珈琲
半年と少し前。
突然やってきたその人は背が高く、アメフトでもやってたのかってくらいに体つきが良い。
俺を見つけるや否や、「あ、お前さ、名前なんて言うの?」と俺を見下すように話しかけてくる。馴れ馴れしく、そして高圧的な彼の勢いに押し負けてしまい、ただでさえ背が低いのにさらに縮こまってしまった。名前を教えると、
「〇〇って言うんやな、俺の名前はN。よろしく。」
とだけ言ってその場からすーっと離れていく。
巨大な嵐かと思われるほど、短時間で大きな爪痕を残していった。
ほかの社員から話を聞いてみれば、どうやらNさんは本部からの応援で俺のバイト先に配属されたようで、しばらくここで働くようだ。しかも過去に色々起こしているようだ。若干名の社員からは嫌われているようである。
「あんな人に怒られたらひとたまりもないだろう」とだけ認識して、いつも以上にひたむきに業務に取り組む。時間を忘れて仕事を探す。
そうこうしていると、Nさんがやってきて一言、
「お前仕事できるなぁ、ちょっとついてこい」
と言う。もちろん断りはしない。これを断るとどうなるのかと一瞬興味が湧いたが、それを実行する勇気と度胸は体のどこを探しても永遠に見つからないのである。
連れていかれたのは外に設営されたテント。そこにはずらっと商品が並び、店舗の外から広告の品や一部の商品を手に取ることができる。これまでに店の外の商品メンテナンスは何度もやっている。基本的な仕事は全てこなせる自信がある。だが、正直この人に連れ出されたことにより自信は失われ、どんな無茶振りが飛んでくるのかわからないという恐怖に苛まれていた。肩に力が入る。深呼吸でもしてやろうかと思ったその時。
「これ組んでみ。綺麗に見えるように。」
目線の先には段ボール山積みの長台車と空のワゴンが。そこにイチから陳列してみろって話らしい。
ミスったら今後仕事頼まれなくなるかもしれない、と思いながら自分の思い描くように売り場を組む。箱の大きさ、商品の大きさ、土台の組み方。全神経を注いで作り上げた売り場は、今までにないほど整然として見えた。「できました。」と伝え、確認してもらった時、少し間をあけてニヤッとするNさん。
「やるじゃーん?いいね。」と、目を見て言う。一気に肩の力が抜ける。合格らしい。
また次も任せるかもしれんから頼むわ、とだけ言い残してNさんは帰っていった。
いつもより気を張っていて疲れたせいか、残りの営業時間は殆ど記憶がない。いつの間にか閉店作業を終え、タイムカードを切った。退勤時刻記入表を書き切って見直した表には、当時新品で購入したはずのボールペンが1日にしてかすれてインクの出ない中古品と化したように思えるほど弱々しい字が記録されたのだった。
その次にNさんと会ったのは1週間後だった。
その日も相変わらず偉そうな口調で指示を出す。
いつ自分に仕事が回ってくるのか、と落ち着かないまま時間だけが過ぎていった。品出しを終えて長台車を片付けようとバックヤードを歩いていると、楽しそうな声。Nさんと社員数名が立ち話をしている。お疲れ様です、と口にしてそのまま横を通過してやろうと思っていると、通路を塞ぐようにして台車の前に立ちはだかるNさん。「通れないんですけど〜笑」とにこやかに言ってみると
「わざとや〜、おつかれさん。」と言い、道をあけた。職場で会ったのはその日で4日目なのだが、そのうち4日とも威勢よく仕事を割り振り、高圧的に指示を飛ばしてくるNさんから唐突に送られた労いの言葉に、驚きのあまり言葉を失う。「あざっす。、」と小声で返事をしたが、これがよろしくなかったかもしれないと心配になりながらその日の業務を終えたことを覚えている。
それから数日経ったある日のこと、なぜかNさんと仕事の話をすることになった。Nさんがこの業界に足を踏み入れた理由や、仕事をするにあたっての心構え。
「この仕事は『いかにお客さんが安く商品を手に取ることができるか』にかかってるし、そのためにも適切な値付けと整然とした陳列が必要。お客さんが喜ぶような仕事しなきゃダメなのよ、俺らって。」
見た目からは想像できない仕事への向きあい方。
ある人は「高圧的で偉そうだ」と一見しての印象を持ち続けるのだろうが、いざ腹を割ればわかるその真面目さに感銘を受けた。
