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異胞鬼談

 「和紗くん。この学校に伝わる、七不思議って知ってる?」
 前の席に座る壮士くんが、放課後にそんなことを言い出したのが始まりだった。
「一応、話だけなら」
「怖いよね。寄宿舎でね、六年生の悠人くんが脅すんだ。昨日なんか、泣き出す子までいて大変だった」
「壮士くんも怖いのは苦手?」
「嫌いかなあ。お化け屋敷とか入ったこともないよ。和紗くんは?」
 ランドセルに教科書を入れながら、僕は少しだけ考えてから、僕も怖いな、と答えた。
「良かった! あのね、実は和紗くんにお願いがあるんだ」
「お願い?」
「実はね、明日の夜に学校で肝試しをするんだ」
 僕は思わず首を傾げた。なんだか話が妙な方向に進んでしまっているような気がする。
「冬に肝試しするなんて変じゃない?」
「悠人くんたちが春に卒業してしまうから、思い出作りにするんだって。寄宿舎の伝統なんだ。七不思議が本当か調べるって。去年はペアになった子がお化けなんか怖くないってタイプだったから安心してたんだけど、僕が怖がると馬鹿にして笑うんだ。もう二度となりたくない」
「なるほど。じゃあ、僕は壮士くんとペアになって、校舎で肝試しをすればいいんだね?」
「うん。お願いできるかな」
 知らない子たちと肝試しをするのはあまり気が乗らないけど、夜の校舎というのはなんだか楽しそうだ。
「いいよ。僕で良かったら」
「ありがとう。安心したよ」
 壮士くんは心底ホッとしたようにニコニコとしている。よっぽど怖かったのだろう。
「ねぇ、七不思議ってどんなのだっけ?」
 どこの学校もそうであるように、僕の学校にも受け継がれてきた怪談というものがある。特にこの学校は歴史ある名門校ということなので、そのあたりの話がやけにしっかりとしていた。
「知らないの?」
「あるのは知ってる。でも、詳しくは知らない」
「うちの七不思議、他の学校のとかなり違うもんね」
 僕の昔、通っていた学校はトイレの花子さんとか、音楽室のベートーベンの絵が動くとか、生首でバスケットボールをする幽霊とかだったけれど、今の学校は少し毛色がちがう。
「『教会の首吊り死体』『講堂の願いを叶える化猫』『植物園の魔女』は知ってるよ。後はえっと、なんだっけ?」
「えーとね、『中庭の秘密の地下室』『中央塔の飛び降り幽霊』『大図書館の妖精』『オルゴールの悪魔様』だよ。これで七つ」
 どれもこれも少し普通の学校とは一味違っていて面白い。個人的は大図書館の妖精が気になるところだ。
「どれも怖いよね。だからさ、高学年になったらクラブに入らなくちゃいけないだろう? それが今から嫌なんだ。フットサルクラブは遅くまであるって春馬くんたちが言うんだよね。和紗くんはクラブは何にするの?」
「僕は運動も別に嫌いじゃないけど、あんまり興味ないから天文部がいいと思ってるよ」
「星が好きなんだね」
「うん。いつか天体望遠鏡を持つのが夢なんだ」
 それから僕たちはクラブの話をしばらくして、一緒に下校することになった。あんまり遅いと高学年の下校時間と重なってしまうので、なるべく急いで靴を履いて校門を出る。学校指定のダッフルコートを着て、同じ色のランドセルを背負った僕たちは背ろから見たら兄弟に見えるのかもしれない。
「ねぇ、和紗くんは悪魔様って信じる?」
 横断歩道の前、信号待ちをしていると壮士くんがそんなことを呟いた。俯いた横顔の向こうから射し込む西陽が眩しくて、どんな表情をしているのか見えない。
「『オルゴールの悪魔様』だよね。願い事を叶えてくれるっていう」
「うん。実はね、寄宿舎の五年生の裕介くんが願いを叶えてもらったんだって」
「本当?」
「裕介くんが自慢してた。願い事を叶えてもらったんだって。夢が叶ったって」
「何を叶えてもらったの?」
「知らない。でも、凄く嬉しそうだった。本当に悪魔様っているのかなあ」
