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元旦祝神

 九州は福岡県、太宰府市の象徴ともよべる太宰府天満宮を御存知だろうか。学問の神として有名な菅原道真公を祭る由緒正しい神社である。正月にもなると全国から三が日に二百万人もの参拝客が訪れる。

 私が最初にこの太宰府天満宮へ参拝したのは、無謀にも国立大学受験を控えていた頃のことである。溺れる者は藁をもすがるというが、私の場合は多くの受験生がそうであるように神に縋ることにした。もはや私が頼れるのは神様をおいて他になく、私は新年早々、初詣に少ない貯金をはたいた。

 飛行機と電車を乗り継いで五時間弱。かの太宰府天満宮に着いたのは元旦、およそ信じられぬような数の人間に私は圧倒された。

 参道は並ぶ参拝客で埋め尽くされていて、そのほとんどが受験を控えた子を持つ家族連れであった。私はそうした幸せな受験生たちを心の中で罵った。私の両親などは正月三が日は家を出ないと固く決めており、受験を控えた子を持つ親とはおよそ思えぬスタンスを貫いていたからだ。

 私はそうした幸せそうな参拝客たちに背を向けた。事前に下準備はしてある。なにも真正面から参拝せずともよいだろう。観光案内所でもらった地図によれば裏からもお参りすることは出来る。わざわざ人の多い方へ回るのも馬鹿馬鹿しい。

 私は散策がてら地図に従って街並を見て回った。 なるほど、天満宮が近いということもあって飲食店や土産物屋が多い。しかし、参道を一本逸れると人気は急に少なくなる。やたらと駐車場が多いのは駐車代で設けようという魂胆なのだろう。事実、駐車代金は法外に高いように見えたが、どこも満車で出入りが激しい。

 敷地をぐるり、と遠回りして天満宮のちょうど裏口へとやってきた。やはりそれなりに数が多いが、それでも参道の比ではない。私はようやく一息ついた心持ちになってベンチに腰を降ろして、水筒の御茶を呑んだ。コンビニで買ってきた弁当もあったが、さすがにここで食べる気にはなれなかった。

 そうして一息ついていると、なにやら籠を抱えている若い人と眼があった。神社の関係者なのだろう。神職の格好をして、とても忙しそうである。

 私がペコリ、と会釈すると、相手はニヤリと笑って駆け寄ってきた。眼の細いなかなかのイケメンであった。

「やあ。あけましておめでとう」

 少々驚いたが、私も礼儀正しく、あけましておめでとうございます、と答えた。

「受験生だよね」

「はい。合格祈願に」

「そりゃあ都合がいい。君、新年からついてるよ。ねぇ、少し手伝ってくれないかな」

「はぁ」

 参拝客に手伝いをさせるのか、とも思ったが、別にいいか、と思い直した。新年早々善行を積んでおくのもいいかも知れない。

「ちょっと歩くんだけどさ、そこで宴会をしているんだよ。君みたいな若い子がいると大いに喜ばれる。御馳走もあるし、酒だって飲める」

 こちとら未成年である。さすがに飲酒はまずいが、ご馳走にありつけるのはありがたい。冷たいコンビニ弁当より、ご馳走の方が良いに決まっている。

「じゃあ、ちょっとだけ」

「そうこないと。これ半分持ってもらえる?」

 差し出された籠の中を覗くと、焼き栗がこれでもかと入っていた。いったいこれほどの量の栗をどうするのか。

「少し山を登るけど、がんばってね」

 これは訂正しておくべきだろう。彼のいう少し、とは私が想像していた少しとは全く違い、私はほとんど山登りのような道を延々と歩かされ、天満宮の雅楽の音色は遠退くばかりで、私は山の奥へと突き進むことになった。息も切れ、汗が顎から滴り落ちる。数歩先を歩く彼は慣れた足取りでひょいひょいと登っていく。ここまでくるともう意地である。私はひぃひぃ言いながら、ようやく最後の石段を登り終えた。

 そこは少し開けた空間になっており、小さな朱塗りの社があった。しかし、奇妙なことに狛犬がいない。いや、足場はあるのだが、肝心の狛犬が不在なのだ。天満宮の社にしては小さい。此処は別の神社なのだろう。

「おうい。こっちこっち」

 呼ばれて更に奥へ進むと、奇妙な光景が広がっていた。先程よりも少し小さな空間に古墳のような洞穴があり、その傍らには炬燵があった。なぜコタツがこんな所に?

