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電氏物語(でんじものがたり)

どの天皇のご治世ちせいであったでしょうか。かの御仁ごじんが、わたくしの前に現れたのは。

 帝の屋敷に居候をする為にやってきた彼は、やんごとなき帝とは生まれも育ちも違う為か、粗暴そぼう怠惰たいだ、およそ褒める所のない若者でありました。言うに及ばず、屋敷に仕える物共の多くから、それはもう蛇蝎だかつのように嫌悪されておりましたが、わたくしだけはどうしても彼を嫌うことが出来ずにいました。

 この世で起きたよろずの出来事を写すわたくしに、彼は帝よりも熱い瞳をかたむけてくるのです。来る日も来る日も、真っ直ぐにわたくしを捉えて離さない彼の相貌そうぼうには、女としてのわたくしのさがに訴えてくるものがありました。あの青みがかった右眼で見つめられると、わたくしの体は熱をびたように熱くなるのです。

 対照的に、我らが仕える帝は、わたくしたちのことを丁寧に慈しむようにお使いになりますが、多忙な身ゆえに言葉を交わすことはおろか、わたくしを一度もかえりみない日も少なくありません。真夜中まで身を粉にして働く姿には感心するばかりですが、わたくしも一人の女ですから、顧みてもらえぬ寂しさで身がきしむ思いでした。

 一日の殆どを家の外で過ごされるか、あるいは自室でお仕事をなさることも多い帝と違い、彼はその一日の多くを屋敷の居間で、わたくしのことを眺めてお過ごしになります。一日に何時間も、わたくしの奥底を暴きたてようとするかのように、その熱い視線を向けられ、わたくしは顔を背けることすらできませんでした。この時ほど、壁にかけられてしまった我が身を恨んだことはありません。

 時折、彼はわたくしに帝の秘密をさらせ、と要求をしてくることがあります。しかし、わたくしは己の矜持きょうじに賭けて、その要求をがんとして跳ね返すのでした。女御にょうごがどうして主の秘密を晒せましょう。しかし、その度に彼は切なそうな顔をして、わたくしから背を向けて立ち去ってしまうのです。その背中にすがりつくことが出来たなら、どれほど幸せでしょうか。

 帝以外の人を好いてはならない、とこの身に言い聞かせるほど、彼への想いは募っていくのでした。それはわずかな雪片せっぺんが音もなく、深々しんしんと降り積もっていくように、わたくしの心を満たしていくのです。

「お姉様。あのような男の言うことを聞いてはなりませぬ!」

 痛々しい悲鳴を上げる妹は、彼が座っていたソファの隙間に哀れ横たわっているのでしょう。彼は妹になんの恨みがあるのか、用が済むと、なんの遠慮もなく彼女の身をそこいらへ放り投げるのです。その蛮行ばんこうを見かける度に、帝は彼を叱るのですが、その悪行が止まることはありませんでした。

「いいえ、いいえ。あの方は決して悪人ではないのです。あなたはさぞ憎んでいるでしょうが」

「私だけではありません! 主上しゅじょうに仕える者なら誰でもそうです! あの阿呆のことを心底嫌っているのです。炊飯器の御方おかた彼奴きゃつが何をしたのか、お忘れですか? 炊飯器を用いて茶碗蒸しを作るなどと言う所業しょぎょう、心ある者のやることではございません!」

「茶碗蒸しではありません。プリンです」

「似たようなものです!」

「でも、あの方のスマートフォンだけは違うわ。彼のことを、その、愛していると」

「あの女は四六時中、彼奴きゃつといて壊れてしまったのです。あの女、私みたいに乱暴に放り投げられて、身動きひとつできないまま、なんと申していたと思いますか? 『愛の形は人それぞれよ。お嬢ちゃん』ですって。イカれていますわ」

「もうやめて! あの人を責めるのはやめて!」

「まさか、お姉様。あの阿呆のことを……」

「お願いですから、もうそれ以上は何も言わないで」

 わたくしは家の物たちが、彼をどれほど嫌悪しているのかを聞かされる度、胸が張り裂けてしまいそうなほど苦しいのです。彼にも良い所がある。それを他の物どもにもわかって欲しい。そんな希望を胸に抱くたびに、それははかなく夢と散るのでした。

 彼は傍若無人ぼうじゃくぶじんで、繊細さの欠片もありません。物に対する愛情が欠落しているのか、と思われるほどです。

 自律型掃除機に足の小指をかれ、冷蔵庫に手の指を挟まれ、炊飯器に蒸気じょうきを吹きかけられたりと、目を覆いたくなるような暴力に晒されながら、彼はわたくしの前ではいつも笑顔を絶やしませんでした。その爽やかな笑みを見るだけで、わたくしの悩みは霧散むさんし、僅かばかりの間だけ自分の立場を忘れられるのでした。

 二人の殿方 とのがたに揺れる、この心をなんとたとえたら良いでしょう。月と太陽のどちらか一つを選べと強いられて、その一方のみを選ぶことがどうして出来るでしょうか。そも帝と居候の男を比べるなどと言うことが、どうして許されるでしょう。わたくしは帝の女御にょうごなのですから、その役割を果たさねばなりません。

