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誓華交暁

 木山さんは屋敷町の外れ、千曲坂の近くに住んでいた。
  
 鬱蒼と茂った竹林の間にある小路を進むと、古い屋敷が見えてくる。竹林は暗く、笹が擦れる音がささやき声のように聞こえて気味が悪い。胸に抱いた風呂敷の中身を隠すように、私は身をかがめて小走りに駆けた。
 塀で囲まれた古い日本屋敷、その物々しさに思わず腰が引けてしまう。表札には『木山』とあり、門の脇には家紋の入った提灯が吊るされている。丸に百足、というのはいかにも趣味が悪い。全てが話に聞いていた通りだった。
 門を潜り、飛石を伝って玄関へ向かう。
「ごめんください。木山さんはご在宅でしょうか」
 奥へ声をかけると、庭へ、と重くひび割れたような声が返ってきた。戸惑っていると、もう一度確かに「庭へ回ってくれ」という言葉が耳に届いた。言われるがまま庭へまわると、障子が開いて着流姿の初老の男性が、顔にかかった髪を掻き上げながら現れた。総髪は白く、見た目よりも年齢を重ねているのかもしれない。着物の合間から覗く、骨の浮かんだ胸が痛々しい。病魔に侵されているのか、彼は骸骨のように痩せこけていた。
「こうも陽射しがきついと、どうにもいかんね」
 忌々しそうに言って、こちらを睨みつける瞳に思わず絶句する。
 一瞬、彼の目の色が青紫色のように見えたのは、錯覚だろうか。
「あの、木山さんでいらっしゃいますか?」
「他に誰がいると? ここは私の家だ。生憎、独り身でね。君のような女性が訪ねてくることも少ない。用件は?」
「あの、お願いがあってきました」
「まずは、それを見せたまえ」
「見せるのは構いません。でも、その後で必ず私の話を聞いてもらいます」
 私は言いながら、胸に抱いていた風呂敷を縁側に広げた。包まれていた中身を見た途端、木山さんが興味深そうに身を乗り出して、日差しの届かない影の縁までにじり寄った。
「これは、君のものか?」
「いいえ。これは祖母から受け継いだ曽祖母の遺品です。元は、舞台で使用されていた物だと聞いています」
 血のように濃く赤い外套。手に取ると肌に吸いつくように心地よく、羽毛のように軽い。
「素晴らしい。大変素晴らしい逸品だ。これほどのものならば、幾らでも包み込んで夢を見せてしまえるだろう」
「夢?」
「いや、こちらの話だ。さて、いくら欲しい? 言い値で買い取ろう」
 手を伸ばす木山さんから逃れるように、外套を胸に掻き抱いた。
「違うんです。お金が欲しいんじゃありません」
「ならば、どうして私の元へやってきた?」
 その声がまるで獣の唸り声のようで、私は今にも逃げ出してしまいたくなったが、懸命に耐えた。
「約束した筈です。私の話を聞くと」
 彼女は言っていた。決して話の主導権を与えてはいけない、と。
 木山さんは獰猛な眼で私を見ていたが、やがて諦めたように腰を下ろした。
「いいだろう。君の話を聞こうじゃないか」
 歪んだような笑みを浮かべて、彼は続けた。
「そういえば、まだ聞いていなかったね。君の名前は?」
 それも彼女の言う通りだった。

