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呪祓月梟

  昨夜からずっと霧のような雨が降っていて、庭木の楓がしっとりと濡れている。素足に吸いつく、いつもより少しひんやりとした感触の床板を踏みしめ、厚みがかったガラス戸を開く。岩の苔が水を吸って青々としている様を、ぼんやりと眺めながら縁側に腰を下ろした。 
 今日は珍しく父も母も朝から出かけているので、思う存分ひとりの時間を満喫することができる。携帯電話は電源を切り、自室のベッドに放り投げた。せっかくの休日なのだ。私だけの時間を過ごせなければ、意味がない。
 今日のお供は大好きな作家さんの新作で、試験前から読むのをずっと楽しみにしていた。
 町外れの朽ちた洋館の中庭に、季節ごとに異なる色の薔薇が狂い咲くという。それを見に訪れた四人の少女達のオムニバス形式の短編ミステリー。本の頁をめくるという何気ない行為に、どうしようもなく胸が高鳴る。
 文章を目で辿り、汲み取った言葉を頭で噛み砕いて、じわりと広がったイメージを存分に味わう。ただの言葉の羅列が、どうしてこんなに鮮やかになるのだろうか。
 雨粒が木々の枝葉を叩く、微かな音を聴きながら、作品の世界に没頭していった。

 どれほど時間が経っただろう。
 門前から微かに物音が聞こえた気がした。
 よくよく耳を澄ますと、門扉の前に誰かが来ているらしい。インターホンは門の先、玄関口にしかない。
「どうぞ、門は開いてますから。すぐ行きます」
 本に栞を挟んで立ち上がる。面倒なので縁側の沓脱にあるサンダルを履いて、玄関の方へと回り込んだ。
 しかし、門扉こそ開いていたが、玄関先には誰もいない。
 念のため、門の外へ出てあたりを見渡したけれど、人影ひとつ見当たらなかった。
 気のせいだったのだろうか。でも、確かに誰かの声が聞こえた気がしたのだけれど。
「お向かいさんのお客様だったのかな」
 門扉を閉めて縁側へ戻り、雨粒を払い落とす。
 腰を下ろし、気を取り直して本を開こうとして、栞が見当たらないことに気がついた。当たりを見渡すと、なぜか沓脱の側に落ちている。
「ええ…、最悪。風で落ちたのかな」
 サンダルに足を突っ込み、拾い上げようと屈んだ瞬間、全身を恐怖が駆け巡った。
 縁側の下、視界の端に映る暗闇の中に、誰かがうずくまってこちらを見ている。
 止まるな。咄嗟に何食わぬそぶりで栞を摘み、縁側の上へ戻った。
 ——男だった。服も、着ていなかったように思う。
 今にも喉から悲鳴をあげそうな口を手で押さえて、必死に堪えた。音を立てないように後ずさるが、その度に湿った空気を含んだ古い床板が鈍い音を立てて軋み、異常なほどに耳に響く。
 足元の、薄い床板一枚の下。
 そこに見知らぬ男が息を殺して潜んでいるのだという事実が、ただ恐ろしくて仕方がなかった。
 痙攣するように膝が震えて、背中を柱に預けておかなければとても立っていられない。
 携帯電話を二階の自室に置いてきてしまったことを心底後悔した。
 乱暴されたらどうしよう。最悪の想像が脳裏を過ぎり、全身から脂汗がべっとりと沸き出てくるのを感じた。嗚咽が漏れそうになるのを懸命に耐える。
 これ以上、このままじっとしているのは我慢できない。門を出て、お向かいの鈴木さんの家へ飛び込めばいい。幼い頃から私のことをよく知ってくれている。きっと助けてくれる筈だ。
 鼓膜に届きそうなほどの心音を振り切るように、ギュッと目を閉じ、走り出そうと身構えた瞬間。
 なぜか、其れと目が合った。
「——ッ」
 側庭の楓の木、その影から半身を晒して、さっきの男が立っている。煤けた色をした服の間から見える青白い腕に、不自然に余ったようなぶよぶよとした皮膚を纏って。そいつは笑っているのでも、睨んでいるのでもない。ただ虚な表情で立ち尽くしたまま、じっとこちらを見ていた。あまりの恐ろしさに、頭の中が真っ白に塗り潰された。

 きっと、私は悲鳴をあげて逃げ出したのだと思う。
 気がつくと、鈴木さんの玄関先で泣き叫んでいた。大丈夫、大丈夫よと抱きしめてくれる彼女の腕の中で、皺の刻まれた温かい手が私の頭を撫でてくれていなければ、きっと正気に戻れなかっただろう。
 何事かとご近所の人たちが集まる中、近づいてくるサイレンの音を聞いた。

「屋敷の中に不審者はいませんでした。しばらくは念のため巡回を強化したいと思います」
 やってきた警察官は屋敷の中を全て見回ってくれたが、不審者は見つけられなかったという。帰宅した両親は私の無事を喜んでくれたが、警察が具体的な捜査をしてくれないことに腹を立てていた。
