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藝窩響児

 重い灰色の空を見上げると、小さな雪片がちらちらと降り注いでいた。夕方から雨になるかもしれない、と鯤が言っていたけれど、どうやら雪になったみたいだ。
 ランドセルを背負い直して、自宅へ続く長く緩やかな坂道をまた歩き続ける。僕が去年から暮らしている祖母の家は、学校から程近い丘の上に建っていて、周囲の家から距離を置かれるように、雑木林の奥にある。木の柵がぐるりと庭を囲い、小さな畑では薬草や野菜を育てているのだけれど、学校の子供たちはうちのことを『魔女の家』だと噂していた。
 その言い方は正しいな、と思う。僕もこの家に初めてやってきた時には、まるで魔女の洋館だと思った。玄関のドアの横にかけられた表札だけが和風で、木の板に『白石』とある。
「ただいま」
 返事はない。祖母はたまに何も言わずに家を空ける。短い時には半日、長い時には一週間くらい。どこへ何をしに行っているかは知らないし、聞いても教えてはくれない。祖母はそういう人だ。優しいのに変に厳しくてマイペース。そして、何より僕のことを子供扱いしない。一人の人間として見てくれた。
 二階の自室へ戻り、ランドセルを棚に置いて、ベッドに寝転がる。リビングの暖炉に火を入れないといけないのかと思うと、なんだかうんざりした。
 祖母が僕のために用意してくれた部屋は、かつてお母さんが寝起きしていた部屋だという。僕はお母さんから祖母のことを殆ど聞いたことがなかったけど、きっと仲がよくなかったのだと思う。この部屋にはお母さんの私物らしきものは何ひとつ残っていなかった。ポスターや本、日記なども何ひとつ。お母さんが暮らしていたという証拠は、何ひとつ見つけられない。
 ぼんやりと壁に目をやると、ポプリの束がかけられている。あれはお母さんが子供の頃にも、ああしてぶら下がっていたのかしら。
『戻ったのか、和紗』
 窓の下で伏せていた大きな黒い犬。耳がピンと立っていて、しなやかで筋肉質な身体。口の隙間から覗く鋭い犬歯が妙に大きい。僕と同じ、小豆色の瞳が静かに僕に語りかける。
「ただいま。鯤」
 このコン、という発音が僕は好きだった。命名したのは僕だ。我ながらとても良い名前だと思う。
『おかえり。学校はどうだった』
「楽しかったよ。でも、雨は降らなかった。代わりに雪になったみたい」
『そうか。傘を持たせる必要はなかったな』
「ううん。ありがとう。鯤」
 ビロードの生地のようにしっとりとして、艶やかなその毛並みを撫でると、グルルと心地良さそうに唸り声をあげた。
「そういえば、お婆ちゃんが何処に出かけたか知ってる?」
『いや、何も』
 窓の外へ目をやると、小粒の雪がはらはらと舞い落ちている。傘を持って、長靴を履いて行けば少し出かけるくらい大丈夫だろう。
「鯤。僕、散歩に行きたいな」
 鯤は窓の外の空を少しだけ眺めて、一度だけ尻尾を振った。
『雪が酷くなる前に帰ると約束できるのなら』
「うん、約束する。河原まで行きたいな。川が見たい」
『風邪をひかないように厚着をしっかりするのを忘れるな。マフラーと手袋も』
「うん」
 鯤の言われるままに服を着込むと、なんだかむくむくと着膨れを起こしてしまった。こんな格好をクラスの誰かに見られるのは困る。
「コートは脱いでもいい?」
『駄目だ。また風邪を引いて熱を出すぞ。ただでさえ、お前たちの体毛は薄いのだから』
 僕はそそくさとコートを脱ぐと、下に着ていたセーターを脱ぎ捨てた。
「これなら少しは動きやすい。ほら、コートは脱いでないよ」
『寄り道はしない。河原を少し歩いたら家へ帰る。それでいいな?』
 祖母よりもよほど過保護だな、と時々思う。初めて会った時から、こんなに口うるさかったかしら。
 玄関脇のキャビネットにかけられたリードを手に取り、鯤の首輪に結びつける。
