106.ダンス・イン・ザ・キッチン

1.コーヒーカップについて


僕の横で、藤井がまた唐突に話し始めた。
「奇妙な話だと思うだろうけど、うちの図書館には本というものをろくに読んだことのない連中しかいないみたいなんだ。」
僕は一瞬藤井の方を見て、適当に頷いてまたパソコンに視線を戻した。
「先月の小説はかなりできがよかったと自分でも思う。しかし連中俺の小説なんて読んじゃいないんだ。副部長の書いた気味の悪い恋愛小説に夢中なんだよ。」
僕が返事をしないためか、藤井は独り言をぼやき続けた。
「確かにタイトルは悪趣味だったさ。『国家を呼べ』だなんてさ。我ながら酷いタイトルだ。しかし手に取ってみたっていい。なかなかえぐみのありそうなタイトルじゃないか。少なくとも手に取ってみる程度の価値はあるね。図書館の前に二ヶ月に一度、律儀に小説を供給してる文芸部の気持ちを少しは考えてほしいもんだ。」
藤井は一呼吸置いて、また喋り出した。
「君あの小説読んだかい。俺は恐ろしいね。女の子をあんなふうに観察して、描写するようなやつが平気な顔で俺たちと同じ部室にいるんだ。」
一番言いたかったことを言い終えた様子の藤井は、今度は僕の返事を待った。
「副部長の書いた小説は、特にうちのような高校の生徒にはウケやすいんだよ。映画やドラマや漫画でしか恋愛というものに触れてこなかった人間に溢れているからね。」
僕は藤井が期待していたであろうセリフを流れるように口から吐き出した。藤井は声の調子を少し上げて、
「まるで君は連中とは違うみたいな言い方だな。まあいいさ。とにかく連中、俺の小説を読みもしないで知らんフリだぜ。あんな奴らのために小説を書いてる我々が間抜けみたいだよ。」
と少し嬉しそうに話しを終えた。
藤井は2年生になって文芸部に入部してきた。入部してから数ヶ月経った頃に藤井は、「文芸部の黄ばんだ机でひとりぼっちでキーボードを鳴らしている君が実に可哀想で、それでいて惨めだったんだ。だがとても自信に満ちていたのさ。それが俺にはなにか特別なことのように感じたんだ。家に帰るまでの20分間の話し相手にするくらいの価値はあるだろうと思ったね。」と言って僕に話しかけ、それから我々は部室でたまに話すようになった。しかし藤井は下校時刻の20分前に部室にやってきて、脈絡なくわけのわからないことを言って帰るような、無責任な男だった。ただ藤井が文芸部に下校時刻の20分前になってからしか顔を出さないのには、彼なりの理由があるようだった。
「俺にとっては、少々下品な言い方をするなら、文章、特に小説を書くってのはいわば排泄みたいなもんなんだ。何もかもがね。自分の体に入れたものを、形を変えて外に出すのが創作というものだよ。文章を創作するのはあらゆる創作活動の中で最も排泄チックな作業と言っていい。多少形を変えているとはいえ、それを書いた人間がどういうものを食べてきたのかがとってもはっきり現れる。君、自分が排泄しているのを他人に見られたいかい。俺はごめんだね。俺は他人がそうしてるのをみるのも20分が限界なんだ。」
また彼の、文章に対する姿勢や思想や観念や倫理観は、ある種僕に対するアンチテーゼ的な含みを持つこともあった。しかし彼は、それをそう言った意識で僕に向けることはせず、あくまで独り言の枠に収めたがった。彼は優しく、それでいて残酷だったのだ。

今日もまた、どう返事をしていいのか分からないような、どうしようもない話をして帰っていった。
僕が学校を出たとき、下校時刻をすでに10分も過ぎていた。駐輪場を抜けて、昨日整えられたばかりの青々とした茂みを横切った。夕暮れの太陽に照らされた、校舎のレンガ模様のタイルが音をたてて光を反射していた。タイル張りの校舎に背を向けて、駅までの下り坂を歩き始めた。グラウンドでサッカー部がザクザクとボールを蹴る音に脳を揺らされて駅までの400mを歩いた。藤井との会話を思い出しながら電車を待った。そして副部長の気味の悪い文章を思い出し、最低の気分で電車に乗り込んだ。僕はシートに座ってぼんやりとしているうちに眠ってしまい、降りる駅の二つ前の駅で目が覚めた。

