コーヒーと社会学②-偏った考え方‐

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コーヒーと社会学①に記したようにこのような順番で僕はコーヒーを淹れています。

だけども僕は、死豆・欠点豆を取り除かれることが胸が痛くてなりません...


おいしいコーヒー豆を淹れるのが、ドリッパーの仕事だとしたら、死豆・欠点豆を取り除くでしょう。スペシャリティを淹れるのであれば40%の豆を取り除くとも聞きました。それほど、選ばれし豆を使い、研究抜かれたスキルをもったドリッパーが淹れたコーヒーのことをスペシャリティと呼ばれ、価値の高い物になっているのです。

おいしいコーヒーを淹れることは容易ではなく、甘い世界ではないのです。


そんな厳しい世界と今の社会に重なっている自分がいます。

例えば、高校入試、大学入試。ごく一部の力である学力を数値化し、一定の基準を超えた者を選び出す入試が多いです。逆に言えば、選び出すのと同時に、一定の基準を下回った者は取り除かれる社会になっています。

試験は必要です。全員、希望通りの高校・大学に行けたら、大変な世の中になってしまうでしょう。平等に、学べるような仕組みが必要不可欠で、それが入試になっているのでしょう。

しかしすでに、平等ではないものもいるのです。

私は、3年間に脳の病気で学力をリセットされ、突然、引算も足し算も話すこともできなくなりました。それによって、大学入試はおろか、不登校になってしまいました。

どうしても、社会から取り除かれる者となってしまったのです。

それがつらくて、つらくて。


取り除かれるコーヒー豆と自分が重なってしまったのです。

そんな考え方は大きく偏っていると自分でも分かっているのですが、今だからこそ偏りもあっていいんじゃないんかなと感じて記しています。


なぜなら、過去の日本の社会は「スペシャリティなみのおいしいコーヒーを淹れよう」から

「どのようにしたら、すべての豆をおいしく淹れられるのか考え、挑戦しよう」になりつつあるからです。


今は僕でも個性を生かせる場所があります。そして、自分を生かせる場所を作れます。だから、取り除かれる僕でも自分次第と言えるでしょう。

確かに、平等に学べる社会ではありませんが、自分を好きな色に染めていけるような社会であると私は考えています。

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欠点豆などを僕に重ねて例える時点で良くないことかもしれません。

例えとして考えれていただけると嬉しいです。

僕の考え方は賛否あると思います。コーヒーが大好きな人もいるし、コーヒーが苦手な人もいるのと同じです。

ただ僕は、なんで苦手なのかヒアリングし、豆を変えたり、焙煎の仕方を変えたり、ドリップの仕方を変えたり、コーヒーにミルクやお砂糖を加えたりしたいなと思っています。

そうやって、スペシャルティを淹れれるようになりたいなと思っています。


それが、僕の仕事かなと思っています。


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