『首輪は必要ないんだがな。隷属しているようで気に入らない』
「鯤のように大きな犬が首輪もしないで散歩していたら、まわりの人たちが驚いてしまうよ」
 気難しそうな顔をする鯤と共に家を出る。きちんと鍵をかけて、外灯のスイッチも入れて。祖母が帰ってきた時、外灯が点いていないと口うるさい。
 外に出ると陽が沈みかかった空は暗く、風は刺すように冷たかった。はぁ、と息を吐くと白い靄になってすぐに消える。手袋をしてきたのは正解。
 坂道を降りながら、林の向こうに見える街並みに目をやる。家に灯りがふつふつと灯る光景が、すごく綺麗で思わず足が止まってしまった。あの家に住んでいるクラスメイトたちが、丘の上にある『魔女の家』で暮らす僕のことを嫌っているんだ。
『和紗。どうかしたのか?』
「ううん。なんでもない」
 こういう時、僕は決まっていなくなってしまったお父さんとお母さんのことを思い出す。ある日、忽然と姿を消してしまった両親のことを。
「ねぇ、鯤。お父さんたちのこと、教えて?」
 鯤は小豆色の瞳を静かにこちらに向けたまま、暫く何も言わなかった。
 大きな雪の粒が降り積もっていく。
 やがて、鯤の尻尾が力なく項垂れる。
『すまない。それだけは答えられない』
 もう何度問いかけたか分からない。でも、その度に鯤は応えてくれた。同じ答えを何度も。
 唐突に、なんの前触れもなく、お父さんたちが消えて、代わりに鯤が現れた。初めて出会った時は、今みたいにカッコいい犬の姿ではなかったけれど。僕の持っていた本に出てくる犬の姿になってくれたのは、きっと鯤の優しさだと思う。
「ううん、ありがとう。鯤」

   ◯
 川に近づいていくにつれ、歩いている人も少なくなっていった。街灯が等間隔に並んで、その下を丸く照らしている。陽は殆ど沈んでいて、土手の向こうに見える空は群青色をしている。
 土手を登る階段を歩いていくと、不意に声が聞こえたような気がした。
 階段の途中で立ち止まり、辺りを見渡すと街灯の下に同い年くらいの男の子が立っていた。
『視るな。和紗』
「でも」
『寄り道はしない。そう約束しただろう』
 僕は反論しようとして、口を閉じた。僕がしようとしていることは、ただの自己満足というものだからだ。クラスメイトの誰にも、もちろん祖母にも理解してもらえない。でも、鯤は理解した上で反対している。他でもない僕のために。
 土手を登り切ると、大きな川が現れる。雪の欠片が舞い落ちる中、鯤と共に歩いた。
 陽が稜線の向こうへと消え、周囲が急に暗くなっていった。街灯が次々と点灯していく。
 そして、僕の隣の街灯に光が灯った。その下にさっきの男の子が立ち尽くしていた。見覚えのある黒を基調にした制服。そのお腹の辺りが赤黒く染まっている。
 その手が、僕の首にかかる。冷たい、死の感触。お母さんとお父さんの匂い。
 掌を通して伝わってくる。幾つものイメージが頭の中を通り過ぎていく。まるで他人の半生という声のない映像を一瞬で垣間見たような感覚。夜道を自転車で走る。横から衝撃、蹴り倒されたのだと思うよりも早く、背後から口を塞がれ、土手に引き倒される。抵抗しようと手足を振り回し、爪が相手の頬を深く引っ掻く。鈍く光る刃が閃き、腹部に突き立つ。フードを被った男が血に塗れたナイフを手に、転がるようにして闇夜に消えていく。熱がどんどんと失われていき、やがて視界が暗転する。
『和紗』
 鯤の声に我に戻る。
 ほんの数秒も経っていない。あの男の子も消えてしまっていた。
『拒絶しようと思えば出来ただろう』
「うん。でも、悪い人のようには視えなかったから。つい」
『死霊に情をかけてどうする。意味のないことだ』
「そうかな。僕はそうは思わないけど。僕もいつか死ぬよ。そうしたら死霊になるのかも」
 冗談まじりで言うと、鯤は鼻で笑い飛ばした。