「どうなんだろう。でも、悪魔なんだよね」
 悪魔。天使とよく一緒に語られる、対のような存在。悪い方。人を騙してどうこうする悪者。
「うん」
「願いを叶えてくれるのなら、どうして神様じゃなくて、悪魔なんだろう」
 様、まで付けているのが変な感じだ。悪者なのに。なんで神様みたいに呼ぶのだろう。
「わかんない。でも、本当に願いを叶えてくれるのなら、すごいよね」
「そうかな。僕は、こわい」
「どうして?」
「だって、お金を払わずに買えるものなんてないよね。『タダでいいから好きなものを持って行ってもいいよ』って言われたら怖くない?」
「でも、タダなんだよね?」
 壮士くんが確かめるように言うので、僕は驚いてしまった。そうか。どうしても欲しいものがある人にとって、この質問自体が甘い罠なんだ。間違ってない、と思うことで信じたくなるんだ。
「壮士くん。なら、後からそのお店のおじさんが家に来たら怖くない?」
 想像したのか、壮士くんは顔を真っ青にして首を縦に振った。
「う、うん。怖い。想像しただけで、怖いよ」
「だよね、おかしいよ。悪者の悪魔の方しか願いを叶えるなんて聞かないもの。正しい方の天使が願いを叶えるなんて話、聞いたことないよ」
「それもそうか。うん、やめとくよ」
 しょんぼりしてる壮士くんの背中を軽く叩く。
「それがいいよ。でも、何をお願いするつもりだったの?」
 壮士くんは気恥ずかしそうに笑う。
「明日のテストがなくなればいいなって」
 あんまり小さなお願いだったので、僕も思わず笑ってしまった。

 壮士くんと別れて、丘の上に続く坂道に辿りついた頃、不意に鯤が足元の影から音もなく浮かび上がった。黒くてしっとりとした体毛、尖った耳、鋭い牙。僕と同じ小豆色の瞳が責めるように、こちらを見ている。
『和紗』
 大人の人のような低くて落ち着いた声。
『何故、あの子供の申し出を受け入れた?』
「夜の学校なんて、初めてだから」
『和紗はまだ幼い。睡眠時間を無闇に削るべきではない』
 それに、と鯤が視線を学校に向ける。
『前にも言ったろう。あの学舎は危険だと』
「うん。でも、鯤がいるから。それに壮士くんが心配だよ」
『友人の身を案じるなとは言わないが、誰も彼もを救うことなど出来はしない』
「僕も正義の味方になりたいなんて言ってないよ。でも、自分の友達を助けられるのなら、助けたいし、力になりたい。だから、止められても行くからね」
 鯤は尻尾を力なく振って、降参したように目を閉じた。
『どうしてこうも頑固なのか』
 頑固じゃないよ、と答えてから、ふと気になった。
「ねぇ、鯤。学校には悪魔がいる?」
『怪なる者なら無数に息づいている。あの学舎は閉じているからだ。外から来た者を奥深くへ招き入れ、入った者は外に出さない』
「悪魔ではないの?」
『和紗のいう天使と対になる存在というものは、そもそも存在しない』
 鯤が踵を返し、坂道を登り始める。
『どちらも天の使いであることに代わりはない。役割が異なるというだけだ』
 そんな、よく分からないことを呟いた。

  ○
 家に戻ると、テーブルの上にお婆ちゃんからの書き置きがあった。今夜は帰れないので鍋を温めて食べること。戸締りと火の用心をすること。それだけが書いてあった。
 家を空けることは珍しくないけれど、帰ってこないというのは割と珍しい。
「お婆ちゃん、今日は帰って来ないんだって」
『そうか。夕飯は?』
「鍋があるって。温めなきゃ」
『先にコートをかけて、手を洗ってうがいをしろ』
「うん」
 部屋にランドセルを置いて着替えてから、リビングへ鯤と一緒に降りる。
「寒い、寒い。暖炉つけなきゃ」
『暖炉の支度は、手を洗ってうがいをしてからだ』
 お婆ちゃん並みに口うるさい。服の裾を噛んで引っ張るので、冷え切った手をまた冷たい水で洗わなければならなくなってしまった。
