104.ダンス・イン・ザ・キッチン
0.プロローグ
キッチンでは、嫌なことばかり考えて、嫌なことばかりを思い出した。
ちょうどニ年前、つまり一昨年の夏に彼女と別れた。無論彼女のことは愛していたし、彼女も僕のことを愛した。それでも別れてしまったのは、それこそどうしようもない話だった。単純さが故に言葉にできない複雑な事情なんて、辺りを見回せば案外そこかしこに散在しているのだ。
彼女と別れたその日に、深夜のキッチンにやけに白い照明を灯して、ハンキー・ドリーを繰り返し再生しながら食器棚にもたれて眠ったのを思い出した。早朝、まだ外の暗い時間に目を覚ましてふと横を見ると、白い照明に照らされた自分の顔が大窓に映っていた。手元には、バッテリーの切れたプレイヤーが冷たくなって眠っていた。立ち上がって窓を開けると、何かが焦げたような匂いが夏の湿った風にのって家の中に入ってきた。彼女と別れたショックで当時の記憶は極めて鮮明に記憶されていた。ただ彼女が彼女であったからではなく、”自分が彼女と別れた”ことにショックを受けていただけだというのに気づくには少々時間がかかった。
高校に入ってからの3年間を小説を書いて過ごしたいと思ったのは、高校に入学してすぐだった。
入学当時、それまで知らなかった新しいものが身の回りにどっと増え、身動きが取れなくなった僕が行き着いたのは、テキストエディットを開いたパソコンの前だった。想像力が特別豊かであったわけではなかったが、文章を書くのは苦ではなかった。将来についても深く考えていない、無軌道な僕が小説を書くことにしたのは、本当にただそれだけの理由だった。それが楽しかったかと訊かれれば自信を持って頷くことはできないまでも、否定する気にはなれなかった。
高校には文芸部も存在していて、他にしたいこともなかった僕は流されるままその部に所属した。幸運なことに、文芸部は海外の小難しい小説を読んで、何も分かっていないのに何か分かった気になっている副部長を囲んだ数人が日々水掛け論に勤しむ平和な部であった。小説をほとんど読まない僕は自分のパソコンを部室に持ち込んで、誰かとしゃべるわけでもなくただパソコンに文章を打ち込んで一年を過ごした。ときたま、部員が書いた小説を読まされることもあったが特に面白いものでもなく、最後まで読み切ったものはただの一つもなかった。一年間で書いた小説は、三行書いて嫌になったものもあれば数万字も書いた長編作もあった。毎回、部員や他の誰かに読ませるわけでもなく、いつか気が向いたときに削除しようと思って保存した。
僕の高校は地方でも名のないごく普通の高校だった。そのためか、あるいは他の学校も同じようにそうであるのかは分からないが、一年生の間勉強もろくにせずひたすら小説を書いていた僕でも特に苦労せずに進級できた。担任の先生は、学年末の個人面談で「この調子で二年生も頑張ってください。」と言った。そんな馬鹿な話があるかと心のなかでは思いつつも、小説を書く以外にすることも、できることもない僕は残念ながら彼の指示通りに動くほかなかった。
深夜、暗いキッチンでパソコンに向かって思い出した今までの日々は、これでやっと現在の僕に追いつき始める。
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