『迷いを持って死ぬような最期には、俺がさせんよ』
「うん。ありがとう」
『もう十分に寄り道もしただろう。今夜は帰るとしよう。風も出てきた。吹雪くかもしれない』
 帰り道は小走りに、最短距離で家路についた。風はどんどん強くなって、雪もついには吹雪になってしまった。轟々と耳の後ろで風が逆巻いて、なにかが耳元で密やかに囁いているようだ。
 家に帰り着くと、庭のガス燈に明かりが灯っていた。
 祖母が帰宅しているサインだ。祖母は毎晩、日が暮れると庭のガス燈に火を灯す。僕が生まれるずっと前から続けている日課らしい。
「和紗」
 玄関のドアが開いて、中から灰色のカーディガンを背負った祖母が厳しい目で僕たちを見た。色素の薄い灰色の瞳、白髪というよりも銀髪とでもいうべき祖母はロシア人だという。
「陽が暮れる前には戻るようにと約束した筈ですよ」
「ごめんなさい。お婆ちゃん」
「謝罪よりも反省をするべきです。あなたは只でさえ、災いを引き寄せるのですから」
 祖母は力を抜いて笑い、僕のお尻をぽんぽんと叩いた。
「夕飯の準備が出来ていますよ。早くお皿を並べてください。パンを温めるのを忘れないで」
 家の中に入ると、暖かさに溜息がこぼれた。暖炉の炎が静かに揺れて、その正面に鯤が無言で丸くなる。冷えた身体を温めているんだろう。
 夕食のシチューとパンを食べ終えると、祖母が食後のコーヒーを持ってきてくれた。祖母は無糖で飲むのを好むけれど、僕はまだコーヒーの美味しさがよく分からないので、牛乳で割ってしまう。キッチンの棚から、こっそりとココアの粉を混ぜて飲むのが好きだ。
「お婆ちゃん。今日は何処に出かけていたの?」
「秘密です。女は秘密を抱える生き物ですからね。いつもそう言っているでしょう」
「でも、気になるよ」
「必要だと思えば、いつか話すこともあるでしょう。けれど、それは今日ではありません。さぁ、それを飲んだならお風呂に入ってベッドに行きなさい。夜更かしはいけませんよ。今日は風が騒がしいですからね」
「明日、うんと雪が積もったなら、学校を休んでもいい?」
「学校から通達があれば。そうでなければ雪を掻き分けてでも行きなさい。勉学に励むことができることへの感謝を忘れてはいけませんよ」
 祖母は厳しく言って、残りのコーヒーを飲み干してしまった。

 温かいお風呂に入ってからパジャマに着替え、ぽかぽかしたまま二階の部屋へ。祖母はお風呂をいつも熱くし過ぎてしまうので、僕なんかは長く浸かっていられない。ここへ越してきた頃は、お風呂に入るのが苦痛でしょうがなかったけれど、何事も慣れるもので、今ではお風呂に入らないと体がベタベタするような気になる。
「今日は10分も浸かれたんだよ。新記録だ」
『シャワーで済ませてしまえばいいだろう』
 呆れた様子の鯤はベッドの上の毛布に横になっていた。二つの前脚の上に顎を乗せて、視線だけを僕の方へ向ける。
「お湯に浸かるのが好きなんだよ」
『俺には理解しかねる』
 そういえば鯤がお風呂に入っている所を見たことがない。汚れるということがないから、特に気にしたことはなかったけれど、拭いてあげるくらいはしたほうが良い気がする。
「鯤」
『断る』
 まだ何も言っていないのに。
 ごろん、とベッドに転がると不意にとある事実に気がついた。
 慌てて身体を起こして、改めて思い出す。
「思い出した」
『どうかしたのか?』
 鯤に答えようとして、言葉に詰まってしまう。
「ううん。なんでもないよ」
『そうか』
「おやすみ。鯤」
 おやすみ、と鯤の声が響いて、部屋の明かりが消えた。

 予想していたとおり、翌日は雪が降り積もっていた。勿論、小学校からの連絡はなく、僕は制服に袖を通してからコートを重ね、マフラーをしっかりと巻いて家を出た。
「いってきます」
 頬を刺すみたいな冷えた空気、たまらず息を吐くと白く広がって消えていく。丘を下りながら、少しずつ身体が温まっていくのを感じた。