「逮捕してくれないんですか。探せばいいでしょう。捜査すればいいんだ。不法侵入だろう」
「今の状況では、これ以上のことは我々にもできません」
「娘が襲われていたかも知れないんだぞ!」
「お気持ちは分かりますが、私たちが動けるのは法で許された範囲だけです。何か不安なことがあれば、どんな些細なことでも構いません。いつでも通報なさってください」
 すぐに駆けつけます、と頭を下げて彼らは帰って行った。
 私たちは鈴木さんに礼を言ってから自宅へ戻った。しかし、どうしても玄関先で足が止まってしまう。警察が調べてくれたのだから、家の中にあの男はいない。そう頭では理解していても、どうしようもなく恐ろしかった。
「無理はしなくていい。今夜は駅前のホテルに泊まろう」
「そうね。お父さんのいう通りよ。荷物を用意してくるわ」
「ううん、大丈夫よ。ごめんなさい」
 父も母も明日だって仕事だ。私だって学校に行かないといけない。これ以上の迷惑をかけたくはなかった。
「お腹空いちゃった。今夜はお鍋がいいな」
 努めて明るく振る舞って、玄関の戸を開ける。なんてことはない、いつも通りの風景に安堵する。あの男がいる筈がない。きっと今頃は逃げ出して、二度と此処には来ないだろう。空き巣だか泥棒だか知らないが、警察がやってきた家に戻ってくるとは思えない。
「すぐに食事の用意をするわね。それまで部屋で休んでいなさい」
「ううん。居間にいる」
 大きな屋敷に、親子三人だけというのが妙に心細かった。
 築百年をゆうに超える日本家屋。敷地を囲う漆喰の白壁に、家の裏手には大きな土蔵が三つ。続き間の多い、和室ばかりの家の中は光の当たらない部屋も多く。閉め忘れた襖から覗く奥の間が、時折ゾッとするほどに黒く染まって見える。古い家特有の恐ろしさ。それでも、我が家よりも尚古くて広い母方の本家に比べたら、マシなのだろうが。
「そういえば、お父さん。雨戸は閉めた?」
「ああ、そうだな。すぐに閉めてくるよ」
 立ち上がろうとする父の背中をトンと叩く。
「私が行くわ。本も置きっぱなしにしてきちゃったし」
 父が止める間もなく、立ち上がって居間の襖を開けて廊下へと出た。気温がぐっと落ちた夕刻の廊下は氷のように冷え切っており、スリッパを履かないと板間の上なんてまともに歩けないほどだ。
 二間続きの座敷を抜け、縁側へと続く雪見障子を開け放とうとして、背筋がぶるりと震えた。この感覚をなんと言えば良いのか。身体の内側が急に冷えたような、悪寒にも似た不快な寒気がする。
 密やかに、微かな物音さえたてないよう指先で障子を引く。
 薄く開いた隙間から庭を覗き込んで、息を呑んだ。 
 あの男が、楓の下に立っている。あの虚な表情で。まるで私が見るのを知っていたかのように、身動きひとつしないまま、じっとこちらを見ていた。
 がくん、と腰が抜けて尻餅をついた拍子に、咄嗟に掴んだ障子が外れて倒れ、けたたましい音を立てた。
「柑奈!」
 駆けつけた父が、驚いた私の視線の先、中庭へと殺気だった視線を投げる。
「誰かいるのか!」
 男は変わらず、同じ場所に立ち尽くしている。
「……お父さん」
「大丈夫だ。母さんのところへ行っていなさい」
 そう言って側庭へのガラス戸を開けようとする父の腕を、制するようにぐっと握る。
「ううん、違うの。誰もいないわ。よろけて転んでしまっただけ。障子倒しちゃって、ごめんなさい」
「そんなのはいい。本当に、誰もいなかったんだな?」
「うん」
「そうか。ああ、良かった。ここはやっておくから、もう居間で休んでいなさい」
 子どもの時のように、私の頭を優しく撫でる父の手が、少しだけ震えていた。父ももう若くはない。不審者から家族を守ることに不安があるのかも知れなかった。
 肩越しに、楓の下に立つ男をそっと見る。
 ざわめくように強い風が吹いた。庭木の枝葉が激しく揺れる中、男は髪の毛一筋さえ微動だにしない。
 まるで、世界に灼きついた写真のようだった。

   ●
 あれから数ヶ月、屋敷のあちこちに、あの男が見えるようになった。
 柱の影や座敷の隅、廊下の暗がりに立って、虚な顔で私を見る。日を追うごとに男の輪郭ははっきりとしていくようだった。
 やはりそれは私にしか見えないのか、父も母もすぐ隣に男が立っていても気づく素振りすらない。
 私は、それと目が合わないよう、反応してしまわないよう努めて日々を過ごした。家の中に死霊がいるというのは、それだけで恐ろしく。屋敷の中はいつもツンと刺すような、冷たい死の香りに満ちていた。
 勿論、お守りを買ったり、お祓いにも行ったが、なんの効果もなかった。
