くための準備は進めていたつもりでした。
つまり、分析能力を鍛えようとしました。

ある時は、授業の課題で
漫画を学校の教材に取り込むための授業案を作りました。
サブカルチャーを教材にしてみようという
課題だったような気がしますが、
僕は迷わず「漫画」を選びました。
「銀魂」における「笑い」の要素の分析から
何かをしようとしていましたが、詳細は忘れました。
忘れたという事は大した出来ではなかったようです。

漫画に関する書物は大学時代に多く読みました。
しかしそもそもの母数が少なく
ゲームやラノベなども含めたサブカルチャー、
オタクカルチャー全般に興味を向けていました。
それらを分析出来ることは
必ず漫画制作に役立つと信じていたためです。

あるいは、現代思想の勉強もしました。
オタクカルチャーについて考える中で
「東浩紀」の「動物化するポストモダン」
「斎藤環」の「戦闘美少女の精神分析」
などの本に出会ったためです。
彼らの主張を完全に理解するためには
根幹の思想を知る必要があり、
それが「現代思想」つまり哲学の勉強でした。

単純に面白かったんだと思います。
それに文学の授業の課題を
騙し騙しでこなしていくのにも非常に役に立ちました。
僕は学問する者として不真面目でしたが
そんなに不真面目には見えてなかったと思います。

勉強自体の楽しさにかまけて、
もっと正直に言えば大学生活自体の楽しさに溺れて、
当初の目的は忘れ、
作品を作ることもなく
僕は卒業してしまいました。

僕は実家暮らしでした。
「漫画を描きたい」などという欲望が
僕の中にあるということを
親に知られたくありませんでした。
やはり僕は「恥ずかしかった」のです。

ここまで拗らせてしまうのなら「恥ずかしい」という感情が
捨てられていればよかったのにと今では思います。

これはこれで終わった話です。
僕は次の「終わり」に向けて
進んでいかなければならない。

③「お前このままダラダラリーマンになるんだ
お前の人生それでいいんだ」

自分は漫画に詳しい。
焦点を絞ればあるいは誰よりも詳しい。

漫画を一度も描いたことがないにも関わらず
プライドだけ異常に肥大したモンスターが
そこにはいました。

しかしこのモンスターは更なる力を求めて
作る側に回ることを選びました。
作ることでまた更に強い分析力を
身に付けられるはずだと信じていました。

描く題材は決めていました。
大学時代に鬼のようにハマり
そのソシャゲにも狂ったように課金した
「Fate」シリーズです。
(とは言っても、当時から原作プレイしていた人間からしたら
ニワカかもしれません。型月警察は怖い。)

友人の勧めで「Fate stay night」を
Vita版でプレイしたのがきっかけだったと思います。

この「Fate」シリーズは
題材選びにおいて色んな点で都合が良いと思いました。

まずキャラクターが可愛い。
オタク的な意匠が凝らされている。人気が出る絵だと思いました。

そして物語が魅力的だ。それだけでなく、空白が多くある。
二次創作向きのコンテンツだと思います。

加えて、タイミングが良い。
オタクコンテンツは流行り廃りが激しいが
この「Fate」シリーズはソシャゲ人気で
この先数年は絶対に廃れる事がない。

打算的な側面はありました。
しかし見られる可能性の薄いコンテンツに
時間を捧げられるほどの
狂気を持ち合わせていませんでした。

しかしこれは「愛」のなせる業だと
僕は僕自身で証明する必要がありました。
僕のような不真面目な人間が不真面目なままに
「愛」のない作品を作る事は
許されざる行為だと思いました。
また、打算だけでは
モチベーションを保つ事は出来ませんから
「描ききること」で「愛」を証明するしかない。

「愛」だけが最後の砦です。
それを否定してしまえば
本当に何も信じる事が出来なくなる。

④「まるでテーマパークみたいだぜ 
テンション上がるなあ〜」

作品のプロットは2019年6月頃に
文章の形で既に完成していました。
そのため最初に行ったのは
文章をネームに起こす事でした。

ネーム作業。
これは最も楽しい作業の一つでした。

文章が漫画になる。
描けるものは無視して
描きたいものを詰め込む。
ネーム作業は「これを描けたら良い漫画になる」と
「信じられるもの」を作ることでした。
一週間ほどでネーム作業を行いました。