「あ、手袋を忘れてきちゃった」
 取りに戻ろうか、と一度だけ坂道を振り返って、すぐに諦めた。
 坂を降りたところで、他の通学中の生徒たちの列に加わる。
 みんな同じ、学校指定のキャラメル色のコートに身を包んで、おんなじランドセルを左右に揺らして歩いていく姿は、どことなくペンギンの群れに似ていた。
 私立小学校として地元では名門校として有名らしい。歴史も相当に古く、わざわざ県外から受験に来る生徒も少なくない。僕のように途中から転校してくる生徒はとても珍しいらしい。ちなみに祖母は大昔にここで先生をしていたという。僕が大した受験もせずに、ここに編入できたのも祖母のおかげなのだろう。
「普通の小学校でよかったんだけどな」
 なんというか、やっぱり学校の空気が全然違う。同じ制服に、同じ髪型、筆記用具も指定の物を使って、まるで型に押されたみたいにおんなじだ。
「おはよう。和紗くん」
 弾むような声で肩を叩いてきたのは、同じクラスの壮士くんだ。これも学校の決まりで、下の名前で呼ぶようになっている。
「壮士くん。おはよう。どうしたの? 息が荒いけど」
「寝坊したんだ。おかげで朝ご飯にも間に合わなくて、慌てて走ってきたよ。寄宿舎がもうちょっと近くにあったら良いのに。和紗くんの家はあの丘の上だよね。羨ましいよ」
「でも、毎日あの坂道を上り下りするんだ。おすすめしないな」
「寄宿舎よりもマシだよ。携帯電話もゲームも禁止なんて、今の時代に合ってないよ」
「僕も携帯電話やゲームは持っていないよ」
「そりや、そうだけど」
「まぁ、確かに禁止されているかどうかっていうのは大きいよね。するなって言われる方がずっと辛いし。監督生の人がうるさいの?」
「うるさいね。僕のとこの監督生は美鶴くんっていうんだけど、すごく厳しい。ご飯も食べるのが遅いとおかずを勝手に持って行ったりするんだ」
「それは酷い」
「そうだろ? でも、鈴川先生がいる時にはそんなに偉そうにしないから良いよ。鈴川先生って物静かだけど、罰則を与える時には本当に怖いんだ」
「僕は鈴川先生のこと、よく知らないな。高学年の授業を担当しているんだよね?」
「うん。なんだっけ。倫理だったかな」
「倫理……」
「授業も難しいんだって。でも、和紗くんなら良い点数取れるよ。こないだも学年で三番目だったじゃない。すごいよ」
 うちの学校はテストの結果が順位付けで公開される。成績が良ければ中等部と高等部のある同じ系列の学園へと推薦してもらえるらしい。おまけに学費は全額免除される。僕は密かに、その推薦を狙っていた。僕のことを引き取ってくれた祖母に、これ以上の迷惑はかけたくはない。
「たまたまだよ」
「今度、勉強教えてくれない?」
「もちろん」
「ねぇ、和紗くんのお婆ちゃんがうちの元先生って噂、本当なの?」
「さぁ、どうかな」
 僕は曖昧に笑ってから、壮士くんが好きな野球の話に話題を変えた。
 誰とでも仲良くできるほど付き合い上手ではないけれど、せめて数少ない友達とは仲良くありたい。

   ●
 私は、この学校という特殊な閉鎖空間が好きで堪らない。
 幼い男児たちが、洗練された意匠を凝らした漆黒の制服に身を包み、純粋な笑顔と挨拶を向けてくる。そこには羨望があり、畏怖があり、私が崇高な教師であるという事実をいつも教えてくれる。
 この学校は生徒が可能な限り無垢であるよう育てるという教育方針がある。受験の際にも学力は言うに及ばず、見目麗しく、温和で従順な性格の持ち主が選出され、また両親の品性も評価される対象だ。粗野で粗暴な子供などは獣と変わらない、という考え方は全く素晴らしい。
 そうして全国より集まった選りすぐりの男児たちに、教育を施す使命を持つ私たちは正しく聖職者だ。
 私は倫理を子供たちに教えるのを使命としている。
 倫理とは?