 あれから二ヶ月と少しの間で体重が十キロ以上落ちて、三度も貧血で倒れた。骸骨のように細くなった手首から腕時計がするりと抜け落ちるようになってようやく、自分の身体が死へと向かっているのだと気がついた。父も母も私をあちこちの病院へと連れて行ったが、どんな治療をしても、体重の減少は止まらない。食事をすれば拒絶するように嘔吐を繰り返し、眠るたびに様々な悪夢にうなされる。衰弱が酷く、結局学校も休まざるを得なくなった。
 体調は悪化の一途を辿り、自分ではもうどうしようもなくなっていた。
 新年を迎えて、親戚たちが訪ねてきた時にも私は自室に閉じ籠るしかなかった。本当は挨拶くらいしたかったが、父も母もそれを懸命に止めた。実際、鏡に映る自分の顔を見て言葉を失ったほどだ。痩せこけた頬、艶のない髪、目の下にできた酷いクマ。こんな顔を見せてしまえば、きっと皆心配してしまう。
 布団に横になって、静かに目を閉じる。息を吐くと、命が少しずつ漏れ出ていくような気がした。
 部屋の片隅に、あの男が虚ろな顔をして立っている。
「私を、連れていきたいの?」
 男は答えない。
 初めて見たときのまま、静止画のように固まっているだけ。きっとこの男は、そう遠くない日に私が死ぬまで、こうして立ち続けて待っているのだろう。暖房が効いているはずの自室は、ベッドの中でもずっと指先がかじかむように寒い。
「柑奈」
 冷たく、まとわりつくような重い空気を切るように、障子の向こうで懐かしい声がした。
「……元兄さん?」
 三十路を過ぎた親戚を兄さんというのも気恥ずかしいが、やはり幾つになってもこの呼び方がしっくりくる。幼い頃は随分と構ってもらったものだ。
「少し待ってね」
 私は身を起こしてカーディガンを羽織ると、手櫛で髪を撫でつけた。酷い顔をしているので本当は会いたくなかったが、もしかするとこれが最期になるかも知れない。そう思うと顔を見ずにはいられなかった。
 いつの間にか、男の姿は消えていた。
「どうぞ」
 少し躊躇するように、襖が音も立てずにゆっくりと開いていく。
「よう」
 東京で暮らす母方の従兄弟は相変わらずお洒落で、なんだか良い匂いがした。心配そうな顔をさせてしまっているのが、申し訳ない。
「あけましておめでとう。元兄さん」
「ああ、おめでとう。体調の方は大丈夫なのか」
「うん。ちょっと風邪を引いたみたい。平気よ、すぐに良くなるから」
「婆ちゃんも心配してたよ。今日も本当は来たかったらしいけど、この雪じゃな」
「治ったら電話するわ。兄さんも、わざわざ来てくれてありがとう。なんだか元気出てきたかも」
 我ながら空々しい。正直に言って、こうして身体を起こしているだけで辛い。そんな私を見ていられないように、彼は辛そうに顔を伏せる。
「柑奈。今日はな、お守りを持ってきたんだ」
「お守り?」
「ああ。ゆっくり眠れるお守りだ」
 彼はそういうと、鞄から真っ白いぬいぐるみを取り出した。見覚えのある、丸くてふわふわとしたシルエットに思わず笑みが溢れる。
「おふうだわ」
 手に取って、胸に抱き留めると、懐かしい感触がした。彼が昔から大切にしているフクロウのぬいぐるみ。肌身離さず、大切な相棒としていつも一緒に持ち歩いているものだ。海外へ旅行に行く時でさえ、手荷物で機内に連れて行っていたのを思い出して、思わず笑ってしまった。
「懐かしいだろ?」
「うん。すごく懐かしい」
 丸いつぶらな瞳、ふわふわと柔らかな感触、胸に抱くにはちょうどいい。
「ずいぶん可愛いお守りね。でも、もらうわけにはいかないわ」
「そう言うだろうと思ったよ。だからさ、柑奈に元気が戻るまでのレンタルだ。きっとご利益がある」
「……私のこと、守ってくれる?」
 彼はにっこりと微笑んで、それからジャケットの内側から赤いポチ袋を取り出した。
「きっとな。ほら、可愛い従姉妹にお年玉だ。早く元気になってたくさん使えよ」
「ありがとう」
「そろそろ下に戻るよ。女性の部屋に長居するのは野暮だしな」
 そう言って、悪戯が成功した子どものように笑うと、白いふわふわの頭をポンと撫でて部屋を出ていく。
「大丈夫。すぐに良くなる」
 最後にそう微笑んで、彼は襖を優しく閉めた。
 おふうを枕元に置いて、ベッドに横になる。夜空の星々を閉じ込めたように光る瞳を眺めていると急に眠たくなって、久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
 その日はもう、悪夢は見なかった。

 翌朝、目を覚ますと側にあった筈のおふうが見当たらない。
 身体を起こすと、いつもの倦怠感が嘘のように消えている。こんな風にぐっすり眠れたのはいつぶりだろう。
「喉、乾いたな」
