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100日チャレンジをやってみている話

今、イラスト100日チャレンジというのをやってみている。単純に100日イラストを描き続けるというだけのもので、ゆるくノートの隅に落書きしていたものをちゃんと練習してみている。

今60日を過ぎたところなので、ゆるっとまとめてみる。


はじめたきっかけ

100日チャレンジ、というか、何かを続けられる人にあこがれていた。私は一気にはまって短期間一心不乱にそれをして、さくっと飽きて捨ててしまうことが多い。何かにじっくりと取り組んでみたい、時間を味方につけて自分の武器にしたい、と思っていた。100日続けたら、それはすぐに手放せる対象ではなくなると思う。じっくり育てたものを手元にたくさん持っておきたい、という願望があった。

ある日ふと、ちょっとかわいくかけたな~と思ったイラストをTwitterにアップしたら、たくさんの人に見てもらえた。(二次創作)

これはいいチャンス!と思ってそこから100日チャレンジを始めた。単純!


100日チャレンジをして手に入れたいもの

本当は「画力」とか「フォロワー」とか、そういうものが目的になるのだと思うけど…「地に足をつけている自分」が欲しいと思った。

もうすぐに30にもなるのに、人生に迷ってふらふらふらふらしている。あれもできるんじゃないか、これも出来るんじゃないか、でも自分には無理だと思う…頑張れないと思う…という思考を何度も何度も繰り返してきた自覚がある。

常に後ろのめりというか、足は動かしているから状況としては動くけれどメンタルが後ろ向きなので自分で何かを選んでいる、道を切り開いている感覚がない。

なんか気付いたらこうなっちゃった、みたいな意識を多分、幼いころから持っている。能動的に生きたいと常々思う。付きまとってくる閉塞感は多分、この後ろのめり感から来るんじゃないかな、とも思っている。

100日チャレンジは正直、やらなくてもいいことでしかない。誰に強制されるでもない、私がやってもやらなくても当然世界は何も変わらない。私がnoteを書いたらもしかしたら何かが変わる人がいるかもしれないが、100日チャレンジは本当に誰も何も変わらない。

そういうことに取り組むのは、自分の中で「能動的」な行為だった。言われたことをこなすのではなく、自分で選択して道を切り開いていく感じ。

だからやってみた。100日を積み重ねたら、嫌でも今の自分の状況を認めざるを得ない。下手くそだな、何も描けないな、そんなことを受け入れるのも、「地に足を付ける」ということな気がした。

一歩一歩着実にゆっくりと進んでいく、そんな感覚を手に入れたいと思った。


続けられている理由

続けているうちに、「飽きたな」という感覚が何度も訪れた。別に絵をかくこと自体が大好きというわけではないので、それはそうだと思う。とはいえコロナということもあり仕事がゆるいこともあり、時間は正直たくさんある。

だから暇つぶし半分で手を動かすことが出来た。

そうこうしているうちに、自分は「何かを始めることが好き」だが「続けることは飽きる」という特徴が強いということを実感した。

また、説明のあとに「何度も実践して身に着けてください♪」みたいなことが書いてあっても、ほぼ100パーセント実践しない自分にも気が付いた。

具体的じゃない指示は嫌い。自分で具体的な行動を考えて練習して、効果があるか確実じゃないからである。(こういうところが地に足がついていない一因だと思う)

その反面、勉強は好きだった。すぐに答えがわかるし、問題集もある。やることが明確で一歩ずつ進んでいくという環境がセッティングされているのだ。しかもゴールも明確で、問題集をやれば、終わる。

じゃあ絵もそうすればいいな、と気付き、書き込み式、しかもあまり量が多くないものをやってみた。

大成功だった。問題集みたいになっているからやることが具体的で、しかも結構簡単なのでどんどん進んだ。多分生まれて初めて、強制されることなく問題集的なものをやり切った。

私は基礎を大切にしない人間である。基礎とかやる意味なくない???と思っていた。

でも基礎練習の乗っている問題集(?)をやり切ったところ、描けるものが目に見えて増えた。しかも基礎練習的なものを繰り返すと、なんとなく「これならいける気がする…」という謎の自信が生まれてきた。

