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洸星鯨歌

 大学を卒業して社会に出てから僅か2年で、僕の魂と肉体はどうしようもなくすり減ってしまい、ある朝にどうしてもベットから起き上がることが出来なくなって、全てを諦めて郷里の親に助けを乞うた。
 両親に連れて行かれた病院で鬱病と診断され、人生が終わってしまったような気さえしたが、もう職場に戻らなくて良いのだと思うと心が軽くなった。
 故郷である小さな港町に戻った僕を母は優しく迎え入れ、対照的に厳格な父は情けないと一言で切って捨てた。『そんなザマで生きていけるか』と吐き捨てるような言葉が、なによりも深く心を抉った。
 それからは自室に貝のように閉じ籠り、自分の息で窒息してしまうのではないかと思うほど息を止めて過ごした。言葉を発したら、誰かが自分を見つけて叱責にきそうな気がしてしょうがなかった。
 閉じたカーテンの隙間から窓の外を伺うと、故郷の友人たちが楽しそうにしているのを何度も見かけて、言いようのない切なさと憎悪を覚えたが、暫くするとそれは自分への嫌悪感となって身を灼いた。
 どうしてこうなった。こんな有様に成り果てたのか。
 来る日も来る日も自問しながら布団の中で声を押し殺して泣いた。幼い頃に過ごした子ども部屋の記憶が、大人となった自分の尊厳を容赦なく切り刻んでいくような気がした。
 こんな筈じゃなかった。
 母に申し訳なかった。もう決して若くない母が、慣れないパートに出て仕事をしている。それなのに若者で働き盛りの筈の僕は自室で無為に過ごしているのが、死にたくなるほど辛かった。かと言って働いてみようと思えるほど、僕の心は強くなかった。
 実家の二階で気配を殺して、潜むように息をした。たまに、かつての友人たちが訪ねてきたが、自分が惨めになるだけなので居留守を使った。携帯電話も会社を辞める時に捨ててしまった。何もかもが煩わしい。
 辛いほど正しく動いていく現実から逃れたい一心で、誰も彼もが寝静まった真夜中に起きて、朝になると眠るようになった。夜の街はいい。僕を責めてくる者は誰もいない。まるで、この世界に僕だけがこうして夜の散歩をしているような気になる。
 子どもの頃、さんざん遊びまわった砂浜を歩いていると、不意に音が聞こえた。
 管楽器の奏でる重低音、それをもっと重く、強くしたような音に大気が揺れる。決して音量は大きくないのに、胸の底に響くような音だ。
 何処から聞こえてくるのか、辺りを見渡したが、それらしいものは何もない。
 それは断続的に、リズムを変えながら、長く長く響いていく。
 そして、不意に止んだ。虫の声が聞こえてきて、もうあの胸に響くような音は聞こえない。
「ふーん、ふんふん、ふん」
 名残り惜しくて、思わずハミングしてみたくなった。単調なリズムのようでいて、微妙に違う音が高音と低音を混ぜて続く。
「あ」
 そうか、あれは歌だ。歌っているんだ。まるで誰かに話しかけるように。

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