 廊下へ出ると、夜明け前の静寂と冷気が肌を刺す。
 壁に寄り掛かるように歩きながら、一階にある台所へ向かおうとして、背後に気配を感じた。
 振り返らずとも、そこに何がいるのか分かっている。
 気付かぬふりをしたまま進み、階段の、最後の一段を降りた時だった。
「ひッ」
 あの男が、廊下の奥の闇に立っている。
 恨めしそうに顔を歪めて、唇を噛み締めるようにこちらを睨んだ顔で。
 いつもとは明らかに違う、怒りを込めた形相。
 ぶるり、と背筋が震える。鳥肌が爪先から這い上がってくるようだった。
 その時、不意に誰かが私の手を掴んだ。
「……え?」
 いつの間にか傍に白髪の少年が立っていた。年の頃は五、六歳くらい。中性的な顔立ちをして、真っ直ぐにあの男を睨みつけている。
 不思議と恐怖は消え、代わりに言いようのない懐かしさが胸をよぎった。

『—— 去ね』

 幾重にも連なった鈴のような、凛とした声が空気を割くように広がる。
 その音に気圧されるように、男の姿が闇の中へと滲むように消えた。最後まで血走った瞳が、恨めしそうに私を見つめながら。
 膝から力が抜け、思わず廊下に尻餅をつく。
「はぁッ、はぁ、はぁ…」
 息をするのも忘れていたのか。
 顔をあげると、少年の姿はどこにもなく、掌に残った温もりだけが、じんわりと滲むように暖かかった。

    ●
 あれから私の体調は快方に向かい、すぐに食欲も戻り、体力も次第に取り戻していった。自分で立って歩くことさえままならなかったのに、栄養を摂れば摂るほど身体が生きる活力に溢れていくようだった。
 学校にも復学し、遅れを取り戻すために毎日猛勉強をすることになったが、今まで当たり前だと思っていた生活に戻れたことが何よりも嬉しかった。
 あの不思議な出来事以来、あの男は一度も現れていない。
 少しずつ日常が戻ってきている喜びを噛み締めながら、ふと思う。
 あの男を追い払ってくれた少年は何者だったのだろうかと。なんとなく、昔どこかで会ったことがある気がするのだけれど、どうしても思い出せなかった。
 それと、ひとつだけ大きな気掛かりがある。元兄さんから借りたあのお守りが屋敷のどこを探しても一向に出てこないのだ。
「縁側に落ちてたぞ。おかしいな。拾って居間の棚に置いていたんだが」
「お母さんは洗面所の方で見かけましたよ。あなたが持ち歩いているんだとばかり」
 不思議なことに、両親もいざ探し始めてみると、どうしても見つけられないのだという。
 まるで、私から見つからないように隠れているみたいだ。
 しかし、このまま事情を説明しない訳にもいかず、私は彼に電話をかけた。あれだけ大事にしているものを失くしてしまったというのは言い辛いが、黙っておく方が気が引ける。
『そうか。それなら気にしなくていい。そのうち、ふらっと出てくるから』
 意外にも彼は特に驚くでも悲しむでもなく、平然としていた。
 ただ私の身を案じるばかりで、おふうを失くしたことについては、まるで心配していないようだった。あれだけ大切にしていたものなのに。なんてことはない、という態度だったのが不思議でしょうがない。
『それよりも、なるべく家を出ないように。いいね』
 念を押すようにそう告げて、彼は電話を切った。

 庭の梅の蕾が膨らみ、春の兆しを感じる頃。
 友人たちとの帰り道、最寄駅を挟んだ向こう側にできたという、大きな書店へと向かっていた時だった。
 ふと見上げた電柱に貼られた一枚の紙に、視線が釘付けになった。思わず足が止まり、その場に立ち尽くす。身体中から血の気が引いていくのを感じた。
「どうしたの。柑奈」
 凍りついたように手足が動かない。瞬きをするのも忘れて、貼り紙の写真を凝視した。それは、紛れもなくあの男の顔に違いなかった。相当に古いものなのか、貼り紙は殆ど剥がれかけて、写真も変色してしまっている。おそらくは誰かが個人的に書いたのだろう。肝心の文字は滲んで、ほとんど読むことができなかった。
「ああ。こいつ? 私も知ってる」
 絵里が嫌悪感を隠そうともせずに、顔を歪める。
「え?」
「知らない? 有名だよ。十年くらい前、この辺りに出没してたっていう悪質な変質者」
「変質者……?」
「そう。小さな女の子のいる家に乱暴目的で忍びこんでたらしくてさ。現行犯っていうの? 乱暴してたところを発見されて、凄い騒ぎになったみたいよ。子供の頃だったけど、よく覚えてる」
「あー、それ私も知ってる。実は前々から問題になってたって奴でしょ。電柱の影から下校中の子どもをいつも見てて、何回も警察沙汰になってたって」
 雫がまるで踏み潰された虫の死骸を見るような顔をして、そう言った。
