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「生活と表現」〜国分一太郎と大田堯のことばから〜

 生活綴方や生活綴方的教育方法について、これまでいくつか記事を書いてきました。その中で生活綴方は国語科作文と、どう違うのかという話題がありました。今回の記事は、その具体例を示したいと思います。


国分一太郎著『新しい綴方教室』(1951年)から

 ある例文を国分は著書の中で示します。

きのう私は、私の家のうらの、私の家の畑の、私の家の桃をとってたべました。

国分一太郎『新しい綴方教室』3ページ

 「私の家の」という言葉が重複しています。このような文をもし自分が担任する子が書いてきたら、または我が子が宿題で書いていたら、あなたはどうしますか?

 もし現在の国語科の指導の通りに添削すれば以下のような文になるでしょう。

  きのう私は、私の家のうらにある畑の桃をとってたべました。

 しかし、国分は、なんべんもくりかえす「私の家の」は、かんたんに削りさってよい余計な言葉ではないと力説します。

 それはこの文章の作者である菊池松次郎が、かつて他人のものを盗み、ドロボウ気があるとうたがわれたことがあるからです。この桃はけっして「よその家の畑の、よその家の桃ではない」という意味が、またはそういった作者のおもいや心理状態が表現されていると国分は指摘しています。国分は子どもの書いた一字一字、または言葉や文章から「かれらの表現する生活をみる」と述べています。(国分一太郎『新しい綴方教室』4ページ)

大田堯の『生活綴方における「生活と表現」 ー佐々木昂の仕事をふり返りながらー(1959年)

 大田は、戦前の生活綴方実践を牽引した佐々木昂の理論を引き合いに出して、上記のような「生活と表現」について論を展開しています。大田は佐々木の仕事をこのように評しています。

「彼は生活綴方を教育の本質につなぎ、ほんものの教育のあり方へと自覚させていくうえで、ひじょうに大きな努力をしています。」(『大田堯 自撰集成2 ちがう・かかわる・かわるー基本的人権と教育』337ページ、2014年、藤原書店)

 大田は佐々木の論文にある「綴方の問題は生活と表現とだ」という言葉を引用し、「生活のなかから表現にまで持ちきたされたもの、あるいは、持ちきたされようとするもの、そういうものと、文章として表現されてあるものとのかかわり方というものが綴方にとっては根本の問題である」という意味づけをしています。

 ある例文を大田は示します。

ぼくが、ぼくのおとうちゃんが、ぼくのボールをぼくに、ぼくに買ってくれた

上掲書、338ページ

 これを「おとうちゃんがぼくにボールを買ってくれました」と教師が直すことによって、その子どものたどたどしい綴方の後ろにある、ほんとうに切実な感動が、殺されてしまうと、大田は言及します。

 もしこの子が、貧しい暮らしの中で、なかなか十分にほかの友だちのように物が買ってもらえない、負いめをもっているような子だとします。だとすると、彼がお父さんの貧しい財布からたった一つのボールを買ってもらえたというのは、彼にとって大きな出来事になるはずです。大田はこのように述べています。

「この子どもの心のなかでは、生活の波動といいますか感動といいますか、そういう大波がのたうっているにちがいない。その喜び、生活ののたうちといいますか、そういうものを私どもはかえってこの素朴な綴方のなかから読みとることができる。『ぼくが、ぼくの・・・』という、そのよけいな『ぼく』のなかにも、かえってしみじみと読みとることができると思うんです。」(上掲書、339ページ)

 このような綴方を文法的に正しい表現=「おとうちゃんがぼくにボールを買ってくれました」へ直すと、それは文章形式のうえでは直されていますが、その子どもの生活のなかでの真実というものの表現として考えると、「むしろ改悪されたとも言える」と大田は指摘しています。

 このたどたどしく書きつづった綴方から、その背後にある生活の様子、心のゆれ動きを汲み取ることのできた教師は、その子どもの感動を、より質の高い感動に高められるような指導を加えていくでしょう。このような指導について、1930年(昭和5年)に佐々木昂がすでに述べていて、「生活」というものと「表現」というものが、または「生活と表現の緊張関係」が綴方にとっての根本的な問題であると大田は結んでいます。

 さらに大田は、「このたどたどしい表現と、生活のなかでのこの子の感動を緊張においてとらえることによって、この子どもをより高い質の生活表現へと導き、質の高い人間へとみずからの力で創造的に発展させることができるわけです。」と論を展開しています。(上掲書、342ページ)

 大田は佐々木の生きた時代に共通する問題として、一つの表現形式を子どもに押し付けていく「残酷さ」があると述べ、綴方の仕事の価値についてこうまとめています。

「綴方の仕事は、その子どもの底知れぬ生活のなかの力といいますか、可能性といいますか、そういうものと、それから表されたものとのあいだに嘘をなくしていく。生活と表現とのあいだにはいってくるくいちがいをなくしていく。そういうことがそこに仕事としてはいってまいります。この嘘をなくするというのは、たんにセンチメンタルな意味でただ『真実であれ』ということではなくて、この子どもたちの持っている生活とその表現とのあいだには、もっとわれわれが考えなければならないものがはさまっている、というふうに考えられるのであります。」 (上掲書、345ページ)

子どもの表現から生活を読み取る教師の仕事

 国分や大田の指摘は、現役の小学校教師である私の心のささります。また親としての子どもの見方にも光を差し込みます。書かれたものはもちろん表現ですが、子どもの一挙手一投足が子どもの表現であると解釈を拡大すると、子どもの行動の一つ一つは、その子の生活との緊張関係で生まれた表現であると言えます。 

 私も日々、子どもの作文や日記を読むときは、その子の生活をとらえるようにしています。そして書かれたことから、書かれなかったおもいを想像しています。そういう視点で綴方を読んでいると、たった一つの言葉に大きく感動する瞬間に出会うことがあります。国分の述べた「私の家の」や、大田の言う「ぼくの」のように、子どもの【生活ののたうち】を感じる言葉に出会ったときの喜び、または愛おしさは生活綴方教師のエネルギーの源になっているように思います。

 生活綴方的教育方法についての記事をまとめているときに、「自由」や「リアリズム」「話し合い」といった、その教育方法の本質について理解が進みました。そこに今回の「生活と表現」という視点も加わりました。ここまで記事を読んでくださった方は、私の以前の記事もぜひ参照していただけると幸いです。そして国分一太郎がいったように「綴方、このよきもの」の継承・発展の仕事をぜひ一緒にしていけたらと切に願っています。

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