《決して彼に名前を教えてはいけないよ。嘘の名で誤魔化してもいけない》

「言いたくありません」
 毅然と返すと、彼は顔を歪めて忌々しそうに笑った。
「まぁいい。とにかく、話してみるがいい」

   ●
 戦後、東京で歌手をしていた祖母は死の床にあっても、真っ直ぐに背筋を伸ばして座って私を待っていた。縁側に続く障子は外され、青々とした中庭が見える。祖母が愛した庭木が見えるよう、父たちが計らったのだろう。
 横になれ、とうるさい父たちの声にも応じず、私以外の人間に座敷から出ていくよう言った。一度決めたら頑として聞かない祖母の言葉に皆、辟易した様子で席を外した。
 痩せこけた頬、顔には死相がくっきりと浮かび、こうして身体を起こしているのも辛いだろう。
「舞。私には五人の可愛い孫と、目に入れても痛くない曽孫が七人いるけれど、私のように芸の世界に身を置いたのはお前だけだったね。お前が役者を志すと聞いた時には、心が踊ったものだよ」
「お婆ちゃん。お願いだから、横になって」
「私の母、お前の曽祖母が女優だったということは、まだ話していなかったね」
「……初耳だと思う」
「そうだろうとも。秘密にしてきたからね。誰にでも託せるものじゃあないんだ」
 祖母の力強い瞳が、柔和に微笑むのを私は見た。
「舞。そこの違棚の下、地袋にある風呂敷を持ってきておくれ」
 胸に抱けるほどの大きな風呂敷だったが、手に取ると見た目よりもずっと軽くて柔らかい。
「私が母から受け継いだものだよ。亡くなる間際にね。かつての恋人から贈られたものだけれど、どうしても返す事ができなかったと。それ以上は、何も教えてはくれなかった」
「開けてもいい?」
「勿論だとも」
 風呂敷の結び目を解きながら、なんだか胸が酷くドキドキした。
「広げてごらん。丁寧に扱うんだよ。見た目以上に、古いものだからね」
 それは年代物のワインを彷彿とさせる、真紅の外套だった。
「舞台で使っていたマントらしい。舞、後生だ。どうかこれの持ち主を探し出して欲しい。私も方々に聞いて回ったが、足取りを掴めなかった。もしかすると、子孫の方も存命ではないのかもしれない」
 祖母の顔色が悪い。それでも、懸命に呼吸を繰り返し、言葉を紡ぐ祖母を止めることはできなかった。
「わかった。必ず返します」
「約束できるかい? この場限りの嘘なら容赦しないよ」
「絶対に約束は守るわ。だから、安心して」
 祖母は私の言葉を噛みしめるように目を閉じると、それから溢すように「安心した」と言った。
 少し疲れたから眠らせておくれ、と言う祖母を布団に横にすると、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。座敷を出ると、居間にいた父たち親族に何を話していたのか、しつこく聞かれたが、適当に嘘をついておいた。
 翌朝、夜明けと共に祖母は息を引き取った。
 祖母と最期に言葉を交わしたのは、結局、私になってしまった。

 葬儀の後、喪があけるのも待たずに当時の劇場に関する情報を調べはじめた。なにぶん、戦前のことで詳しいことは殆ど分からなかったが、とある花形女優が地方の劇場で亡くなったという古い新聞の記事を見つけた。なんとなく心に引っかかるものがあり、彼女のことを調べていくと、彼女と肩を並べて舞台に上がる女優を見つけた。記載されたそれは曽祖母の名前だった。
 事故についての記事は比較的多く、いくつかの新聞を調べていくうちに、やがて生前の彼女の写真が見つかり、私はようやく合点がいった。笑顔で写真に写る彼女が肩に羽織っていたのは、あの外套に間違いなかったからだ。
 しかし、それ以上のことはどれだけ調べても分からなかった。祖母も人脈を駆使して、できる限りのことはしただろう。今更、同じことをしても新しい手がかりが見つかるとは思えない。
 そうして、数ヶ月が過ぎた頃、劇団員の一人から奇妙な話を耳にした。
『曰くつきの品ばかりを扱う、奇妙な骨董店がある』
 興味本位で話を聞いてみると、その店があるという場所は、彼女が亡くなったという地方劇場のある街だったことが判明した。
 藁にもすがる思いで件の骨董店の名前を聞くと、彼は『自分も噂を聞いたことがあるだけだよ』と前置きをしてから『たしか夜行堂。そうだ、夜行堂という名前の店だった』と答えた。