「そいつそいつ。でも、ただ見てるだけじゃ罪にはならない〜とか言って逮捕もされないでさ。意味わかんないよね。普通に捕まえてくれたらいいのにさ、結局被害者も出ちゃって。本当気持ち悪い」
 ねー、と絵里と雫が声を合わせる。
 咽喉の奥が乾涸びたように、唾を飲み込むと鈍い痛みが走った。
「この人、逮捕されたの?」
「ううん。自殺したの」
 首の後ろに手を当てて、ギュッと紐で吊るすように動かす。その仕草が妙に生々しかった。
「ほら、北区の公園があるでしょう。あそこの木で首を括って。逮捕される前に死んだんだって」
「考えたら、柑奈の家のすぐ近所じゃない。知らなかったの?」
「知らない。そんなの、聞いたことない」
 十年前。そんなことが近所であっただなんて知らなかった。移住してきたならいざ知らず、地元に長く暮らしてきた耳敏い両親なら、そんな事件が近所であったなら知らない訳がない。公園に近寄るな、と口煩く言っていた筈だ。
「身勝手に自殺して逃げてさ。被害者の人の怒りは宙ぶらりんよね。あの貼り紙にもそいつの悪口がたくさん書かれてた」
 恐る恐る貼り紙に近づき、そこに書かれた、朽ちかけた名前を伺い見る。
「半井、康壱」
 貼り紙の写真はどこかで盗撮したのか。口を半分開き、無感情な瞳を貼り付けた男がこちらを眺めている。
「大丈夫? 柑奈。顔色悪いよ」
 しかし、何かがおかしい。違和感がある。服のボタンをかけ間違えたみたいに。
 屋敷ではない。そうだ。雨が降っていた。小学生の私はお気に入りの傘を差して、あの公園を通りかかった。そこに、あの男は立っていた。
 私は、ずっと前にあの男に会っている。
「嘘……」
 足元が揺らぐ。頭の奥が痺れたようになって、胸が苦しい。あの時も同じように私は呼吸をするのさえ忘れて。いや、違う。あの男は立っていたのじゃない。きっと、紐が長過ぎたのだ。だから首を括ったまま、爪先が地面に触れて立ったように見えた。
『あの男が、私を見てる』
「……思い出した」
 そうだ。あの公園で見たのが最初じゃない。何度も、何度もあの男の顔を見たことがあった。決まって通学路で私のことを見ていた。電柱の影や公園の生垣の向こうから、無感情に。あの、錆びたガラスのような瞳で。
 どうして今まで忘れていたんだろう。
 嗚咽が漏れないように口を手で覆っても、こぼれ落ちる涙だけはどうしようもできない。
「具合悪くなっちゃった? こっちの方、人通り多いし。病み上がりにはきついよね」
「本屋はまたにして、今日はもう帰ろう?」
 心配そうに二人が励ましてくれる中、どうにか駅へと戻る途中。雑踏の中に立つ、あの男の姿を見つけた。不自然なほどに動かず、じっとこちらを見つめる男の瞳が弧を描いて、邪悪に嗤ったような気がした。

 帰宅した私は、鞄を部屋に戻す暇も惜しんで、台所に立つ母に詰め寄った。
「お母さん」
 自分でも驚くほど、声が震えている。母が驚いてこちらを振り向くと、すぐに私の肩を抱き寄せた。
「どうしたの。目が真っ赤じゃない。泣いていたの?」
「そんなこと、どうでもいいの。答えて。半井康壱という名前に聞き覚えはある?」
 一瞬の間があった。
 母の顔から表情が消える。母の心が頑なに殻を被ったような気がした。
「お母さん、知ってるのね」
「いいえ。知らない」
 断ち切るような言い方に、カッと頭の中で火花が散り、自分の口から怒声があがる。
「なんで嘘をつくの!」
 鞄を床に放り投げると、中身がまるで内臓のように辺りに散らばった。
「柑奈……」
「嘘つかないでよ!」
「どうして、あなたがその名前を知っているの」
 母は深く息を吸い、少し震えた声でそう聞いてきた。努めて冷静でいるように意識しているのだろう。
「駅前で、古い貼り紙を見たの。それで思い出したの」
「……もう、十年以上前の話よ。それに、その人はもう亡くなったわ。だから」
「知っているわ。公園であの男が首を括って死んでいるのを、最初に見つけてお母さんに言ったのは私なんだもの」
 母の顔が、恐怖に染まっていくのが分かった。時が止まった気さえする、窓から差し込む夕日が黒く染まりはじめた台所。目を背けない私を、血の気の引いた顔でこちらを見つめていた母が、苦しげに瞳を閉じた。
「そうね、そうだったわ。泣きじゃくるあなたをずっと抱きしめていたんだもの、覚えてるわ。でも、もうあの男はいないの。終わったことなの」
「いいえ、終わってない。お母さん、知っていることがあったら全て話して」
「何もないわ、あの男は首を吊って死んだ。あなたはそれを偶然発見した。それだけよ」
「……言い方が違ったわ。知っていることが、私だけに黙っていたことがあるでしょう。それを、教えて」