想定で60ページほどになる事がわかりました。
二ヶ月で60ページ。不可能な数字でした。
僕は漫画作業の事が全く分かっていなかった為
さまざまな作業を省略すればあるいは可能なのではと思いましたが、
全くの不可能でした。
周囲の人間にもそう言われました。

20ページ毎に物語を分割する事にしました。
そして今回はその20ページのみやる。
そもそも展開が多過ぎたのです。
一冊にするには、物語が二転三転し過ぎる。
まとまりがなくなる事は避けたいと思いました。

また、その20ページの中でも
大体4ページ毎の区切りを作りました。
4ページ、それはTwitterの画像上限数です。
誰にも存在を知られてない自分は
一回のツイートで注目を集め
自分を知らせようと考えました。
※この目論見は後に下らない理由で失敗します。

「大体4ページ×4篇+まとめ4ページ」
「大体20ページのネーム」が完成
です。
これなら絶対に行ける。
現段階でこれしかないというネームが出来ました。

しかしネーム に起こして初めて
分かった事があります。


「文章がめちゃくちゃ多い……」
「これでいいんだろうか…」

また「苦痛」の時間でした。悩みどころでした。
漫画は小説とは違います。
しかし僕のネームは絵がついた「小説」でした。

それをきちんと「漫画」に直すには
もっとページ数を増やして
もっと描写を増やす必要がありましたが
その負担を増やす事は悪手だと思いました。
僕にはそんな画力も時間も全くないように思いました。

「これは漫画だ。絶対に漫画なんだ。」

自身の作品を漫画だと信じる精神異常者だと思う事にしました。
僕には最初から最後まで信じることしか出来ません。

まずは4ページちゃんと仕上げてTwitterにあげる。
ショートゴールを設定し、それを
モチベーションにすると決めていましたが
失敗します。失敗続きです。

僕がこれまで見ないフリをしてきたもの。
しかし絶対に必要だったものが、
借金の取り立てのように襲ってきます。


⑤「さぁ描くがよい "漫画"に 没頭せい」

僕が見ないフリをしたものとは端的に言えば背景です。
背景の勉強を後回しにした事は最初の記事でも書きました。

その判断は正しい。
正しいはずでした。
キャラが存在しなければ
漫画は漫画になりませんから。
優先順位は低いはずです。

パースの知識もです。
僕は資料を見ながら
"最低限"モノとして認識できるものを
構成すればいいと思っていました。
しかしその"最低限"が想定よりも難しかったのです。
質感の出し方はおろか、線もまともに引けません。
背景とキャラを一体化させるのも難しいし
何より死ぬほど面倒でした。
また、自分のハードルを下げることが出来ませんでした。

僕は何回も何回も
書き直しをすることになりました。
多くのページで背景だけを後回しにしました。
完成ページが出来ず、Twitterにも上げられません。

また、慣れないデジタルソフトで混乱もしていました。
プロも使用できるという「クリップスタジオ」を
生意気にも使っていましたが、
イラスト系ソフト自体に全くの素人であった僕には
機能があまりにも多く、機械音痴もあいまって混乱しました。

アナログで描く選択肢はありませんでした。
デジタルは難しいですが、
それでもアナログよりは遥かに早く
絵の完成度を高めてくれると確信していました。

デジタルの方が速い。
しかし、それでも歩みがとても遅い。

今まで無視してきた事が
突如として目の前に立ち塞がり
その壁の多さに絶望しました。

「……………………………」

「もう間に合わないかもしれない」

「もう辞めてしまえばいいんじゃないか」

「こんな誰にも望まれない事」

「やっても意味がないんじゃないか」

こんなに面倒臭いのに。
読んでくれるかわからないのに。
ああ、なるほど。漫画を描く人間は、
"異常者の集団"なんだと思いました。

「それでも…」

「これを行ってきた人間が」
「俺の他に沢山いる」
「あのコミケの会場には」
「沢山いるのを知っている」

その時初めて
「同人」の「価値」を理解しました。

同人誌を描く全ての人間が
きっとこの「苦痛」を味わっている。
時間も余裕もない中で原稿を書き、
それらの苦痛を見せることなく
即売会に颯爽と現れるのです。
凄い事だと思います。
彼らはある種の神なのです。GOD。