 屋敷町にある夜行堂という骨董店は、なかなか見つからなかった。休みを見つけては何度も新幹線で向かい、一日中あちこちで話を聞いて回ったが、どれも無駄に終わった。たまに噂を知っているという人には会えたが、店の正確な場所は皆一様に『分からない』としか語ってはくれなかった。
 やがて祖母が亡くなってから、一年が経とうとしていた。
 その日は、盆の入りだった。あちこちで迎え火を焚く用意をする家々を横目に、うだるような暑さの街をうろついていた。祖母の初盆法要までには帰省しなくてはならない、そんなことを思いながら歩いていると、不意に送った視線の先、薄暗い裏路地の奥に一軒の古い家屋が見えた。
 もしかしたら。そんな思いで駆け寄った店は想像していたよりもずっと気味が悪く、軒先から吊るされた提灯の明かりに、思わず踵を返しそうになった。
 入り口の磨りガラスに貼られた紙には夜行堂とあるものの、中の様子は殆ど伺いしれない。僅かに中から漏れる灯りだけが全てだった。
 胸に抱いた風呂敷を握りしめ、店の戸に手をかけると、まるで向こうから誘い込まれるように抵抗なく戸が横滑りした。店内は薄暗く、天井から吊るされた無造作な裸電球があたりを照らしているだけで、およそ配慮らしいものはない。棚の上には様々なものがのべつまくなしに並び、そのどれにも値札がついていなかったが、そのどれにも手を触れたいとも思えなかった。
 不意に、甘い匂いがした。店の奥、帳台に腰かける女性が煙管を咥え、紫煙を煙らせている。
「いらっしゃい」
 彼女の声を聞いた瞬間、背筋が粟立つのを感じた。返事も返せず、慄いていると、女性は不思議そうな顔になり、それから「しまった」とばかりに手を払うように顔の前で振った。すると、急に恐ろしさが引いていき、やがて何も感じなくなった。
「驚かせてすまない。最近は視える子がここにくるのも珍しいから、気が緩んでしまっていたらしい。もう怖くはないだろう?」
「はぁ」
「さて、ここへはどんな御用で? 買い物をしに来たという風にも見えないが」
「あの、見ていただきたいものがあるんです」
「買取かな?」
「いえ」
 私は帳台を借りてもいいか許可を取ってから、風呂敷を広げた。
「この外套を持ち主に返したいんです。家族か、あるいはお墓でも構いません。お姉さんに、そういうのは見えませんか?」
 私が言うと、彼女は虚を突かれたような顔になり、それから可笑しそうに笑った。
「なるほど。そういう事情か。なら、生憎だけれど、私では力になれない。これは亡き主人の他に、二度と持ち主を求めないだろう。だから、ここで預かる訳にもいかない。だがね、少しばかり危険だが、役に立ちそうな人間を一人だけ知っている」
「どなたですか? ご紹介してもらえないでしょうか」
「木山という。屋敷町の外れにある小高い丘の上、竹林を真っ直ぐ抜けた先にある屋敷に住んでいる。奇人変人の類だが、あれで変に責任感はある。ああ、言っておくと、悪人だからね。用が済んだら、さっさとお暇しなさい」
 それから、と彼女はあれこれと教えてくれた。
「とまぁ、こんな辺りだろう。今回は特別だ。あれも悪いようにしないだろう。だが、念のためだ。これも持って行きなさい」
 彼女はそういうと、棚から便箋と万年筆を取り出し、さらさらと手紙をしたためた。それから折って封筒に入れて、割印を押す。
「呪がかけてあるからね、決して開けてはいけないよ」
「わかりました」
「君の話が終わったら、すぐにこの手紙を渡すといい。それで先へ進める筈だ」
「ありがとうございます。その、本当に助かりました」
「いいんだ。彼女の舞台は素晴らしかったからね。これも何かの縁だろう」
「え?」
「なんでもない。さぁ、もう行きなさい」
 頭を下げ、店を出る間際、ここへは二度と来ないように、と背中に声をかけられた。
 振り返ると、夜行堂の姿は忽然と消え失せていた。
 空を見上げると、太陽が真上に見える。
 教えてもらった屋敷まで、駆けていくことにした。

   ●
 私の話を聞き終えた木山さんは、夜行堂の彼女が話していた通りに不機嫌そうに、眉間に深い皺を寄せて黙り込んだ。細い顎に手を添え、暫く何事かを考えているようだったが、やがて忌々しそうに言葉を吐いた。
「手紙」
 差し出した手紙を、奪い取るように受け取ると、封筒を乱暴に破って中の便箋を取り出す。それに時間をかけて内容に目を通すと、便箋もまた封筒と同じように破いて足元に捨ててしまった。
「忌々しい。こんなことなら、捨てておくのだった」
 待っていなさい、と吐き捨てるように言って立ち上がり、座敷の奥の闇へ姿を消す。
 私は沓脱の上で、背筋を太陽にじりじりと焦がされながら、彼が戻ってくるのを待った。『何があっても屋敷の中へ上がり込んではいけない』と彼女は繰り返し言っていたのを思い出しながら。
 遠くから聞こえる蝉の声に混じって、中庭の土蔵の方から呻き声のようなものが聞こえてきたが、気にしないことにした。呻き声は二つ、三つ、とその数を増やしていくが、決してそちらは見ない。
 やがて、どれほど経ったのか。億劫そうな足取りで彼が戻ってくると、濃い影の中から日向にいる私へと何かを放り投げて寄越した。足元に落ちたそれを拾い上げると、古い鍵だった。軸に繊細な意匠が施されていて、思わず目を奪われる。
「湖上坂の劇場へ行くがいい。二度とここへは来るな」
 柱に背中を預けて、腕を組んで立つ姿は暗く、禍々しい。
「でも、鍵をお返しに来ます」
「要らんよ。不要なら、湖に放り捨ててしまえ。もっと前にそうすべきだったのに、今まで捨てられずにいたことに腹が立つ。……未練だな」
 拒絶するように障子を閉められ、私は一礼してからすぐに外套を風呂敷に包んで胸に抱いた。鍵を手に屋敷を後にするとき、中庭の池で奇妙な形をした鯉が跳ねたような気がしたが、見ないようにしていたので判然としなかった。
 竹林の間の小路を駆けながら、決して背後を振り返らないよう、そればかり考えていた。