 お母さん。と紡いだ、自分の諭すような言葉が、どこか抑揚のない機械のようだった。
 母はその瞳にこぼれそうなほどの涙を浮かべて、観念したように俯き、自分の手首に縋りつくように強く握りしめた。
「警察が言うには、あの男が狙っていた子どもの一人が柑奈だった。自宅から、数人の子どもの名前と、住所や、一人になりやすい日にちや時間まで綿密に書かれたノートが見つかって。そのリストの中に、あなたの名前が書いてあったんだって……そう聞いたわ」
「……それで?」
「パート先で、月に一度の残業をする日だったの。留守番をしてくれていたあなたが、不法侵入していたあの男に襲われていたところを、偶然うちに立ち寄った鈴木さんが助けてくれて。すぐに近所の方があいつを追いかけたけど、結局そのまま姿を消したらしいわ」
 その後は、さっきあなたが言った通りよと、消えいるような声で母が言った。
 足元から這い上がるような嫌悪感に卒倒しそうになる。記憶の遥か奥に封印した幼いあの日の出来事が、生々しい感触を纏って目の前に蘇ったように感じた。
 逃げようとする私を捕まえるブヨブヨとした感触の腕も、目の前に突きつけられた男の裸体も。その身体が放つ、鼻の奥が痛くなるほどのツンと刺さる異臭も、全部、全部。私が体験した出来事だった。
「よりによってあの日、首を吊ったあの男を最初に見つけるだなんて」
 いいや、違う。今なら分かる。あの男は、私に見つけさせる為だけに、あの公園で首を吊ったのだ。人通りの少ない奥まった場所の、友人と別れて、迎えに来る母と落ち合う前のほんの少しの空白の時間。一人になった私が、生垣の向こうから目撃するように。
「……逆だ。私のことが見えるように、あの場所で首を吊ったんだ」
 そして今、あの男は屋敷の中にいる。息を潜めて、何処かから私を見ているのだ。
「あなたはショックで、事件そのものを忘れたわ。できればずっと忘れたままでいて欲しかったけど……。でもね、あの男はもう死んだ。この世のどこにもいないわ。だから、大丈夫」
 違う。死して尚、あの男は私のことを追い回している。気づかなかった、見えていなかっただけ。あれは首を吊った状態のまま、ずっと私のことを見ていたのだ。 
「うん……そうね。ありがとう、全部話してくれて。私はもう大丈夫よ、お母さん」
 そう言うと、緊張で強張った母の顔が、安堵で緩んだように見えた。
「柑奈……」
「鈴木さんには、助けてもらってばかりね」
 出来る限りの明るい口調で笑いかけると、涙を拭いながら母も微笑みを返してくる。
「本当にね、頭が上がらないわ。それと晩御飯はね、父さんが会社から帰ったらたまには外食しようって朝話してたのよ。柑奈、何が食べたい?」
 この話はこれでおしまい、と告げるように母は笑う。母にとって、あの男のことは目を背けたい過去でしかない。おそらく私以上に苦しんだ年月分の辛さが、彼女にはあるのだ。
「私はいい。終わらせたい宿題があるの」
 だけど、私にとっては違う。何も終わってなどいない。
「でも」
「もうすぐ終わるの。だから、今日中に終わらせてしまいたいだけ」
 自分でも驚くほど力強い声が、私の喉から溢れた。
「私なら、大丈夫」

   ●
 夜空を見上げると、雲の切れ間から朧月がこちらを覗いていた。
 父と母が家を出て暫く、私は一人で屋敷中の鍵をかけて回った。敢えて明かりは点けず、側庭の石灯籠にだけ火を灯す。まだ祖父が存命だった頃、よくこうして一緒に月を眺めていた。
 縁側に腰かけて、揺らめく炎に淡く照らされた中庭を見る。
 光が風に揺れるたび、闇夜の濃い部分が蠢いているように見える。
 不意に、ごめんください、と門の方から声が聞こえたような気がした。一瞬、身を強張らせたが、今度はしっかりと女性の声が聞こえた。
 こんな時に来客だなんて。
 沓脱に置いておいた靴を履いて、恐る恐る門の方へ向かう。すると、そこには見知らぬ女性と、あの時の不思議な少年が並んで立っていた。
「君は……」
 カーディガンを羽織った若い女性がこちらを見て微笑む。
「やぁ、こんばんは」
「……こんばんは。あの、どなたですか?」
「はじめまして。私はしがない骨董店の主人をしている者だ」
「はぁ」
「今夜は、この子に無理やりここまで連れて来られてね。店を離れられないと言ったのに、放り捨ててもすぐに戻ってくるし、何ヶ月も店先に居座られて仕事にならない。こちらの根負けだよ」
 辟易した様子の彼女のことなどまるで気にせず、少年は私の瞳をじっと見つめている。
「あの、彼は一体、誰なんですか」
 彼女は一瞬驚いた顔をして、それから、ははぁ、と訳知り顔で苦笑した。
「立ち話もなんだ。屋敷の中へ上がっても?」