基礎練習めっちゃスゴイ。そうこうしているうちに、最初は一人の人間しかかけなかったのが、イケル気がする!!という謎の自信から二人にレベルアップし、人間二人を描くことが楽しくなり、人間二人を当たり前のように描くようになった。基礎って本当にすごい…。


可視化する大切さ

途中からふと気が付き、notionのgalleryで日々のイラストを登録し始めた。

すると、初日から今までのイラストがすべて見ることができる。たくさん描いてきたな、というのが視覚化されることで、挫けそうになっても持ち直すことができるようになった。

一日一日はしょぼくても、続けているとたしかに積み重なって行く。歩いたところが道になる、というのはこういうことなんだなと思った。

また、毎日やっていても気持ちは「全然やってないし…」的な方向へ記憶を捻じ曲げる。

記録という事実をつけると、自分が積み重ねてきたものをハッキリと受け入れることができるので、記録は絶対に必要だと思った。


60日やってどうなんですか?

ぶっちゃけ上達した。2か月ちゃんとやるとこんなに上達するんだ!?って自分的にはびっくりするほど上達した(個人的感想)。

でもそれ以上に、周りの反応が変わった。すごく好き、って言ってくれる人、RTしてくれる人、フォローしてくれる人がとにかく増えて、日本語だけで活動している時とはくらべものにならないほどワールドワイドな反応をもらうようになった。英語でコメントをもらったりして、普通にびっくりした。絵は言語を介さないんだな、という当たり前すぎることを体験した。

地に足をつけたくてやっているのだが、逆に地に足がつかなくなってしまっているような気がする。自分の実力と評価が見合っていなくて、どこにいるかもよくわからない。

他者からの評価を気にしないために、絵をアップしたら通知を切るようにしたのだが、そうするとリプライに気付けなくなる。

その結果ちょこちょこ確認するようになって、完全に逆効果になっている。

他者の評価を気にしてしまうというのは創作をする以上ずっとついてくるのだろうか。正直ちょっとめんどくさい、自分が。


先に100日やると決めると続く

100日チャレンジ、というか継続というのは、1日を100回繰り返す、というものなんだと思う。

でも私はそれは飽きてしまうので、先に100日やる、と決めた。100日と決めたら、じゃあこの本をやろう、この練習をやろう、と100日を埋めるようにして行動することが出来ている。

これも結局自らに課す「強制」なのでは…なんだかんだ後ろのめりのスケジュール埋めなのでは…と思わなくもないが、それで続けられているならまあいいか、と思うことにした。


時間を無駄にしていない安心感

これまで(特にコロナの期間)、「何もやってないのにもう〇月も終わった…」「ただ時間を消費しているだけで年を取っていく…」という感覚があった。

でも100日チャレンジを始めてからは、例えば秋の話をされても「秋の自分は100日チャレンジを終えた自分!どうなってるんだろう!?」と未来の自分に期待をもてるようになった。

私が好きなアイドルはよく「未来はもっとよくなる」と言う。それが彼らの魅力であり元気づけられるのだが、自分は未来はよくなる、とは思えていなかった。

何かを頑張ることで、「未来はよくなる」という考えが出来るようになるのだな、と気が付いた。


全然キラキラしていない100日チャレンジ

ここまで書いて、まじでキラキラのない薄暗い100日チャレンジだな!?!?と思った。これを文字に残すことで、少し先の未来に「100日チャレンジ最高★」とか思い出補正でキラキラになっていても現実を直視せざるを得なくなるような気もするのだが、せっかくなので残しておく。

根暗だから薄暗いのは仕方ないと開き直ることにする。

本人の薄暗さとは逆に他者からの視線はとても明るいなと思う。だましているような罪悪感も正直ちょっとある。ちょっとあるけどまあそれはそれということで、とにかく残りの期間走り続ける!


自分との約束を守る

自分との約束を全く守れない人間なので、多分そういう部分でも自己信頼が弱いような気がする。

100日完走出来たら何かが変わるといいな。


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