 炬燵を囲んでいるのは厳つい顔をした老人、馬鹿みたいに綺麗な女性の二人組であった。炬燵の上には日本酒の瓶が立ち並び、中央には土鍋がぐつぐつと煮立っていて、なんとも良い匂いがした。

「先生、天津甘栗買い占めてきましたよ」

「おお、でかした。よしよし、これだけあれば三が日は出歩かんでもいいな」

 不意に老人が私を見つけた。

「おい。なんだ、そいつは」

 いきなり厳つい顔をした老人がそういったので、私はぎょっとなったが、こんな所まで汗だくになってやってきたこともあって、ぎろり、と睨み返した。

「まあまあ。いいじゃあないですか。一年に一度の御祝いなんだから。先生も今日は無礼講だと仰ったじゃないですか。紅白見損ねたからって機嫌を損ねないで下さいよ」

「お前に録画を任せたのが間違いじゃった」

「仕方ないじゃないですか。デジタル機器の操作なんて出来ませんて。うちのテレビなんかまだアナログですよ」

「ええい。黙れ黙れ。おい、小僧。さっさと炬燵に入れ。そんな所に突っ立っていられても眼障りだ」

 十八年生きてきて小僧呼ばわりされたのは初めてだ。いや、確かに小僧なのは間違いないが。嫌な爺である。

 私は爺の向かいに座った。こんな爺の隣に腰を降ろすのだけは御免である。しかし、炬燵の温もりは偉大である。偏屈爺への怒りも幾分か和らいだ。

 ふ、と隣に座る美女が微笑む。

「お若いのね。お幾つ?」

「十八になります」

 答えながら、私はこんな美人と口をきくのは初めてだったので酷く緊張した。芸能人みたいだ、と阿呆な感想を口の中で噛み殺した。

「十八! 聞きました? 生まれてまだ十八年ですって」

「ふん。ひよこのようなものだな」

「可愛いじゃないですか。私、羨ましい」

 そうして、つん、と私の頬を指先で軽く突く。私はもうそれだけで当初の目的を完全に見失った。今年は最高の一年になるだろう。

「しかし、余所者を招くのは久しいな。どれ、酒を注いでやろう。小僧」

 爺がそういって酒を薦めてくるので、私はそれを断った。

「いや。まだ未成年なので遠慮します」

「そんなものは知らん。呑め」

「呑めませんってば」

「判らん奴だな。儂が呑めというのだ。呑め」

 強引な爺だ。断るのは無理そうだし、うるさい親はいない。それに酒を飲んでみたいな、という好奇心が頭をもたげた。

「では、少しだけ」

「ようし。そら、ぐいといけ」

 御猪口になみなみと注がれた萌木色の液体を、えいや、と飲み干す。その味をなんと表現したらいいのか判らない。ともかく豊潤で甘い。酒、というよりは果実のようだ。それでいて、飲み干すと胸の奥に火が灯ったように温かくなる。なんとも楽しい心地になる。早速酔いが回ったのか、酒瓶から桃色や金色の吹き流しが溢れて虚空を舞う。

「どうだ。美味いか」

「美味い! すごく美味い! なんだこれ!」

 爺さんがニカっと欠けた歯を剥き出しにして笑い、若いのに見込みのある奴だ、と呵々大笑した。

「こいつは人の手による酒造ではない。福の神が趣味で造った桃の酒だ。京の都あたりじゃあ、天狗と人間で奪い合いになるような逸品よ。まぁ、儂ほどの者になれば、向こうから歳暮で贈ってくる」