次の日は土曜日だった。午前中の授業は、近くの薬局で買えるような睡眠導入剤とは比べ物にならないほどの威力で、我々の眠気を誘った。12時半に4時限目終了のチャイムが鳴り、皆何かに追われるように教室を出ていった。後に残ったのは右斜め前に座っていた生徒の机からずり落ちた電子辞書が床に叩きつけられる音の余韻と、最後列の窓際で突っ伏して動かなくなった藤井の影だけだった。僕は藤井をゆすぶり起こして、二人で教室を出た。部室に向かう途中で、図書館の前を通った。雑に紐を通した文芸部の小説が、一つの画鋲に無理やり引っ掛けてあった。割り終わった後のくす玉のようなその塊の中には、僕と藤井の小説も確かに混じっていた。僕は黙って通り過ぎようとしたが、藤井が話し始めた。
「君のもなかなか良かったよ。俺のと同じくらいね。しかし君の小説は前回のとも、前々回のとも違っていてかなり驚かされた。君の文章はどうやら”君らしい”というものがあまりないように感じる。」
僕は少し首を捻りながら答えた。
「君は物事をとてもよく理解した上で話すこともあれば、案外的外れなことを言うこともある。君は僕の小説が前回のとも前々回のとも違っていると言うけど、あるいは君の言う通りなのかもしれないけど、僕はそういうつもりで書いているんじゃないんだ。僕の小説はあくまで水を一口飲むためのコップみたいなものなのさ。あるいは湯呑みと言ってもいい。要は伸ばしたり縮ませたりしたら、同じ形になっちまうようなものなんだ。毎回そこに入っているものが少し違っているだけで、それを飲むための容器は全て同じ形をしているんだ。コップは伸ばしたり縮ませたりしてもコーヒーカップのような、大胆で、繊細な変化に富んだ代物にはなれないんだよ。コーヒーカップには持ち手がついているからね。僕が一人で小説を書いている以上、それは避けられないことだ。君が僕の入れた飲み物を大した変化だと言ってくれるならその通りに納得してもいいかもしれないけどね。」
僕が話を終える頃には、我々はすでに部室の扉に手をかけていた。藤井は扉を閉めながら質問した。
「どうすれば君のコップはコーヒーカップになるんだい。」          僕は答えた。                              「さっきも言ったように、僕が一人で小説を書いている以上僕のコップはコーヒーカップにはならないね。僕のなかに僕以外の人間がいるんならあるいは別だろうけどね。または誰かと一緒に書いてみたりしさえすればいいのかもしれない。」
僕が答えると藤井は数秒考えてまた提案のような質問をした。いや、質問のような提案かもしれなかった。
「二人で書いてみたらいいじゃないか。文芸部には手伝ってくれる人間くらい居そうなものだがね。もちろん俺はごめんだけどね。副部長を見習って恋愛小説を一本書いてるとこなんだ。」
はにかみながらそう言う藤井に、僕もまた数秒考えて答えた。
「二人で書くのは魅力的な案だと思うけど、僕には単に友人と呼べる友人が極端に少ないんだ。文章を書くとなると尚更さ。もちろん僕だって君はごめんだよ。君に任せたら僕のコップが変な形のタンブラーになってしまうに違いないからね。僕が一人なのは、結局はそういうことなんだ。」
藤井は質問をやめて、僕の方をみて、そして黙ってしまった。何かを考えているようにもみえたし、眠気と闘っているようにも見えた。二人で気まずさのない沈黙に身を浸した。それから沈黙が破られたのは、下校時刻の20分前になってからだった。藤井が珍しく開いていたパソコンを閉じて、つぶやいた。
「あんな話をしてしまった以上、君はどうしても誰かと二人で小説を書かなければいけなくなるだろうね。物事は常に二つ同時に起こるんだ。理屈で説明できそうで、できないのがもどかしいがね。でも、とても自然にそうなっているんだよ。世界というのは二つのことが同時に起きるようになっているんだ。」
藤井は頷きながら繰り返した。藤井は物事をとてもよく理解した上で話すこともあれば、案外的外れなことを言うこともある。おそらくこのときの藤井は、物事をとてもよく理解していたのだろう。僕はそう直感したが、藤井が何を言いたいのかはよく分からなかった。

そのやりとりから2週間後、二つのことが同時に、極めて自然発生的に起こった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?