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白焚朴厨

 近衛湖の畔で、魚釣りに興じている時のことだった。
 魚釣りは朝まづめと言い、明け方の時間帯がよく釣れる。まだ夜も明けない内に家を出て、朝靄に煙る湖面へと疑似餌を放っては、リールを巻いていく。
 趣味というわけではない。ただ金が掛からず、人にも会わず、日の出と共に動き出す人々の生活の中、その空気を感じなくとも良い暇つぶしを、他には知らないというだけ。
 早朝の肌に刺すような空気と、静寂。鳥も目を覚ましていないような時間帯に、こうして一人、ただ無心に竿を振り、足元に寄せては返す波の音に耳を傾ける。
 何度目だろうか。不意に、ずしり、と重みが乗ったのを竿先に感じた。魚がかかったような感触とは違う、水の入ったビニール袋のような、砂利の上を引きずるような感触だった。湖底に沈んでいる木の枝にでも引っかかったのだろう。
 糸が切れてしまわないよう、竿を立てて慎重に、少しずつリールを巻いていく。疑似餌であるルアーは安いものではない。可能なら回収したかった。
 糸がほんの先まで戻ってきた所で、枝にでも引っかかったのか、それ以上巻くことが出来なくなってしまった。仕方がないので、靴と靴下を脱いで、ズボンの裾を折り、冷たい湖へと足を踏み入れる。秋口とはいえ、湖は貫くように冷たい。砂利に足を取られないよう、慎重に糸を手繰って進む。
 青く澄んだ湖の底に、白い何かが沈んでいる。糸をひくと、揺らぐように光を弾く。
 一歩、さらに踏み込んで、言葉を失った。
 動物の死骸だ。しかし、それは私の知るどれとも違う。鹿のような四つ足だが、純白の体毛をして、長い鬣が揺らめいている。左右の眼に加えて、額にも一つ、さらに胴体にも幾つか瞼がついていた。大きさは鹿よりも少し大きく、馬よりは幾分か小さいが、見た目と重さがまるで釣り合っていない。耳の後ろから枝分かれした、真珠のような光沢をもった角が生えている。
 紺碧色の湖面に浮かぶ、血のように鮮やかな紅葉が風でざわつくように揺れた。

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