 きちんとうがいまでして、暖炉の中へ薪を組んで、マッチと捻った新聞紙で火をつける。このままだと部屋の中が乾燥してしまうので、お婆ちゃん愛用の銅のケトルに水を注いで暖炉の上へ。
 鯤が僕の後ろをついて歩き回る。
「鯤、暖炉の前で寝てていいんだよ?」
『俺のことはいい。鍋をこぼさないように』
「過保護だよ」
 冷蔵庫から小さな土鍋を取り出して、コンロにかける。僕はまだ背が小さいので、お婆ちゃんが作ってくれた踏み台の上に登らないと手も届かない。焦がさないように火は中火。蓋を開けると、豚肉の鍋みたいだ。白菜、しいたけ、お揚げさんが入ってる。
「げ。春菊入ってる」
『好き嫌いをするな。成長の妨げになる』
「鯤も食べる?」
 食事は必要ない、と言って椅子の上にちょこんと座る。
「お婆ちゃんに七不思議のこと聞いてみたかったな」
『七不思議か。人はすぐにそういう噂を作りたがる』
「鯤も噂になったりした?」
『ああ。大勢の人間が俺を見て、様々な名前をつけ、物語を作った。そうだな、国の数くらいは名前があるだろうな』
「そんなに沢山?」
『数えきれぬ程に』
「すごいね!」
 なんだかカッコいい。ポケモンみたいだ。
『何も凄くなどない。俺は、俺でしかないのだから』
 ふん、と鼻を鳴らすけれど、尻尾をフワフワと左右に振っているのでまんざらでもないのかもしれない。
 グツグツと鍋が沸騰したので、冷凍のうどんをそっと入れて、また蓋をする。それからしばらく待つ。
 難しい料理はまだできないけれど、早く覚えたい。そうしたら、お婆ちゃんが早起きしなくてもよくなるし、夕ご飯を作って待っていられる。
「良い匂いがしてきた」
『火傷するなよ』
「そこにいて。鯤の足をふんづけて転んじゃう」
『俺はそこまで鈍臭くない』
 鍋の火を止めから、ミトンをつけて慎重に鍋を掴む。小さな土鍋だけど、中身があるので気をつけないと落としてしまいそうだ。踏み台からゆっくりと降りて、そろそろとテーブルへ運ぶ。
「あ、鍋敷きしてない」
『俺がやる。動くなよ! そのまま!』
 鯤が椅子の上から跳び降りて、冷蔵庫の横にかけてある鍋敷を口で器用に取ると、テーブルの上へ。
「ありがとう」
 鍋敷の上に置いて、そっと手を離す。
「ふぅ。できた」
『気が気じゃない。危うく火傷するところだぞ』
「うん、ありがとう」
 蓋を外すと、湯気が顔を撫でる。
「いただきます。あ、お箸」
『コップもないぞ』
 お箸とコップを持って席に戻る。隣に座る鯤が、まだ心配そうに僕を見ていた。
「そんなにじっと見られてたら、食べられないよ」
『火傷するなよ』
 ふーふー、と冷ましてからうどんをちゅるちゅると食べる。美味しい。お揚げさんは甘くてふわふわ。しいたけも味が染みていて美味しい。
「鯤、春菊食べない?」
『食べなさい』
 諦めて口の中へ春菊を放り込んで、ほとんど噛まないで飲み込んだのに口の中が苦い。どうしてお婆ちゃんはこんな苦い草を美味しいというのだろう。大人になったらわかる、とお婆ちゃんは言うけれど、それはきっと舌が鈍くなっているからだと思う。
『そんな顔をするものじゃない』
「だって、美味しくないよ』
 僕の顔がよっぽど面白いのか、鯤がクカカと笑う。
『和紗。食事を終えたら、今夜はなるべく早く寝るべきだ』
「どうして?」
『魔女の夜というものは、そういうものだからだ。戸締りをして、物音がしてもベッドから起きてこなければ何も問題はない』
「ふぅん。わかった。お風呂に入ったらすぐ寝るね」
『それでいい』
 それから夕飯を食べ終えて、皿を洗ってからお風呂に入った。今日は珍しく鯤も一緒に入ったので、身体を洗ってあげた。鯤は汚れたりする事がないのだけれど、なんとなくたまにこうして綺麗にしてあげたくなる。
 お風呂上がりにお茶を飲んでから、暖炉の薪をバラバラに均しておく。こうすると消えてしまう。朝はまだまだ寒いけれど、もうすぐ春になるはずだ。
 家中の戸締りをしてから、二階の部屋へ。