「え?」
「招かれないと入れない。敷地とは、人の屋敷というのはそういうものだ」
「招かれないと、入れない……」
「そう。あの日、君が招き入れてしまったあいつもね。そうでなければ、この家の門扉と塀が境界になっていた筈だ。まぁ、今更こんなことを言っても仕方がないが」
「……」
 この人は一体何者なのだろう。きっと、ただの人ではないのは分かる。でも、あの男とも違う。もっと深くて、途方もなく大きな何かのような気がする。
 私の不安を感じ取ったように、隣の少年が私に向かって一度だけ小さく頷いて見せた。その顔立ちを見て、やはりどこか懐かしさを覚える。
「……わかりました。どうぞ」
「お邪魔するよ。庭の方が良いだろう」
 まるでやってきたことがあるみたいに、二人は側庭の方へと進んでいく。石灯籠に灯した火を眺めて、彼女がのどを鳴らして笑った。
「驚いた。まさか自分ひとりで立ち向かうつもりだったのか」
 こちらの覚悟を簡単に見抜かれたことに呆然としてしまう。
「どうして、それを……」
「この子から事情は聞いているよ。しかし、無謀なことをするものだね。なんの手立ても術もなく、死霊と戦おうとするとは。差し違えてでも祓う覚悟だったか」
 くくっと楽しそうに笑いながら、縁側に腰を下ろして膝を組む。艶やかな黒髪を耳にかけると、屋敷の中を一瞥した。
「ご両親を逃したのは、巻き込まない為かい」
「父たちには、何も見えませんから」
「なるほど。確かに君は上客らしい。その気高い魂には、魅入られるものも多いだろう」
「……何の話ですか?」
「ただ退治してしまえば良いというのなら、彼がこうして私を頼ってくることもなかったんだがね。これから先も君はあれらを視るだろう。眩いものに惹かれるものは選べないという話さ」
 さて、と彼女が掌をさっと縁側の板を払うように撫でると、そこには三つの古い道具が忽然と現れていた。
「おや、三つも名乗り出てくるとは。珍しいこともあるものだ」
「これ、なんですか。一体どこから」
「彼とその持ち主と同じように、君との縁を結びたいというモノ達」
 嬉しそうに彼女は口元を歪めると、右端にある道具を指差す。象を模した木製の道具のようだ。
「これは墨壺だ。かつて名工と称えられた大工愛用の逸品でね。扱いは少し難しいが、こと境界を引くということにかけては右に出る物はない」
 真ん中の道具を指差す。それは大粒の紅玉を嵌めた銀の指輪だった。
「とある富豪の蔵から見つけてきた指輪でね。強い呪いがかけてある。少々へそ曲がりだが、なに、持ち主を守るという点に於いては心配はいらない。死霊程度、問題にもならないよ」
 そして、最後に左の道具を示す。小さく身体を丸めた、木彫りの猫。紐を通した先は輪になっており、携帯電話のストラップのようだった。
「この根付は慕った主人の仇を打つために、この姿へと変じたもの。守りたいものを守りきれなかった後悔が、仇を打った後でもこの世に留まり続けている」
 彼女はいつ取り出したのか、煙管を口に咥えて、悠然と煙を吐く。
「でも私、お金はそんなに持っていなくて」
「そんなことは気にしなくていい。これらが君を選んだ。私はその縁を結ぶだけだよ」
「私を、選んだ」
「そう。人が物を選ぶのじゃない。物が自分に相応しい持ち主を選ぶんだ。それに君の中では、もう何を手にするのかは決めている筈だ。あとは差し出された手を取るだけでいい。それで契約は結ばれる」
 見透かすように言われて、私は呆然と頷き、その根付を手に取った。掌の上で小さく丸まった猫の眼が開いて、深緑の瞳が私を真っ直ぐに見ていた。
「肌身離さず持ち歩くといい。きっと君のことを守ってくれるだろう」
 彼女はそう言うと、縁側から腰をあげた。他の古道具もまた忽然と消えてしまっている。
「さぁ、まずはあれをどうにかしてしまおうか」
 庭木の下に立つ男の姿に、一瞬息が止まりそうになったが、どういう訳かそれほど恐ろしく感じない。こちらを恨めしそうに睨みつける顔も、冷静に見てみると、どこか哀れにさえ感じる。当人はとっくに亡くなっているのに、妄執だけがこうして残っているのだ。この世界にこびりついた、染みのように。
「……悔しいわ。こんなものを、怖がっていたなんて」
 根付を手に庭へ降りる。掌の中の温もりが、じんわりと広がっていく。
 男へ詰め寄る為に一歩進むたびに、恐怖が怒りに転じていくのを確かに感じた。猫の根付から伝わった熱が、身体の中の小さな火を大きな炎へと変えていく。
 ——どうして私が、こんな奴の為にあんな思いをしなくてはならないのか。
 苦しめられる必要など、私には一つもないはずなのに。 