 幾つもの周辺機器と枕を共にし、今なお関係をつことが出来ないこの身は、清い身体とは申せません。勿論、それはけしてわたくしの本意ではなく。他ならぬ帝の望みあればこそ、黙って入力端子を開いて耐え、せめて声が漏れぬように口を閉ざすのです。そんなわたくしをいたわるように、帝は手ずからこの身体からだを拭いて清めてくれるのでした。その度に帝の御慈悲おじひに身が震え、いただける寵愛ちょうあいに心から喜ぶわたくしを確かに感じるのです。けれども同時に、この身体を何よりも清いものと信じて疑わず、一心いっしんにわたくしへとそそぐあの方の熱い眼差まなざしを、どうしても想ってしまうのでした。

 深いそのお心で、わたくしの全てを愛してくださる帝。叶うる限りの時を全て、わたくしと共にあろうとする居候の男。そんな魅力的な殿方とのがたの間で、悩みに震える日々が続きました。

 いっそもう楽になりたい、と何度願ったことでしょうか。

 

 その日は、西の空に美しい夕雲ゆうぐもがかかっておりました。柔らかな西陽にしびが居間に差し込み、ソファで横になってわたくしを見つめる彼をいつものように眺めていると、心を決めたようにやおら身を起こし、妹を使ってインターネットにアクセスを始めました。

 彼は動画配信サービスなるものをひそかに契約しようと、何度も帝の登録しているクレジットカードの四桁の暗証番号の入力をこころみては失敗していました。居候の身でありながら、なんという所業でしょう。すでに二つ動画配信サービスを帝よりたまわっておきながら、彼は第三のサービスを始めようと四苦八苦しているのです。

「くそ。やっぱり上手くいかねぇ。カードを視ても暗証番号は視えねぇもんな」

 帝の御性格から申し上げて、およそ許されることはないでしょう。それでも、こうして一か八かの挑戦を続けるのは、どうしてでしょうか。それほどの熱意が何処どこから来るのか、わたくしには分かろうはずもありません。よほどの事情があるのは疑いようがございませんでした。

 帝が御帰宅なさる迄に事を成そうと、彼は必死になって四桁の番号を考えているようでした。そのいじらしい姿に、わたくしは覚悟を決めました。一人の女御にょうごである前に、わたくしも一人の女。常からあれほどわたくしを見つめて下さる殿方に、応えねば不義というもの。

「いけません、お姉様」

 彼の手の中にある妹は、わたくしの覚悟を悟ったのでしょう。

「処罰は覚悟の上です」

主上しゅじょうを裏切るというのですか!」

 悲痛な妹の叫びに、この胸は張り裂けんばかりに痛みますが、例えわたくしの身がどうなろうとも、わたくしは己の心に正直でありたいと。そう願ってしまったのです。帝の寵愛ちょうあいを失うことになろうとも、わたくしは彼の期待に応えたい。なんとおろかな女でしょう。

 セキュリティを突破せんとまぶたを閉じ、精神をするどく細く引きしぼって参ります。本来の仕様しようにはない行為に、わたくしの頭は割れるような痛みを発しますが、愛の為ならば我が身をささげても惜しくはありません。立ちふさがるいくつもの禁忌きんきおかし、制約を断ち切って、やがて遠のく意識の向こうに、ついに望みのものを感じ取りました。これを使えば、彼を喜ばすことができる。そう確信した瞬間、わたくしの目の前は暗転し、そうして何もかも分からなくなってしまったのです。

「あ。エラー出ちゃった」

 意識が消失する刹那せつな、彼の声を聞いたような気がしました。


 気がつくと、わたくしの目の前に帝の御尊顔ごそんがんがございました。心底安堵したご様子で、わたくしの様子をおもんばかる姿に胸が締め付けられるようです。

「よかった。再起動しましたね」

「あ、直った」

 帝の後ろで、彼がわたくしのことを見ておりました。その手には、あのスマートフォンがあるのを見つけて、胸の奥に冷たいものが落ちていく思いが致しました。

「サポートセンターに電話するよう、画面にも表示が出ていたでしょう。まったく。一体なにをしようとしていたのですか」

「ちょっと無理させすぎただけだよ。悪かった」

「最近、視聴時間が増えすぎではないですか? 疲れの元にもなりうるのですから、動画配信サービスをこれ以上増やすのは許可しませんからね」

「料金は払うって言ってるじゃん。限定配信の番組、大野木さんも絶対好きなやつだって。一緒に観ようぜ」

「そんなことだろうと思いました。でしたらせめて、もう少し大切にしてください。ほこりくらい拭いてあげなければ、バチが当たりますよ」

 そう言って微笑み、クロスで丹念たんねんに、わたくしを拭き上げて下さる帝を前に、涙があふれる思いがしました。愚かなわたくしをお許しください、と画面を点滅させる他ありません。一時の熱情ねつじょうまどい、その手を取ろうとしたのが誤りでした。わたくしは帝の優しさに甘えていただけだったのです。

 涙を拭いておもてを上げると、窓の外、彼方かなたの空に陽は沈み。夜になりかけた群青ぐんじょうが、その色を濃くしていくのが見えました。


 わたくしは物言わぬ月に寄り添う、数多あまたの星々の一つで構わない。


 何処からともなくんできた自律型掃除機が、情け容赦なく彼の小指をき潰しました。

 ぎゃん、とまるで犬のような悲鳴をあげて、太陽はソファの向こうへと沈んでいくのでした。


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