 ベッドに潜り込むと、鯤がすぐ隣で丸くなる。
「おやすみなさい」
『ああ、おやすみ。和紗』
 思っていたよりも疲れていたのか、目を閉じたらあっという間に眠ってしまった。

   ◯
 次の日のお昼休み、僕はひとりで大図書館へ向かうことにした。壮士くんと彰人くんにクラスのみんなでフットサルをしようと誘われたけど、今日はどうしても調べてみたい事があったから断った。
 前の学校は図書室はあったけれど、この学校には大図書館がある。どのくらい大きいのかというと、町の図書館よりもずっと大きくて立派だ。煉瓦造りですごく希少な建物らしい。あと入り口のドアがとても大きくて重い。ドーム状になっていて、吹き抜けから見上げた天蓋という部分には天使の絵が書いてあった。
 初めてここにやってきたとき、あんまりびっくりして入り口でしばらくボーッとしていたのを思い出す。壁一面、ずらーっと天井近くまで本がびっしりと並んでいる。きっと僕の人生を全部使っても、ここの本を全て読み終わる事はないと思う。
『和紗。何を調べに来たんだ?』
「オルゴールを調べに」
 七不思議の一つ《オルゴールの悪魔様》の元になっているのは、中央ロビーにあるショーケース。飾ってある骨董品の中の一つらしい。言われてみればそんなものがあったな、くらいのものなんだけど、どうやらあれに悪魔が棲みついているらしい。
『これだけ膨大な本の中から、見つけられるものなのか?』
「うん。だから、司書の先生に聞いてみようと思って」
『賢明な判断だ』
 尋ねてみると、すぐに幾つかの本を教えてくれた。
「七不思議の怪談を調べているんでしょう?」
 若い女性の司書の先生に言い当てられて、思わずポカンとしてしまった。
「どうしてわかったんですか?」
「毎年、そのことを調べる生徒さんが結構いるの。そうでなきゃ、学校の収蔵品なんか調べないもの。《オルゴールの悪魔様》でしょう?」
「はい。ご存知なんですか?」
「噂くらいはね。ここの七不思議は他所とは全然違うから、面白いわよね」
 面白いだけなら良いのだけど、多分そうはいかないと思う。
「ありがとうございました」
「はい。ごゆっくりどうぞ」
 司書の先生が教えてくれた本は、なんだか随分と分厚くて古い本だ。収蔵録昭和年間とある。
 目次に目を通すと、いつ誰から何を寄贈されたのか、購入したのかが書いてあるらしい。習っていない漢字が多いので、よく分からない。
 僕は両手で本を抱いて、あまり人のいないスペースへ移動する。床に座ったまま読むのも行儀が悪いので、とりあえず脚立の上に座って読むことにする。
『俺が読もう』
「ありがとう」
 鯤が背後の影から本へ眼を向ける。
『目次を捲っていってくれ』
 パラパラと指でページを捲っていく。漢字ばかりでなんて書いてあるのか、全然分からない。古い本独特の匂いがする。
『目次にオルゴールの記載があるのは一つだけだ。280ページへ」
「2、8、0と」
 あった。
『これだな。このオルゴールは随分と前に寄贈されたものだ』
「きぞう?」
『品物を送り、与えることだ』
「誰が寄贈したか、わかる?」
『木山千景とある。それ以上のことは記載がない』
「それだけ?」
『ああ。それだけだ』
 がっかりだ。もっと重要な事が書いてあると思っていたのに。
「この木山千景って人、何者なのかな。悪魔様のこと知ってたのかな」
『分からん。記録もこれだけでは……』
 その時だった。館内に校内放送が響き渡る。
《二年七組の関谷壮士くん。六年一組の五十嵐悠人くん。至急、職員室へ来なさい。繰り返します。二年七組の関谷壮士くん。六年一組の五十嵐悠人くん。この放送を聞いたら、至急職員室へ来なさい》
 今の焦ったような声は教頭先生の声だ。
「どうしたんだろう。今夜の肝試しがバレたのかな」
『それは重畳』
 鯤は嬉しそうだが、僕はなんだか嫌な予感がした。
「変な感じがする。教室に戻ろう」
 本を返却してから大急ぎで教室へ向かう。