 手を伸ばせば届きそうなほど近づいてみれば、そこにいるのは中肉中背の中年の男だった。こちらの視線に耐えられないように、輪郭が弱々しく滲んでいる。
 この男は、自身より、はるかにか弱い者しか相手にできないような、卑怯者だ。
「——もう、あなたみたいな人間に怯える、子供じゃないのよ」
 胸ぐらくらい掴み上げてやる、そうして手を伸ばした瞬間だった。
 泣き出すように男の顔が歪み、黒い塵のようになって消えた。火の粉のように風に舞うこともなく、足元の闇へと吸い込まれていく。
 あまりにも呆気ない結末に呆然と立ち尽くす。
「これだけ……?」 
 あれだけ苦しんだのに。あれほど恐ろしかったのに。
 思わず彼女の方を振り向くと、風にはためくカーディガンに白い指を添えた彼女が、どこか見透かすような顔をしてゆっくりと小首を傾げた。
「所詮、あんなものは過去の妄執だからね。怪異としては下の下だよ。怨嗟や死穢を撒き散らせるようなものではない。恐れずに向き合い、光を当ててしまえば、散って消えてしまう程度のものだ。他ならぬ君が恐れていたことこそが、あれに力を与えていたんだ」
 彼女はそう言って、煙管の煙を空へ吐いた。
「私が?」
「そうさ。あれは恐ろしいものなのだと思う人の恐怖心は、奴らにとっては最高の餌だからね。目を凝らすほどに闇は濃くなり、其れに引き摺り込まれるように光は強さを失う。ただ、向き合ってしまえばなんてことはない。覚悟を決めて生きている人間の方が、あんなものよりもずっと強いのだから」
 そうだろう? と紅色の唇が弧を描きながら言葉を放つ。 
「でも、頂いた根付から力を貰ったような気がします」
 励まされているような、見守って貰えているような気がして、心細いだなんて少しも思わなかった。
「ありがとうございました」
「お礼なら、彼の方にこそするべきだ」
 白髪の少年が優しく首を横に振り、私の手をそっと握る。彼のふわふわとした髪の毛を見て、不意に記憶が甦って思わず笑みがこぼれる。
「……私、あなたと遊んだことがあるわ。子供の頃、屋敷でみんなでかくれんぼをしたり、鬼ごっこしたり。いつも遊び始めると一人子供が多くって。でも、不思議と誰だか分からなくて」
 幼かったからか、それとも何か理由があったのか。その増えた一人を私たちは探したりもしなかったけれど、今ならはっきりと分かる。彼がいつも私たちのことを見守ってくれていたのだ。
「ありがとう。いつも、あの時も、助けてくれて」
 彼がにっこりと笑った、そう思った瞬間。輪郭が溶けるように消え、咄嗟に伸ばした手の中にそれはあった。見覚えのある丸くて、ふわふわとした白いフクロウのぬいぐるみ。その姿を見て、涙が溢れた。
「おふう」
 何ヶ月も頑張ってくれていたからだろう。あちこち汚れてしまっている。
「やれやれ。ようやく終わったな。君も、その根付が側にあればなんとかなるだろう。まぁ、縁があればまた会おう。次は君が店の方へ出向いて欲しいね」
 彼女は煙管を咥え直し、ぱたぱたと手を振って門の方へ歩いていく。私は慌てて彼女の後を追ったけれど、庭木の影で見えなくなった一瞬の間に、忽然と姿を消してしまった。
「お店の名前くらい、聞いておけばよかった」
 縁側に戻り、先ほどまで彼女が座っていた場所に腰を下ろす。夜風で冷えた床板が、ひんやりと心地いい。ずっと屋敷に染みついていたおぞましい気配が、洗い流されたように消えている。今は庭木の影にさえ、どこか暖かみを感じるほどだ。
 掌の中の根付を見ると、いつの間にか猫が目を閉じて眠ってしまっている。
「——おやすみなさい。ありがとう」
 そっと指で頭のあたりを撫でると、微かに喉を鳴らす音が聞こえた気がした。
 スカートのポケットに優しく入れて、ほんのり暖かいその場所に手を添える。これからはずっと、この根付が私の側に居てくれる。そう思うだけで、何も怖くはなかった。
 つぶらな瞳をこちらに向ける、従兄弟の大切な相棒を抱きしめる。
「明日にでも元兄さんにあなたを返しに行かないとね。もう、心配はいらないって」
 あの少年も、このぬいぐるみも、きっと『何か』が変じた姿なのだろう。
 空を見上げると、そこには雲ひとつない完璧な夜空に、澄んだ鏡のような月が銀の光を弾いて浮かんでいた。いっそ飛んで帰ってしまえば良さそうなのに、こうして律儀に私の膝の上にいてくれるのがなにより嬉しい。音もなく、闇夜を裂くように翔ぶ姿はきっと神々しいほど美しいに違いない。
 月明かりに照らされた柔らかいぬいぐるみが、恥ずかしそうにみじろいだような気がした。

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