 一言で問われると非常に難しいが、私は子供たちに何が善であるのかを説いている。自ら思考し、行動したことにのみ意味が生まれるのだ、と。
 生徒たちは私の言葉の一つ一つ、一挙手一投足を見逃さないよう注視してくる。その視線を一身に浴びながら、彼らに教えを説くのは最高の快楽だ。
 そんな日々が続くのだと、私はなんの確証もなく信じていたのだ。

 放課後、廊下でひとりの生徒に声をかけられた。
 小柄で華奢な少年。低学年のクラスに編入してきた生徒だ。確か身内に理事の旧友がいるとかで、特別編入枠でやってきたのだ。極めて珍しい例だったので、職員室でも話題になっていたのを思い出す。
 西日の刺す廊下で、彼は真っ直ぐに私を見ている。小豆色の瞳がとても印象的だった。
 この年齢特有の中性的な気配、男女のどちらでもない未発達な体、艶やかな黒髪。透けるような白い肌が目に眩しい。そうだ。あの頃の絵画で見た、天使だ。
 むくむくと自分の中で暴力的な欲求が膨れ上がっていくのを感じた。
 ごくり、と唾を飲み込む音が耳元でやけに大きく響く。
「鈴川先生ですよね。川の土手で男の子を殺したのは」
 天使のような甘い声が、氷の刃のように私の心に深く突き立った。
 絶句した。
 笑い飛ばしてしまえば良いものを、彼の真っ直ぐな瞳に私は怯えたのだ。
 そう思うと、たえたがたい恥辱を感じずにはいられなかった。教師である私が、生徒によって糾弾されるだなんて、とても許されないことだ。
「君は、何を言っているんだ」
 怒気を滲ませた声に怯えるでもなく、彼は穏やかな表情で私を見据えた。
「あの子は、あなたに罪を償ってもらいたいそうです」
「なんの話をしているのか、私には分からない。君は自分が何を言っているのか。わかっているのか」
 あれは一度きりの失敗だった。衝動を抑えられずに、私は自身が導くべき羊をこの手にかけた。そして、二度と同じ罪を犯すまいと心に決めて、今まで清貧を重んじてきたつもりだ。そうするコトで自分の罪を購うことができると信じて。だからこそ、誰も私の罪を暴くことはできないでいたのだ。
「僕は先生がどうして、あんなことをしたのか興味がありません。でも、あの子の帰りを待っている、お母さんに謝罪して欲しいんです。それだけが、あの子の心残りですから」
 この子は何を知っているのか。何か手がかりを見つけたのか。
「警察に通報しても良いんですけど、自首した方が罪が軽くなるんじゃありませんか」
「君は、何を知っているんだ」
「—— 全部」
 淡々と告げる天使の瞳、慈悲の色を全く感じさせない視線に思わず後ずさる。
 いいや、いいや。この子は、天使などではない。
 思い出せ。私は教師だ。聖職者だ。無垢な子供という羊を導く、聖なる羊飼い。そうだ。羊飼いには、権利がある。羊をどう用いるのか。群れの秩序を乱す異分子を、神に捧げる贄にしなくては。そうするコトで初めて罪が許されるのだ。——あの子のように。
「そうだ。これは、当然の権利だ」
 一歩、踏み出した瞬間に違和感に気がついた。
 こちらを真っ直ぐに見据える少年。その足元の影がおかしい。西陽に照らされているにも関わらず、彼の足元の影はこちらに真っ直ぐに伸びて、座った犬のシルエットを形作っていた。
「鯤」
 あどけない少年の声に応じるように、影の中から浮かび上がるように大きな黒い犬が現れた。小豆色の瞳が、私という敵を見つけて血のように赤く変色したのを、確かに見た。