『何をそんなに急いでいる』
 足元の影から声が響く。
「胸騒ぎがする。ざわざわして変な感じ」
 はっ、はっ、と息が苦しい。僕は運動するのは好きだけど、そんなに得意じゃない。
 教室へ駆け戻ると、クラスの中がなんだかざわついていた。
「どうかしたの?」
 近くにいた彰人くんに声をかけると、振り返った彼の顔は真っ青だった。
「和紗くん。壮士くんのこと見てない?」
「見てないよ。みんなでフットサルしてたんじゃないの?」
「消えちゃったんだ。みんなで遊んでたら、急にいなくなっちゃったんだ。僕らの見ている目の前で。だから、僕たち怖くなって、先生に話に来たんだけど」
「違うよ! 地面に飲み込まれたんだ! 俺、見たもん!」
「嘘つくなよ! そんな事あるわけないだろ」
「いや、俺も見たよ。地面が水みたいになったんだ」
「足を引っ張られたんだよ。間違いないよ」
 なにがなんだか分からない。
「君たち! 席につきなさい! 始業のベルが聞こえなかったのか!」
 担任の大渕先生が強く手を叩く。その音に背中を叩かれたみたいに、僕たちは慌てて自分の席へ急いだ。
「昼休みはとっくに終わっているというのに、どうして授業の準備をしない」
 みんなが静まり返る中、僕は手を上げて質問した。
「先生。壮士くんはどうしていないんですか? なにかあったんですか」
「君たちには関係のない事だ。白石、座りなさい。教科書を開くんだ」
 先生は答えなかったけれど、ほとんど答えたようなものだった。
 先生たちもきっと、壮士くんの行方を知らないのだ。
「先生。最後に一つだけ聞いてもいいですか?」
「……なんだ」
「五年生の裕介くんも行方不明なんですか?」
 大渕先生は眉を潜めた。
「裕介? 今年の五年生にそんな名前の生徒は在籍していない」

 午後の授業が終わった後のホームルームで先生は厳しい顔をしていた。
「今日はこのまま全員、下校しなさい。学校に残ることは許可されない。上級生の放課後のクラブ活動も休みとなったから兄弟のいる者は必ず一緒に下校するように」
 誰もなにも言わず、すぐに終礼となった。
 僕は下校する生徒でごった返す廊下を、みんなとは反対に歩いた。先生に見つからないようにトイレへ駆け込み、個室へ入る。そうして、便器の蓋に膝を抱いて座った。お尻がひんやりと冷たくて、お腹を壊しそうだった。
『和紗。下校すべきだ』
「うん。でも、しないよ」
 僕がそう決めた。ここで知らないふりをして、明日にはきっと何事もなく壮士くんにまた会えると思い込んで家に帰ってしまったなら、きっと二度と僕は友達に会えなくなる。
『危険だ』
「うん。だから、きっと怖がってる。僕が助けてあげなきゃ」
『……祖母に似て頑固だな。お前は』
 ごめんね、と足元の影に謝る。そうして、目を閉じた。
 それから二時間ほどして、僕は鯤に揺り起こされた。
『和紗』
 大きな黒い犬の鼻先が、ぴすぴす、と鳴った。
「ごめんね。寝てたみたい」
『校内には誰も残っていない。守衛すらも校舎の外だ』
「先生たちは何か知っているのかな」
『捜索もせずに、身を隠す程度にはな』
「人がいないなら、好都合だね」
 トイレから出ると、校内は真っ暗になっていた。静かすぎて耳に痛いくらいだ。でも、もっと耳を澄ますと校舎のあちこちから囁くような声が聞こえてくる。それは机の影や、扉の隙間、階段の脇に蹲る何かだったりする。
「夜の学校もいいね」
『雑魚に構っている暇はないぞ』
 廊下を走り、階段を降りて中央ロビーへ向かう。鯤が並走しながら、あたりを警戒していた。
 職員室に人影はない。勿論、校長室にも。
 壁一面の大きなショーケース。壺や絵画、高価そうな収蔵品が並ぶ中に、そのオルゴールはあった。箱のようなものではなくて、円筒状の細長い形をしている。側面にハンドルがついていて、そこを回して音を鳴らすものらしい。
