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翡翠秘抄

 夢を視た。
 薄暗い病院の廊下、緑色の非常灯の明かりが仄かにあたりを照らす。赤黒い血に塗れたリノリウムの床の上に誰かが転がっている。白衣を着ているので医師だろうか。少なくとも、彼には下半身がない。まるで乱暴に引きちぎられたような有様に思わず目を背ける。
 夢だ。これは夢だ。
 呆然とする頭で、必死に思考する。こんな病院は知らない。こんな光景は知らない。こんな男は見たことがない。これは紛れもなく夢に違いない。
 起きろ。起きろ。起きろ。起きろ。
 絶叫さえ声にはならない。どれだけ力んでも咽喉は声を発しない。そもそも手足さえ自由には動かないのだ。ただ1つ、目だけがカメラのように瞬き一つせず、無機質に記録を続ける。
 この身体は、俺の身体じゃない。
 ぎし、と木製のドアの軋む音が響く。振り返るまでもない。視線の先、血塗れの廊下の最奥、非常口を示す非常灯の下に、それは立ち尽くしている。
 女だ。女だと思う。血飛沫で斑らに染まったワンピース。覗く手足は腐敗したようにくすみ、指先の爪は一枚残らず剥がれている。そして、その女には顔がない。いや、顔どころか口がない。上顎から上が消失していて、空っぽの頭蓋にへばりつくように長い髪が背へと伸びている。
 逃げろ。逃げろ。逃げろ。
 しかし、今夜も指一本動かない。
 そうだ。俺は何度も、この夜を見ている。何度も。何度も。何度も。
 女がひたひたと距離を詰めてくる。一歩近づく度に目の前が昏くなっていくように感じる。
 硬直したまま動かない身体へと、女が触れる。ゾッとするほど冷たい、濃密な死の気配に背筋が粟立つ。
 心臓の鼓動が耳元に感じるほど強く脈打つ。
 爪の剥がれた長い指が、頬を包むように触れる。逃さないよう確かめるように。
 そうして、親指が眼球へゆっくりと押し込まれて。

 ぶつり、と頭蓋の内側で音がした。

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