若干の拒絶心の表れにより形成された心の壁はボロボロと壊れて行く音がした。
仕事を通じ、少しずつNさんの考えていることや視野の持ち方を掴んで自分なりに実践するようになった頃、世間は年末年始の準備に突入していた。
年末はとても忙しい。なるべく買い物を早く済ませたいであろうお客もカートを押しながらではすいすい歩けない程に混み合う通路。それに気づかない子連れの家族……。大型連休の高速道路の渋滞と同等であると言っても過言ではないほどの人口密度。
そんな中、スタッフである我々は商品陳列を行わなければならない。バックヤードに溜まる荷物を持ち出して売り場に並べてはまた荷物を取りに戻る。ただひたすらこの作業の繰り返し。多くのお客で賑わう店内で、人と人のわずかな隙間をぬって品出しをすることに嫌気がさしていた頃、Nさんがやってきた。
「こっちきて」
と一言。「どうせデカい仕事渡してくるんだろうなぁ、やってやるかぁ。」とやる気がみなぎる。今思えばこのあたりから、「怒られないように仕事をする」のではなく「認められたくて仕事をする」という思考回路に切り替わっていたのかもしれない。
遠くに山積みの台車が見える。「アレやれって言いたいのね。」と勝手に見切っていたのだが、そこに到達する前に部屋に入っていく。休憩室だ。
何やら自販機を操作して飲み物を買っている。俺を呼んでついて来させておきながら、時々自分の飲み物を買うために休憩室に寄っていた。しかしいつもと様子がおかしい。自販機に入れた小銭の枚数が少ない。
珍しいと思いつつ待っていると、こちらを振り返って「ほい。」と呟く。手には缶珈琲。
「一瞬でいいから肩の力抜け、休みつつやれよ」
とだけ言い残して休憩室を出て行った。
わざわざ俺を休めるために珈琲を買ってくれたのだ。
今までになかった優しさを見せてくれたNさん。俺が珈琲を飲み終わる頃には自分の仕事を終わらせて帰った後だった。お礼がきちんと言えなかったことをこれほど悔やんだことはない。
無事年末年始の多忙なシーズンを終え、いつもの落ち着きを取り戻しつつあった頃、また売り場の設営を頼まれた。実は設営と言ってもただ組み上げるだけではなく、隣の商品の陳列方法も変えるという難易度の高い仕事を受けた。Nさん曰く、「お前は多分言わんでも綺麗にできるからやってみ」とまた丸投げ。
いつも以上にやる気がみなぎる。見栄えを重視して土台を組み、商品を並べていく。夢中で作業している間に売り場が完成し、Nさんに報告に行こうとすると、
「お前やっぱすげぇなぁ。」
そこにNさんがいた。どうやら少し前から見ていたらしい。
素直に嬉しくて、ありがとうございます、と言いながらもゴミを回収しバックヤードへ。片付けが終わると同時にNさんが口を開く。
「俺本当は人のことあんまり褒めないんだよね。すごいって思ったアルバイトなんてお前含めて3人だわ」
と言ってくれた。完全に仕事を任せてくれるのは、俺のことを認めてくれているからだと本人の言葉で認識できたのはこの時が初めてだった。ここまでに何度か売り場の設営を任されていたのだが、その度に「さすがやな」と認めてくれている旨の発言をしてくれていたため褒められたのは今回が初めてではない。しかしながら、ほとんど人を褒めないということはこの時初めて知り、衝撃を受けた。
このあと、また缶珈琲を買ってくれた。
Nさんも俺に買ったのとは違う珈琲を飲んでいた。
お互い珈琲を飲みながら、仕事について気が済むまで話し合った。
この日は雲ひとつない晴れだった記憶がある。
しばらく月日が過ぎていった頃、Nさんが本部を外れ、店舗管理部に降格になるであろうことを本人の口から聞いた。Nさん自身が望んでの降格らしい。それに伴って、俺のバイト先から異動になる可能性が浮上した。Nさんがこの店に配属になってから売り上げがかなり伸びていたため、店長が裏で異動にならないように引き留めるのに必死だったようだ。
いつ異動になってもいいように、と色々な仕事を俺に教えてくれた。プライスカードの作り方、値段の変更方法など、発注以外ならほとんど何でもできるようになった。
そのおかげで割り振られる仕事のレパートリーが増え、仕事を持たない時間が存在しなくなるほど忙しくなると同時に働くことの楽しさを知った。
