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からっぽの中身を満たす、誠心誠意のピンハネ(贈り物編)

ほんの少し前まで、テレビと人々の頭の中を占領し続けた、コロナという言葉が、今や過去の物となりつつある。ワイドショーはせいぜい一つか二つしか話題を提供することはできないし、人間の頭の構造上、やはり同時に処理出来るのはその程度なのだから仕方があるまい。頭のおかしな殺人鬼、悲劇的な事故、あるいは有名人の不倫、そういった話題の王様たちは、近代都市で起きる戦争という話題の帝王に乗っ取られた。

そこで、毎回懲りずに現れる我が国の不死鳥、千羽鶴である。

この奇妙な被造物は、地震をはじめとする天災や、戦争による悲劇について、確固たる回答の地位を占めている。原爆ドームにはあまたの千羽鶴が奉納されているし、大地震のたびに何故かどこからともなく千羽鶴は飛来する。何でも、高校野球においても千羽鶴が折られ、敗北したチームから勝利したチームの栄光と活躍を期待して贈られることもあるという。

千羽鶴の価値、それはそのものズバリ、作業者の投入した時間である。物としては何の利便性も無く、タダの紙切れで、すこぶるかさばるのだ。とはいえ、この贈り物は宗教的な神秘性を帯びている。故に、寒いからといって盛大に焚き火に投入することは容易ではない。

まず「千羽鶴はいらない!!!」と言っていた。一人からなら千羽、2人からなら二千、全国各地から何万羽の鶴がここに来る。どこにこの鶴を置いたらいいんだ。捨てられないし、置いとけないし、ありがたいけど大変なときにめちゃくちゃ仕事が増えるから、まじで勘弁してほしいと。

「千羽鶴はいらない」ウーマン村本大輔が現地で聞いた被災者の声
https://diamond.jp/articles/-/257131

千羽鶴という贈り物を否定する為には、道徳のバリア、即ち「これだけ被災地は大変なんだから、贈ってこないでくれ」というタテマエが必要になるのだ。ひょっとすると、二三日凍えた被災者で、手が真っ青になっているような人の映像を映せば、千羽鶴を焚き火に入れても許されるかもしれない。しかしながら、きっと来週には、その数倍の千羽鶴が飛来することになるはずだ。

この投入された労働時間自体が価値である、という概念は、日本人の文化に根強く息づいている。

PTAで集めるベルマークの代わりに、同じ時間どこかでアルバイトする方が余程金になるであろうし、いっそのことPTAを休んで、その分本業に精を出し、上乗せして稼いだ分の半分でも寄付すれば、もっと金になるだろう。しかし、日本社会はそれを許さない。ちまちまと、大の大人が、何時間もかけて、数百円をかき集める。ここで投入された時間こそが価値の源泉であり、この細々としたビニール片を集めさせたことこそが地域の連帯の力なのだ。

資本主義的な現代の経済学では、表現不能であるが、「投入された労働量」こそが価値の源泉だというマルクス経済学の補助線を、日本の汎神論に重ねたときに、この神秘の経済学は成立する。

しかしながら、これを外国に送付すればどうなるか。それは、駅前で聖典を配っているカルト教団と、実のところなんの差異も存在しない。異国の奇妙な宗教の押しつけに他ならないのだ。

幸いにして、ウクライナへの千羽鶴計画は停止された。

少し、日々の生活を振り返ってみたい。私たちは日々の生活で、無意味な千羽鶴を折っていないだろうか。誰のためでも無く、自分のためですら無い、何か謎の被造物を作り出してはいないだろうか?なんと、日本の労働生産性は、年々順位を下げているという。われわれは、誰のためにもならない何かのために、時間を使いすぎていないだろうか。

少なくとも、何かを願うときに、千羽鶴を作る必要は無い、祈りたいなら神社なりで手を合わせればよいだろう。

もし、青と黄色の色紙を既に大量に買い込んでしまい、千羽鶴を折ってしまっていたら?千羽鶴という文化が、贈られた側にとって迷惑千万であることは、もう理解いただけただろう。是非「呪詛」というスタンプを押して、ロシア大使館に送りつけることをお勧めしたい。

参考文献: トップの写真の取得元記事
心を込めた呪いの品は、世界に満ちている。

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