「ダメだよ。何もしないで」
 鯤、というのがこの犬の名前なのか。ああ、そうか。先ほど、彼が名前を呼んだのは制止させる為だったのか。もし彼が止めてくれなければ、今頃どうなっていたのだろうか。
 黒い犬が瞬きひとつせずに、私の喉元を睨み付けている。牙を剥いて獰猛に唸るのでもなく、無機質な機械のように私の喉笛を噛みちぎる瞬間を狙っているのが心底恐ろしかった。
 腰が抜けたのか、へたり、とその場に尻餅をついてしまった。股の間で暖かなものを感じ、私は自分が失禁したのだと遅れて悟った。
 誇りの欠片も残っていない私を前に、彼は特に何も感じていないようだった。
「先生。自首して頂けますか?」
 彼はその細い指を、黒い犬の首に回しながら優しく問うた。
 その様子は、まさしく一枚の絵画のように美しかった。
 
   ◯
 先生との話も終わって、僕は下駄箱で上履きを脱いで靴に履き替えて学校を後にした。
 鉛色の空を見上げると、また雪が散らついている。この分だと明日も雪が積もるに違いない。早く春になればいい、と心からそう思う。
『厄介事に首を突っ込むのはやめるべきだと、何度言えば分かるのか』
 足元の影から、少し怒っている鯤の声が響く。
『死霊は残り滓に過ぎない。あの子供の魂はとうに消えている。あれは残響に過ぎない』
「うん。でも、あの子の帰りを待つお父さんやお母さんには救いになるよ」
『……人間は感傷的だな』
「そうかな。当たり前のことだと思うけど」
 丘の上へ続く坂道へ差し掛かり、思わず溜息がこぼれる。
「お婆ちゃんはどうして、あんな所に家を作ったんだろう。学校の隣ならよかったのに」
 坂道を白い息を吐きながら登っていくと、丘の上から降りてくる人影が見えた。
 若いお兄さんで、右腕がないのか、上着の袖だけがぷらぷらと揺れている。
 目が合うと、にかっと笑って尖った八重歯が見えた。
「よう」
 気さくに声をかけられたので、思わず会釈する事にした。
「こんにちは」
「お前、あの家の婆さんの孫だろ?」
「丘の上の屋敷でしたら、僕の祖母の家です」
「魔女の孫か。大変だな、お前も」
「はあ」
 しし、と笑うお兄さんの右眼が蒼く光っているように見えた。
「祖母は家にいましたか?」
「ああ。いたよ。俺はお使いに来ただけ。届け物をして、いつもみたいに婆さんに小言をもらって。今からこうして帰るとこ」
「お兄さんは、お婆ちゃんと仲良しなんですか?」
「俺? んー、何度か世話にはなってるけど、仲がいいかと聞かれたらわかんねぇな。怖ぇし」
「ふふ、たしかにお婆ちゃんは怖いですよね」
「魔女だからな。良い子にしとかないと、カエルにされちまうかも知れないぞ」
 それだけいうと彼は歩き出してしまった。まだ話したかったのに。
「なぁ、良い犬だな。それ」
「え?」
 鯤は影の中に潜ったままだ。
「じゃあな」
 一体何者なんだろう。
 お兄さんが坂道の下まで降りていくと、すぐに高価そうなスポーツカーがやってきた。
 座布団みたいに平べったい車の助手席に乗りこむと、あっという間に去って行ってしまった。

 また会えるといいな、そう思った。
 空を見上げると、雪が少し大きくなっている。
 きっと夜にはまた積もるのだろう。
 小走りで坂道を登っていく。
 白い息が空へと滲むようにして消えていった。

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