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肯定的救いと否定的救い

昨日、"救い"には肯定的なものと否定的なものとがあるなーと思ったので、今回はそれを文章にしていけたらなーと思います。

前々から以下のものには共通した良さがあるなぁと思っていたんですよねー

・ヨルシカ(アーティスト)
・朝井リョウ(小説家)
・JOKER(映画)
・パラサイト(映画)
・秒速5センチメートル(アニメ映画)
・聲の形(漫画、アニメ映画)
・リズと青い鳥(小説原作のアニメ映画)
・青のフラッグ(漫画)
・私の少年(漫画)
・先生の白い嘘(漫画)
・卯月コウ(バーチャルYouTuber)
・兄ぽこ(バーチャルYouTuber)

完全にぼくの趣味なので、偏ってる感が否めないですが、なんかこう伝わりませんかねぇ?(雑)

なんかこう似たようなものを感じるというか、自分の中の同じ琴線に触れてるというかねぇ。

まず、ぜーんぶ暗いっすね。

それがいい。

でもただ、暗ければいいというわけじゃない。

その暗さの中に、どこか刺さるものがある。

そしてそれは、
直視したくないものであるけれど、
心の中にしまっておきたいものであるけれど、
見て見ぬ振りをしたいものであるけれど、
それを露わにされて、どこかスカッとするような、赦されたような、救われたような、

そんな感じがするわけです。

この共通点をずっと言語化できないままでいました。

それが昨日、たまたま"肯定的救い""否定的救い"という言葉でうまく表現できたように思うんです。

昨日ぼくが思いついた言葉なので、なんとなくふんわりニュアンスをお届けしますねー

肯定的救いというのは以下のようなイメージです。

・あなたは生きてていいんだよ
・明るく
・元気
・前向き
・ポジティブ
・笑顔
・自己肯定感
・自分らしく
・つらいときもあるけど、きっとこれからよくなるよ
・夢は叶うんだ
・努力は必ず身を結ぶ
・神様仏様はきっと見てくれてるさ

みたいななんとなくそんなイメージです。

陰陽なら、陽といった感じ。

自分を肯定されることによっての救いが"肯定的救い"です。

対して、"否定的救い"というのは、すでに記したように、どこか暗い雰囲気なんだけど、そこに刺さるものがあり、それによってどこか救われたような気がする。

そんなイメージです。

陰陽なら陰といった感じ。

自分には、人間には、社会には、こういった嫌なところ、ダメなところがあるよねと、まざまざと見せつけられ、否定されることによる救い。

どちらにも救われるんですが、現在、否定的救いが求められている気がするんですよね。

否定的救いがある暗い作品がヒットしてるしね。

なんか偉そうに分析してるぼくも、否定的救いによって救われています。

どちらがいいとか悪いとかそういう話ではないんですが、その人の状況や性質によって合う合わないがあると思うんですよ。

そしてどうやら、現在は否定的救いを求めている人が多そうだぞと。

本来、救いというのは肯定的なものなんじゃないかなと思うんです。

自己の存在を外部から肯定される。

それが救いの王道な気がします。

家族、友だち、恋人、同僚、知人、神、仏、哲学者、思想家、小説、ドラマ、映画、曲、漫画、アニメ、ゲームなどなど、自分の存在を肯定してくれるものに多くの人が救われています。

これは容易に想像できるし、ほとんどの人は身に覚えがあると思います。

ただ、そのような肯定的救いでは、救われないものがたしかにある。

それを救ってくれるのが、否定的救いであり、現在求められているのかなぁと。

肯定的救いに含まれる優しさや明るさにどこか嘘っぽさを感じたり、肯定的救いが語る世界と現実世界の乖離だったり、否定的救いが求められている要因は実に様々だと思います。

ただ、事実として、否定的救いを求めている人は世の中に少なからずいて、ぼくもその一人なわけです。

では、肯定的救いに対して、否定的救いはどういったものなのか、もう少し考えてみたいと思います。

肯定的救いは自分の存在を肯定してくれます。

しかし、自分の中にあるいは人間や社会の中には、必ず嫌なところ、ダメなところがあるわけです。

肯定的救いは、そんなマイナスな嫌なところをもまとめて肯定してくれるようなイメージがするんですよね。

そこにどこか嘘っぽさを感じてしまう。

対して否定的救いは、そんなマイナスな嫌なところを、真正面から否定してくれる。

自分では言語化できていなかったものや、認識すらしていなかったものまで、ものすごい解像度で否定してくる。

そりゃあもう真正面からハンマーをフルスイングされたように。

こんなことは、肯定的救いでは絶対にしてくれないし、関係が近ければ近いほどやりにくいものだと思います。

それを否定的救いがあるコンテンツは、嫌な役回りを受け持つダークヒーローのように、のうのうとやってのける。

嫌なところ、ダメなところを、プラスにまとめるように肯定するのではなく、マイナスをそのままマイナスとして否定し、叩きつけ、断罪する。

それに人は、ぼくは、救われているんだなって。

完璧な人なんていないわけで、みんなどこか自分の嫌なところはあるはず。

たまに耳にする「自己肯定感」や「自分らしさ」という言葉。

もちろん自己を肯定してあげるのは大事かもしれないけど、否定されるべき部分もあるはず。

たぶん、みんな無意識にそう思っていて、どこか自分のそんな否定されるべき部分を、誰かに、何かに、思いっきり裁いて、殴って、叩いて、刺されて、斬られて、否定されたいと思ってるんじゃないかなぁ。

それをやってくれるのが、"否定的な救い"な気がします。

自分の中の悪者を退治してくれたような。
その悪者が退治されたときに、カタルシスを感じて救われるみたいな。

自分を否定されているのに、逆説的に救われてしまうというのがおもしろいですよね。

傷付けられたいドMというわけではないんですよ。

誰も新しい傷なんてつけられたくない。

そうではなくて、すでにあった古傷を、もう忘れて無かったことにしたかった古傷を、でもたまに痛む古傷を、荒療治で完治に向かわせるみたいな。

それが、否定的救いによる救いなのかなって。

昨日たまたま言語化できたことを、文章に残しておきたいなーと思い、長々とここまで書いてきましたが、大体そんな感じっす!

ぼくなんかが考えつくことは、きっと過去に誰かも考えてると思うんで、似たようなことがこんな本で書いてたよーとかあったら教えてください!

あ、最初に並べた否定的救いのあるコンテンツは、マジで全部おすすめだし、実際ぼくが救われてきたものなので、興味あったらぜひ!

はい!じゃあ今日はそんな感じで!

おわり!

読んでいただきありがとうございます! ところで、カナダのブリティッシュコロンビア大学の研究によると、人のためにお金を使うと、自分の幸福度が高まるそうですよ(乞食)