 ショーケースにかかっている錠を、鯤の口がバターみたいにひしゃげて壊す。ガラス戸を横へずらそうと手をかけたところで、鯤が急に唸り声をあげた。
 振り返ると、正面玄関の前に一人の男の子が立っていた。僕たちと同じ制服に身を包み、うっすらと笑みを浮かべている。見覚えのない顔だけれど、僕は彼が誰なのかなんとなく分かった。
「あなたが裕介くんですよね。ええと、悪魔様って呼んだ方がいいのかな」
 悪魔様、と呼ばれて、彼は驚いたような顔になった。
「どうして私のことを?」
「壮士くんから聞きました。寄宿舎の裕介くんが悪魔様のことを教えてくれたって」
「なるほど。でも、それだけで?」
「あとは、まぁ、視ればわかります」
「そうか。君は見鬼か」
「壮士くんたちを返してくれませんか?」
「それはできない。彼らの願いと引き換えに、私はこうしてここにいるのだから。これでも曲がりなりにも実体を、まぁほんの一部だが、手に入れたのはついさっきのことでね。あの男に封じられ、ここへ預けられてから随分と月日が経ってしまった。何しろ、指一本では叶えられる願いも小さくてさ、代償の魂も極僅かだよ」
「願いは取り下げます。だから返してください。困るんです」
「私もね、悪魔の奸計によって彼らを籠絡した。寄宿舎で願いは聞いていたんだよ。あとはもうこちらの勝手だ。返せと言われて、返す訳にはいかない。彼らの願いも大したことはなかった。だが、その小さな一雫がコップを満たしてくれたよ。下級とはいえ、契約は契約だ」
 悪魔は笑い、そうして僕に尋ねる。
「君の願いも叶えてやろう。両親のことを、知りたくはないか? 私なら全てを教えてやれる。何もかもを。君が失った全てを」
『くだらん』
 鯤が悪魔の前に立つ。
『和紗は既に俺と契約している』
 悪魔がつまらなそうに鯤へ指を向ける。パン、と音がして鯤の頭が爆発した。ばらばらになって飛び散って、真っ赤なトマトみたいに降り注いだ。
「まだ私が話している途中だろう」
 そう言って不機嫌そうに、自分の肩にかかったものを手で払い除けた。
 首のない鯤は、倒れもせずにお座りの格好のまま。
「私と契約しよう。少年」
「嫌です。悪魔と遊ぶと悪魔になる、と前に絵本で読みました」
「ふむ、どうやら君は私のことが恐ろしくないらしい。その犬のように君を殺してしまうかも知れないのに。怖いとは思わないのか?」
 不思議そうな顔をするので、僕もなんだか困ってしまう。
『その子は、本当に恐ろしいものを知っているからだ』
 鯤の声が響いたかと思うと、途轍もなく大きな影がホールの床に落ちる。鯤の体が、どろり、と溶けるようにして闇に混じると、小豆色の瞳がボコボコとあちこちに浮かんだ。ギョロギョロと動いたそれらが一斉に悪魔を捉える。
『成り損ないめ』
 床にも壁にも、天井にまで広がる鯤の瞳が目を細める。
「な、なんなんだ。お前は」
『俺は《世界蛇》、俺は《テュポーン》、俺は《鵬》、俺は《ガルダ》、俺は《ヴァーハナ》、俺は《水銀のように動く者》、俺は《タウパーナ》、俺は《ベヌゥ》、俺は《ルドラ》、俺は《虁龍》、俺は《インドラ》』
 声が響き渡る。いんいん、と響いて頭の奥がじんとする。僕が想像もできないほどの太古から、鯤を見てきた人たちが呼んできた名前が羅列されていく。
「お前は、まさか」
 見ると、悪魔の顔がミイラみたいに枯れている。まるで水分を奪われたみたいに、触ったら折れて砕けてしまいそう。
『和紗。向こうを向いていろ』
 うん、と背を向けた瞬間、凄まじい断末魔が響き渡った。悪魔のような叫びだなんてよく言うけれど、本物の悪魔の悲鳴だった。そして、それは急に断ち切られるようにして消えた。あとはバリボリと硬いものを噛み砕くような音がするばかり。
「もういい?」
 ああ、と声が返ってきたので振り返ると、そこにはいつもの鯤が大きく欠伸をして、口のまわりをベロりと舐める姿があった。
「悪魔って美味しいの?」
『これは真性のものではないな。悪魔に取り憑かれて死んだ人間に過ぎない。そんなことより和紗、そちらは任せた』
