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ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』ーナチ高官暗殺を巡る、偏執狂的ストイック小説ー

知り合いから、ローラン・ビネというフランス人作家の『言語の七番目の機能』という小説が面白い、という話を聞いて、Amazonで調べていた時に見つけた変なタイトルの小説。

ナチ関連のぶっ飛んだ映画こそいくつか見たことがあるけれど(『ブラジルから来た少年』『アイアン・スカイ』『イングロリアス・バスターズ』・・・)、別にナチ自体に詳しいわけではないので、「HHhH」が「 Himmlers Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)」の頭文字だということなど知るはずもなく、そもそも読み方すら分からない(正解の読み方は無いらしいが)。

ローラン・ビネ氏のデビュー作ということで、『言語の七番目の機能』と併せてkindleで購入した。

あらすじ

ナチ親衛隊大将でユダヤ人虐殺の実質的な推進者であった”金髪の野獣”ラインハルト・ハイドリヒの人生と、ハイドリヒ暗殺計画である「類人猿作戦」の遂行と顛末を、『HHhH』を書いている最中の作者自身の日常や悩み、ハイドリヒや「類人猿作戦」に関する歴史解釈なども交えた断章形式で描く。

あまりにストイックな叙述スタイル

世の中に、実話を基にした系の小説は数多あるが、基本的に最低限の歴史的事実は踏まえた上でストーリーは作者が自由に盛るものだ(さすがに最低限の歴史的事実は押さえておかないと、歴史改変ものSFになってしまう)。

『忠臣蔵』は確かに赤穂事件を下敷きにしていて、江戸城での刃傷も吉良邸討ち入りも事実だけれども、そこに至るまでのプロセスやイベントの描写、ましてやキャラクターの性格やセリフなどはほぼ完全に創作だ。

そんな実話小説における常識、お約束を投げ捨てて、当時の資料などで歴史的事実として実際に起きたことが証明できるものだけで小説を書こうという、激キモストイック縛りプレイを自らに課して書き上げたのが『HHhH プラハ、1942年』である。

そのため、本作を書いている最中(という体)で隙あらば断章に登場する作者自身(ある意味この自分語りパートが一番嘘くさい)は極めて神経質で苦悩している。ハイドリヒの乗っていた車の色が黒か緑か、といった作品の筋に全く関係のない部分についての客観的事実による裏付けを延々と語ってみたり、ハイドリヒやパラシュート部隊のセリフを書いたと思ったらすぐに、本当に発言したかどうかは分からないから想像にすぎない、みたいな言い訳を長々と書いてみたり。自由間接話法で書いているんだから好きにすればいいのに。

事実だけを積み上げて小説というフィクションを創造することに対する作者の異常なこだわりと、それを実現するために採用した独特な語りの技法はかなりトリッキーで、「類人猿作戦」でハイドリヒがぶっ殺されるストーリーを期待している読者にとっては回りくどすぎて読むに堪えないだろう。

ただし、現実/小説とは何か?とか、現実を小説にするとは?みたいなややこしいフィクション論だったり、文字メディアだからこそできる斬新な叙述の技法といったものが結構好物な身からすれば、こんなに楽しい読書体験はない。

しかも、導入から中盤にかけては、短い断章でハイドリヒパートと作者パートが交錯する独特なスタイルで読者を困惑させる一方で、クライマックスのハイドリヒ襲撃シーンと教会での籠城戦シーンについては、抜群の臨場感を持って長い断章を駆け抜けるように叙述してみせる。クライマックスに向けて一気に読者を引き込む作者のスキルは小説家としてまさに一級品である。

とはいえ、作者は自らの人生を賭して調べ尽くした(ロラン・バルトを引用しながら、調査に終わりがないことを自嘲しているが)類人猿作戦の物語が、クライマックスの場面を書き上げることで終わってしまうことにジレンマも感じており、それまで明確に書き分けられていた1942年のチェコと作者が生きる現在の世界は次第に混在し、1942年のチェコの場に、いないはずの作者自身を見出すという幻想的な場面すら登場する。

そして、事実だけを積み重ねることを目指した物語は次第に現実の境が曖昧となり、最後の断章においてついに、”完全に作者の想像によって創られた、ガブチークとクビシュが船上で出会う前日譚”が書かれることによって結実する。

一見小説から遠ざかるようなスタイルを自らに課しつつ、最終的に小説でしか創りえない感動的な余韻をもたらす本作。久しぶりにガツンと強烈な長編小説を読んだような気がする。


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