 いまいち何を言っているのかよく判らないが、ともかく珍しいものらしい。

「先生。秘蔵の一本をもう出しちゃったんですか! 新年の寄りあいで出すって言ってたじゃあないですか」

「やかましい。あんな耄碌した連中に呑ませてもつまらんのじゃ。この小僧くらい表情がコロコロ変わらんと面白くない。そら、もっと呑め」

「どうも。俺も注ぎます」

「おお、そうかそうか。よしよし」

 そうして爺さんと酒を呑み交わすのが楽しくてしょうがない。一杯飲めば夢心地、二杯飲めば前後不覚、三杯飲めば足が浮きあし立ってぷかぷか浮かぶ。

 新年の空に飛んでいこうとする私を、若いお兄さんが必死に繋ぎとめる。

「駄目ですって! 降りれなくなっちゃいますよ!」

 もう何がなんだかわからない。私はもう完全に酔っ払っていた。

 爺さんも厳しい顔はどこへやら、私と同じようにぷかぷか浮かびながら胡坐をかいて、聞いてもいない昔話を始めた。

「儂が鎌倉の都よりここへやってきてからもう随分になる。鞍馬山で天狗と合戦をしていた頃が懐かしい。神通力も灯火同然、今は五条の安アパートで寝泊まりしておる。天狐と呼ばれたこの儂も寄る年波には勝てなんだ。その間にも人間は増えよって、いつの間にか菅原のハナタレの所にばかり足を運びおる。元々此処は儂の御陵ぞ。何が勉学の神か。勉学なんぞ本人の努力次第じゃ。やれば受かる。やらねば落ちる。例え受験に落ちても人生が終わるわけでもあるまい。何が神の差し挟む余地がある。それを神通力にすがりおって」

 ええい、忌々しい、と唸る爺さんの杯に酒を注ぐ。

「おかげで見てみろ。菅原のハナタレは年末になると過労死寸前じゃ。そのくせ根が真面目なもんじゃから仕事を投げ出しもせん。見とれよ、そのうち堪忍袋の緒が切れてどっかにデカい雷が落ちるぞ」

 さらにもう一杯。

「そういや、御爺さんの名前なんていうの?」

「ウカノミタマノカミじゃ。知らんのか」

「知らない」

 がっくりと肩を落とす爺さんを見て、美人な御姉さんがコロコロと笑う。

「さしもの天狐も型なしですねぇ」

「ええい。かつての力があれば、人間風情にこんな戯言は許さぬものを」

「そういえば、君は合格祈願に来たんだよね。それなら先生に祈るといいよ。あっちはもう忙しくて手一杯だけど、先生は暇で死にそうなくらいだから、きっと願いを叶えてくれ、あいて!」

「馬鹿者! 儂の話を聞いておらんかったのか! そんなもの儂の知ったことか! 管轄外! 知らんわ!」

「でも、先生? これも何かの御縁ですわよ。先生も若い方と呑めて楽しいでしょう。なにか御利益があっても宜しいかと」

「お前もそんなことをいうのか」

「あとで肩を揉んでさしあげますから」

「むぅ。足の裏も揉んでくれるか?」

「はい。もちろん」

 ならば致し方ない、と爺さんは咳払いをして、ふわふわと浮かんでいる私の脚を掴んで手繰り寄せた。

「いつまで浮きあし立っておる。小僧、何か一つ願いを叶えてやろう。何なりと申すがよい。無礼講じゃ」

 私はもう夢心地、極楽でスイムしているような心地だったので、大学合格がどうだのという考えは全くなかった。ただ、布団に入って寝たいな、と思った。

「あい判った。欲のない奴じゃ。ますます気に入った」

 いうなり、袂から妖しげな扇を出すと私に向かって強く振った。

「よいか。人事を尽くして天命を待て。――さらばじゃ」

 にわかに竜巻が巻き起こるや否や、それっきり私の記憶は途絶えている。

 気がつけば、私は自分の家の布団ですやすやと寝ていた。

 眼ざめた当初は極めて混乱したが、すぐに片道分の交通費が浮いたと喜んだ私は正真正銘の阿呆である。

 夢を見ていたのかも知れぬ、とはまったく考えなかった。

   ○

 後日、インターネットで調べてみると、太宰府天満宮の裏山に天開稲荷社という稲荷神社があるのを見つけた。社伝によれば鎌倉末期に京都の伏見稲荷大社から御分霊して御遷して祀ったのが創建であるという。

 余談ではあるが、私は件の大学に合格した。

 断じて神頼みなどしていない。実力である。

 しかし、あの美酒を呑んで以来、私は一度も風邪をひくこともなく、頭痛に悩むこともなかった。健やかに勉学に励むことが出来た。

 あの爺さんの言うとおり、人事を尽くして天命を待った。

 春になる前に一度、お礼参りに行かねばなるまい。

 天津甘栗とお酒を持参して。

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