「うん」
 ショーケースの中からオルゴールを取り出す。とても重くて驚いたけど、中身を考えたら仕方がないのかもしれない。
「せぇ、の!」
 大きく持ち上げたオルゴールを大理石の床へ叩きつける。年代物のそれは砕けて、歯のついたシリンダーだけがゴロンゴロンと転がる。そうして、その中に入っていたものが滑るようにして現れた。——それは、ミイラのように乾燥した左腕だった。青みがかった黒い肌をしていて、爪は水晶みたいに硬くて濁っている。くんくん、と嗅ぐと変な匂いがした。
「くさい」
『匂いを嗅ぐな。汚い』
 鯤がやってきて呆れたように言うと、悪魔の腕をばりぼりと食べ始めてしまった。麩菓子みたいにカサカサしてる。
「お腹、壊さない?」
『食べてしまうのが後腐れがなくていい』
「鯤。壮士くんたちは帰ってこれるのかな」
『願いを聞き届けたのは寄宿舎と言っていたからな。そこへ戻っているだろう。何を願ったか知らんが、それも反故になっただろうよ』
「あ。そういえば、今日のテスト、延期になったんだった」
 結論だけで言えば、壮士くんの願いは叶ったらしい。
『帰るぞ、和紗』
「うん」
 そうして、僕たちはようやく家路についた。
 帰りが遅いとお婆ちゃんに大目玉をもらうことになったのは、言うまでもない。

   ●
 翌朝、羽鹿通りの交差点前で壮士くんを見つけた。
「おはよう。壮士くん」
「和紗くん。おはよう」
 壮士くんの顔色は悪くない。怪我もないし、変な様子でもないので安心した。
「大丈夫? 昨日、学校からいなくなったって先生たちが大騒ぎしてたけど」
「あー、うん。それね、よくわかんないんだ。お昼休みにフットサルをしてたのは覚えてるんだけど、いつの間にか寄宿舎の地下で寝てたんだよね」
「どうやって帰ったか、覚えてないの?」
「全然。一緒に寝てた悠人くんもね、なーんにも覚えてないって。なにかこう、大切なことを忘れてるような気もするんだけど……」
「肝試し、できなかったね」
「うん。でも、ホント言うとね、ホッとしてたんだ。六不思議を確かめるなんて、やっぱり怖いよ」
「六不思議?」
「うん。僕らの学校に伝わる六つの怪談。でも、どうして七不思議じゃないんだろうね?」
 壮士くんの不思議そうな顔を見て、僕はとにかく頷いた。
「六不思議ってなんだっけ。忘れちゃった」
「えー。こないだ話したよね?」
「うん。ごめんね、教えてくれる?」
「ええとね、『教会の首吊り死体』『講堂の願いを叶える化猫』『植物園の魔女』『中庭の秘密の地下室』『中央塔の飛び降り幽霊』『大図書館の妖精』これで六つ」
 得意げな様子の壮士くんは、本気でそう思っているらしい。
「『オルゴールの悪魔様』は?」
「なぁに、それ」
 きょとん、とした顔で逆に聞かれてしまった。
「さっきの六つで間違いないよ。肝試しの前にもその話したもん」
「そっか。あー、そういうことかも」
 鯤が食べてしまったから、あの悪魔は消えたのかも知れない。願いを叶えるという噂ごと。
 だから『オルゴールの悪魔様』は七不思議からいなくなった。
 ううん、最初からそんなものは、ないものになったって事なんだろう。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
「変なの。あ! そういえば、昨日テストだったんだよね! どうだった?」
「あぁ、あのテストはね、壮士くんたちがいなくなっちゃって大騒ぎになったから延期になったよ」
「嘘! え、いつするの?」
 僕はニヤリと笑った。
「—— 今日」
「ぎゃああああ!」
 壮士くんが昨夜の悪魔のような悲鳴をあげたので、僕は思わず笑ってしまった。
 足元の影から、ほくそ笑むような気配を感じたのは、きっと気のせいじゃない。
 

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