「これでいつ俺がいなくなっても大丈夫だろ」
と冗談混じりの笑顔で笑うNさんとは反対に、Nさんと働けなくなることに寂しさを感じ、愛想笑いでしか対応できない自分がいることに気づいた。
しかもその時は突然訪れる。異動命令が下り、この店舗では月末までの勤務であるとの知らせを聞いたのは異動まで残り1週間ほどしか残されていない頃だった。
この店での勤務最終日を聞いたところたまたま祝日だったので、公休だったシフトを無理やり変えてもらい、出勤することにした。自分の休みを削ってでも、最後の最後まで仕事を一緒にしたいという気持ちだけは揺るがなかった。
一緒に仕事ができる最後の日。
この日は昼過ぎから雨が降っていた。
少し早めに出勤してまずは社員さんに挨拶回り。そのあとNさんのいるところへ行き、「今日もよろしくお願いします!!」といつも通りの挨拶。
「最後だからな、よろしく頼むわ!」
といつもより声を張るNさん。この時点で少し胸がきゅっと締め付けられた感覚がした。
いつもよりたくさんの仕事を頼まれる。売り場の設営に関して意見を求められるタイミングも増える。
仕事を終えるたびに「最高だな」とか「だよな」とかひたすらに褒められる。Nさんも最後の出勤日であることを意識していたのかもしれない。
仕事がひと段落した後、休憩室に連れていかれ、また缶珈琲を買ってくれた。
珈琲を飲む俺を横目にNさんが呟く。
「これも最後かぁ」
1番聞きたくなかった言葉かもしれない。「最後」と思いたくない自分が飛び出してきそうになるのを必死に抑えた。涙が滲みそうになるのを堪えた。
「またここに帰ってくればいいじゃないですか笑」
と言ったものの、泣きそうになっているのがバレたくなくて、下を向いたままでいた。
いつになるのやら、と笑い飛ばしながら最後の挨拶回りに向かうNさん。俺は無意識にその後ろを着いて回っていた。
一通り挨拶回りが済んだと思えば、Nさんの周りに社員が集まって談笑を始める。もちろんバイトの分際でその輪に混ざれるはずもなく。取り残された自分はここでふと思い立ち、ロッカーから財布を取りだした。お目当てのものを買い、ロッカーに財布をしまおうとするとNさんがやってきて、
「ありがとね!!」
と言う。完全に帰ろうとする流れだ。それを引き留めるように、俺は手に握っていたものを渡す。それは2人で缶珈琲を飲んで話をしていた時にNさんが飲んでいたものと同じ缶珈琲。
Nさんにとっては些細なものかもしれないが、俺にとっては大切なもの。珈琲のおかげで学べたものが多すぎたのだ。餞別にしては安すぎる。けれど2人にしか分からない価値が、たった1缶に珈琲として詰まっている。
帰る間際に30分以上の立ち話。これまでのこと。これからのこと。もちろん手には缶珈琲。この時間は正真正銘最後なのだ。涙がこぼれそうになるのをぐっと抑えては目を合わせて話す。また涙がこぼれそうになる。
ひとしきり話した後、Nさんはタバコを吸うらしく、ここまでかな、と悟った俺は「帰りますね、」と呟いて駐車場に向かって歩こうとする。
「そうやな、そろそろやな。ありがとうな。」
と手を振ってくれた。
絶対に泣かないと決めていた俺は、本当にありがとうございました、と伝えてすこし離れ、ステージ発表を終えたアーティストのように両手を振りかえし、深々と腰からお辞儀をする。起き上がると同時に後ろを向いて歩きながら、時々振り返ってNさんの方をみて手を振りかえす。さまざまな記憶が頭を駆け巡り、名残惜しさをさらに引き立てる。
ここで堰が切れた。
これ以降後ろを振り返ることなく天を見上げ、心なしか強く降っている雨に打たれながら車へと歩く。
いつもにしては温かく、しょっぱい雨。
もはやそれが雨なのかはわからない。知りたくもなかった。
ただ、顔にぶつかるどんなものよりも大きな雫が頬を伝う感覚だけはわかった。
仕事をするだけでは知り得なかったことも、缶珈琲の存在が作り出した刹那によって心に刻まれる。
一切の甘みなく、ただ苦いはずのその珈琲は、今では心なしか甘みを帯びたように思えるのだ。
終
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