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夢蝶庫禍


 近衛湖の畔にある古い洋館。今でこそ国立公園の近衛湖の畔には法律で住居用の建築物は建てられないことになっているが、戦前から此処に建つ、この古い邸宅だけは例外だ。近衛湖の象徴ともいえる存在である。
 鉄格子の塀にぐるりと囲まれ、門扉には分厚い年代物の錠前が幾つも掛けられている。しかし、そうした堅牢な防備の中にある邸宅は長い年月によって風化し、朽ちかけていた。草木に覆われ、ひび割れた壁からは蔓が四方へ伸びている。それでもなお、倒壊していないのは奇跡的と言えた。
 どこぞの名のある富豪が別荘として建てたと、地元ではまことしやかに語られているが、実際に何処の誰の別邸であったのかを私たちは知っている。
「しかし、蒸し暑いな」
 額から流れ落ちる汗を手で拭いながら、千早くんが唸るように言う。
 彼の言うとおり今日は朝から雨が降り、正午から急に晴れたので、湖の畔にいるとは思えないほど蒸し暑く、こうして立っているだけで汗が止まらないような有様だった。
「つーか、大野木さん。なんでよりにもよって、こんな梅雨時にこんなトコの仕事を請け負うんだよ。もっと涼しい時期にしてくれ」
「お言葉ですが、千早くんは年がら年中、季節の文句を言っていますからね」
 春夏秋冬、それぞれで文句が出るというのも面白い。
「そんなことないだろ」
「そんなことあります。それに、帯刀さんの遺産に関する怪異なのですから、迅速に対応すべきでしょう」
「柊さんがなんとかしてくれてると勝手に思ってたんだよなあ」
「きっと彼女も千早くんに任せたと勝手に思っていらっしゃるかと」
「金にならないことはしない主義だからな」
 かつての姉弟弟子の間柄だというが、彼らはお互いのことをないものとして扱っているフシがある。実際、千早くんも、柊さんも知り合いであることを、とある件で判明するまでずっと黙っていた。師であった帯刀さんの苦労が偲ばれる。どういう経緯があったかは知らないが、最終的には2人とも破門され、結局誰も跡を継がなかったのだから浮かばれない。

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