  ●
 湖上坂は近衛湖疎水に沿って県道を進み、小高い丘の上にある林の中に息を潜めるように建っていた。創建当時の帝国劇場のデザインを模したものであることは、一目で見て取れる。煉瓦造りのルネサンス建築様式、相当に古い建物であるのは間違いないだろう。
 夕暮れに染まる白亜の劇場は、荘厳さと共に近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
 入口は閉められ、閉館の札がかけられている。鍵を使おうとしたが、どう見ても鍵穴が新しい。念のためと、あてがってみたが、やはり合わなかった。
 どうしたものか、と途方に暮れそうになったが、不意に鳴き声がした。見ると、夜を溶かしたように黒い猫が柱の影からこちらを見ている。ミャア、と猫はもう一度鳴いて、長い尾を翻して劇場の側面へと回り込むように歩き出した。
 劇場の右側面へ回り込むと、目立たない場所に古い搬入口の扉がある。木製の古い観音開きの扉で、硬く封じるように堅牢な錠前がかかっていた。鍵を差し込むと、私が回すよりも早く錠前が解けるようにして落ちた。扉が軋んだ音を立てて左右に開き、通路の電灯が招き入れるように次々と点いていく。
 昔の搬入路なのか、真っ直ぐに舞台裏へと繋がっていた。今まで私が立ってきた劇場とは規模も歴史もまるで違う。大理石の柱、飴色のように艶やかな階段の手すり、深い歴史が息づいているのを肌に感じる。
 不意に、歌が聴こえた。オペラだ。びりびりと腹の底に響くようなソプラノ。
 休館日ではなかったのだろうか。それとも誰かが練習しているのか。
 舞台裏から覗き込むと、観客席を埋め尽くす大勢の人々が、喰い入るように舞台を見つめていた。スポットライトの照らす先には、漆黒の衣装に身を包んだ女性が手を振り上げ、怒りを露わに復讐の歌を絶唱している。
 『魔笛』夜の女王のアリア。世界でも数人しか歌い上げることはできないと言われる、至高の一曲。それが目の前で、高らかに歌われていた。
 その圧倒的な歌声に、絶句する。
 —— 人の声が、歌が、これほどまでに心を打つのか。
 フルート、オーボエ、ホルン、トランペット、ティンパニ、そして弦楽合奏が織りなす旋律の中で、彼女から奏でられる歌声は、力強く聴いている者の心に響く。類稀な才能を持った人間が、血の滲むような努力を捧げて鍛え上げた歌劇の粋。私たちが目指す舞台の頂点のひとつが、ここなのだと分かる。
 
 歌が終わり、全ての観客が立ち上がり、彼女を喝采した。万雷の喝采、と呼ばれるように拍手が雷のように響き渡る。私も胸に外套を抱いたまま、懸命に拍手した。
 よく見ると、観客席の人々の格好がなんだか古めかしい。髪型や服装、纏う空気、何もかもが現代のそれとは違う。興奮さめやらぬ頭のまま、不思議とすんなり腑に落ちる。これはかつての舞台、この劇場に刻まれた記憶なのだと。
 不意に、舞台の上の彼女が振り返り、私を見た。美しい、照明を弾くような魅力的な女性だった。
 ——遠い過去に亡くなった死者なのに、恐ろしくない。それどころか、涙が溢れて仕方がなかった。
 高鳴る鼓動を抑えて、私は彼女に歩み寄り、外套を厳かに手渡した。
「曽祖母は、あなたのことをずっと想っていました」
 彼女は笑っているような、泣いているような表情をして、それから外套を手に取ると、翻すように鳩の血のように赤く染まった外套を羽織る。その気高く、誇り高い様子に胸が痺れた。
 緞帳が音もなく降りて、やがて、目の前が真っ暗になる。

 気がつくと、ひとり舞台の中央で立ち尽くしていた。
 観客席を埋め尽くしていた人々も消え失せ、外套は見当たらず、彼女がいた痕跡もない。
 現在の劇場に、戻ってきていた。
 涙を拭いてから、舞台裏へと戻る。通路を通り、錠前をかけてから扉を後にした。
 夕暮れに染まる白亜の劇場を見上げると、涼しげな風が髪を撫でる。
 目を閉じれば、あの喝采がまだ耳に聞こえるような気がした。
 夜に向かい始めた空に目を向け、石畳の上でステップを踏む。
 いつか必ず、この劇場の舞台に立とう。その日を夢見て、やっていける。
 踵を返して、門に背を向けた。私自身が選んだ道へ進むために。

 丘の下に広がる景色を照らす夕陽が、いつもより少しだけ、眩く感じた。

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