国分一太郎『小学教師たちの有罪』を読む15
前回の記事の続きです。
22 教育科学研究会のこと
国分は、砂田との取り調べのなかで、教育科学研究会(教科研)のことについても聞かれます。
教育科学研究会は、民間教育研究団体の一つで、阿部重孝、城戸幡太郎らの編集になる岩波書店の講座『教育科学』(1931〜33)にはじまります。それは、従来の観念的な教育学にたいして、教育の事実を実証的にとらえ、解明しようとしました。この講座の基本方針をうけつぎ、雑誌『教育』が1933年4月から、城戸幡太郎、留岡清男の編集によって刊行されました。雑誌『教育』の読者を中心としてつくられた研究団体をもとに、1937年5月に教育科学研究会が結成されました。(岩波教育小辞典、59p、1982年、岩波書店)
国分は教育科学研究会に期待を寄せ、ほかの教員にも参加を呼びかけた一人でした。「『教育科学』の確立とそれによる確かな教育実践ということへの期待が、ひとしくあった」と述べています。(201p)
取り調べている特高の砂田は、学者が中心に結成された教科研に、なぜ現場の教員が入るように呼びかけたのか国分に問います。それは、教育を科学的に研究するのには、実際の教育の事実を知っているものが参加しなければならないと思ったからでした。国分は中国の広東に赴任しているときに、この教科研に寄付金を送るのですが、砂田はそれすらも知っていて、いきさつを聞いてきます。さらに中国の教育者・陶行知(とう こうち)と国分や教科研との関係も訊問するのでした。
そのようにして国分と教育科学研究会との関係をくどくど聞いているのですが、国分は教科研とは同一の考え方ではなかったと答えます。国分は、まさか城戸幡太郎や留岡清男らが治安維持法で検挙されるようになるとは、夢にも思っていませんでした。国分この著書(『小学教師たちの有罪』)のなかで城戸・留岡らの予審集結決定書の一部を引用しています。
この引用に続いて、「以て『コミンテルン』及日本共産党の目的遂行の為にする行為を為した」と続きます。あれこれ述べていますが、「教育紙芝居」の件を、検挙の理由としてあげているにすぎません。
教科研は1941年に解散、その後主要メンバーが検挙され、雑誌『教育』も1944年に廃刊となります。戦後、1951年11月に、旧教科研メンバーを中心に雑誌『教育』を復刊、52年に教科研は再建されます。ふたたび「教科研運動」が展開され、新憲法・教育基本法の理念を実現すべく、いまも実践・研究運動が進められています。