万葉集 第1巻 3-4

やすみしし 我が大君の 朝には取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし 
み執らしの 梓の弓の 中弭の音すなり 
朝猟に 今立たすらし 夕猟に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 中弭の音すなり

返歌
たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野

この歌で、実際に知覚されたのは「中弭の音」だけなんですよね。
ほかはその音から想起された脳内風景。

「陛下が弓をはじいておられる 狩りにお出でになるのかな」
「野原に馬を並べて深い草を踏みながら進んでいかれるんだろう」
その音から共通に想起されるイメージや体験を持っている人たち同士の歌。

「びょん、びょん(想像)」と聞こえてくる音だけから、
・その弓が日常で陛下からどう扱われている弓で
・今その弓の弦をはじく音が鳴るということが何を表していて
・(それから少し時間がたった)今何が起きているか
を想像する。

弓をはじく、というのが、「狩りに出るぞ」という意思表示なのか、狩りに出る前の弓の調整の音なのか。
いずれにしてもそれを聞いて「お、今日は狩りか」と思う。
それに対し「今頃は野原で馬を進めておいでだろう」と返す。

きっかけは弓をはじく音。あとはすべて想像の世界。
けれど、きっと、情景が生き生きと目に浮かぶのだろう。

弓を表現するのに、日ごろの持ち主との関係を通して性格付けするのは詩的。
馬を進めることを、踏まれる草で表現するのも詩的。

朝夕が同時にいれられているのは、書籍化にあたっての編集か。
あるいは、生々しい目の前の現実から概念への緩やかな変化が表れているのかもしれない。

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