「そうだ。彼らは『神』だ」
「『信じる』に足る存在だ」
「だから俺も大丈夫だ」


描けない苦痛を味わいながら、
湧いてきた感情は「感謝」
そして「尊敬」の念でした。

「一体これまで どれほどの…!」

色んな同人誌を読み返してみて
想像を絶する努力の痕跡が
一冊毎に一頁毎に残されているのだと
次第にわかってきました。

「オレの血肉になってくれた」
「全ての同人誌に」
「漫画に」
「感謝します」

先人達はそれを既に教えてくれていた。
こんな尊い事が間違いなはずがないと。
「信じられるもの」を僕に与えてくれました。

僕はその時間違いなく
「幸福」でした。

僕は漫画を描く事は
「楽しい」事だと思いました。

⑥「      」

「恥ずかしい」などという感情は
もうありませんでした。
むしろ「誇らしさ」すらありました。

そして「愛」
この作品をこの形で愛せるのは
僕だけなのだと信じていました。
時間の許す限り「愛」を注ぎました。

あらゆる娯楽にも勝る快楽
そして幸福感が僕を駆り立てていました。

そして、締め切りギリギリに作品は完成します。
どこに出しても恥ずかしくない。
我が子のように感じました。
完成した作品を繰り返し眺めて
喜びを感じました。

何ヶ月もこれだけの為に時間を捧げてきた。
例え誰にも見向きされずとも
買われる事がなかったとしても
この「尊さ」は
僕がちゃんと知っている。










いや……待てよ……

誰にも見向きもされなかったらどうしよう……





それは僕にとって
やはり恐怖でした。




そして、僕はコミケ直前に風邪を引きました。
宣伝に費やすはずだった時間を使い
布団の中で悩みに悩み続けて、

とうとう内容が伝わるような
宣伝をする事はありませんでした。


Twitterには最小限の画像をアップしました。


もう「信じられるもの」が
揺らぐ可能性に耐えられませんでした。

そんなこんなでコミックマーケットは開始します。
結果だけ言えばそれは一生の思い出になります。
しかしまた別の話です。

⑦「そして、次の曲が始まるのです!」

次回予告もまとめもしないあとがきです。

同人活動、漫画制作を経て
僕は「上手い」とか「下手」だとか
そういう語彙を使うのを
あまり好まなくなりました。

自己評価としては使うんです。
また他者から受ける評価としては嬉しいんです。
どっちの評価だとしても、
それは見てくれたという事なので。

でも僕は「上手い」も「下手」もあんまり使いません。
それにはいくつかの理由があります。

①まず努力の「ベクトル」が人それぞれ違い過ぎるのです。
僕は他人に評価の言葉を使えるほどに
「その努力」に関して詳しくありません。

②またその努力の「深さ」が見えないようになってます。
見えるのは常に一番外側だけなので、
ぱっと見では評価できません。
ピカソの絵は平面的だけど、
本当は完璧にデッサンが出来るみたいなものです。

③最後に「強度」
これは魂の「強度」です。
愛の深さです。こだわりの強さです。人間性です。
絵について考える中で
「上手い」という言葉は僕が思ってるより
複雑な要素が絡んでいると思いました。

デッサンとかパースのきかせ方とか
陰影と光の表現とかの立体感の要素
つまり「上手そう」に見える要素
大体決まっていますが
それがあれば評価されるとは限りません。

たとえそれらが全てなくとも
深い愛で描かれたものは
こだわって描ききったものは
人間性が見えるものは
魅力的にうつります。
僕はそう感じます。

魅力的に映るという事は
それは「何か」が「上手い」という事ではないか。
勿論、その「何か」の中に
デッサンとかパースとかが含まれる事はあるだろう……

と、理由を並べてみたは良いものの、

つまるところ、僕には「上手い」がよくわかりません
だからあまり使いません。

よく使うのは「尊い」とか「好き」です。
表面的な言葉ですが、結局表面しか見えないのです。
感情のプラスの要素だけを
ちゃんと伝わればよいのです。

結局僕が「上手い」という言葉に
コンプレックスを抱えてしまっているだけの事ですから
他人が使うことに関して何かを思うことはないと
ちゃんと書いておきます。

僕もうっかり普通に素朴に「上手い」を使う事もありますしお寿司。

一旦、ここまででこの長い自分語りは終わりにします。
大体4ヶ月分の自慢ができましたので、
また書きたい時に書こうと思います。

(啄む亭血液法師)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?