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人魚歳時記 皐月 後半(5月16日~31日)

16日
用水路の脇に三輪車と小さな魚網が放置されていてドキリとした。
周囲には誰もいない。まさかと覗きこんだが、用水路に異変はない。
でも三輪車には子供の気配が濃厚に残っていて幽霊に遭った気がした。
きっと曇り空のせいだ。


17日
心が蕾に戻って、次の花になるのを待っている。

だから今は書くよりも、
「ふふん、ふふん」と、
何かを読んで過ごしていたい。

今日は暑すぎる。

夏みたいな日


18日
朝食後に外出。赤信号で停まっていると、隣の右折レーンに軽トラが滑り込む。荷台に大きな犬を乗せている。体は白く、優しい顔をしている。動物病院へフィラリア検査にでも行くのだろうか。

今日は良い一日になると思った。
しばらく走ると、緑に覆われる里山が見えてきた。


19日
トイレに入るたび、背後の小窓の外で、なんともいえない音がする。
猫だろうと思っていたけれど、必ず音がするので怖くなり、窓を開いて見てみると、成長したナナカマドが庇の柱に擦れる音だった。


毎年、名前を確かめる前に散る


20日
シソ科の花苗を植えた。
名前を忘れないように、苗と一緒にポットにさし込まれていたラベルを取っておいた。それを、つい栞にしたのがいけない。
どの本に挟んだのか解らなくなってしまった。
だから今も、あの白い花の名前を知らないまま。
乱読の癖も、そのまま。


21日
昨夜の雨で、畑のあちこちで麦が倒れ、緑の空間がえぐり取られている。
陽が差して、倒れた穂先が銀色に輝きだした。
緑の麦の海に、白波が立ったようで、しばし足を止めた――

今月初めのメモ。
麦は黄金色となって刈り取られ、今は畑から消えた。

麦は美しい


22日
近所の鍼灸院の先生は年配の女性で腕が良かった。
二十四節気の変わりは体調に注意と教わった。

二日前に「小満」。首が凝る。

彼女が亡くなった今、自分でお灸や置き鍼を貼る。
皮膚に指を滑らせツボを探っていると、自分の骨や肉を実感する。これもまた自然の一部と思う。


23日
苗代が並んでいる。田植えが始まる。
田に満ちた水に高い空、朝の雲、遠くの山、傍らの道を犬を連れて歩く私、たまの車、スクーターで様子を見に来た農夫をそっくり映して世界が双つ。

水すまし一匹が泳ぐと、さかしまの世界に波紋が生まれ、双生世界は消えていく。

水田の中の太陽

24日
スズメバチが体を二つ折りにして、道に落ちている。
思いきり括れたウエスト。膨らんだお腹は黄色と黒の鮮やかな縞模様。頭は流線形。
寸分の狂いもないシンメトリの体は、生き物でなく工業製品みたい……。

生きていると絶対に近づけないから、今は飽くまで眺めていよう。

25日
盛りを過ぎた花々を切り落とす。
足元の土の上、ふと見れば、小鳥の骸が転がる錯覚。
幾重にも重なる花弁は丸いお腹。目を閉じる頭を探しかける。
握ると指先を吸い込むような、夢の柔らかさに誘われて、ついつい力を込めていく。
隠した嗜虐の心を炙り出す、無垢な花。薔薇。


26日
今朝、長い尾をピンと立てて猫が歩いていた。

この町に住む前、高尾山の麓に住んでいた。大きな灰色の猫が、毎朝うちの三毛に会いに来た。
ある朝、二階の窓から、その猫が丘陵地帯の坂を幾つも超えて、急ぎ足でこちらに向かってくるのを見て、遠くから来てるなと驚いた。

薔薇ペルルドール



27日
朝、可燃ゴミを捨てに行かないといけないのに、
アメリカの臨床心理学者の言葉をポストしたりしていたら、外で音がした。
窓を開くと、 生温かい雨が降りだして、乾いていた土から、懐かしい匂いが立ち昇っていた。


28日
昨夜おそく、窓を閉めようとしたら、橙色の月が、輪郭をにじませて浮かんでいた。
闇が濃かった。
月の真下で、蛙の声がにぎやかだった。

月と電信柱と木

29日
愛犬のフィラリア予防薬を買いに動物病院へ。

先客はキャリーケースに入る丸っとした白猫。
「綺麗」と言うと、飼い主の老婆は嬉しそう。
ほどなくして巨漢の黒猫を連れた中年女性が来院。
「その子とうちの子でオセロゲームができますね」
と老婆は笑うも黒猫主は無言。

空が美しかった

30日
五月なのに気温二八度。昔なら真夏の気温。あの頃は、このぐらいで暑いと騒いでいたのか。
なら今夏の酷暑を思い悩む前に、今が夏と思おう。お気に入りのサンダルを履き潰すまで、砂浜や見知らぬ街を訪ね歩く夏の自由気ままさを、開け放った窓より入る風から今、感じ取ろう。


31日
昨日、一息入れようとアイスティーを作った。
机の前に座ったまま、暑くてウトウトし、ハッとしたらグラスの中で氷は溶けていた。

今日は雨降りで、肌寒い。
ふと気づくと、カップのお茶から湯気が消えている。
用事に留め置かれる私を待たず、季節と時間は行ってしまう。


5月の色


用水路


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