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7-02「リズム」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回はRen Homma「鳴らない音」でした。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】

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観客との接触は、何よりもまずリズムによってなされるべきです。そう確信しています。ショットやシークエンスの構成においては、まずリズムが問題となるのです。
ロベール・ブレッソン

構図は鑑賞者にとってはリズムであり肌で直感的に感じ取られるものである。「巧みな構図」 などという感想は鑑賞者が鑑賞者であることを飛び出して制作者の位置から作品を分析的 に見たときに初めてうまれるものである。この構図にはどのようなねらいがあるのか?な ぜこのような構図にしたのか?私ならどうするのか?
モランディの作品を 1 枚のみならず 10 枚並べて見るならばそこに構図への意志を見てとる ができる。それは「瓶がある」という単なる事実ではなく、「いかにして瓶があるのか」を 見ているモランディの意志を私に伝える。モランディの作品の得も言えない小ささによっ て瓶を存在させている構図の力が木霊して見るほどに益々強まっていくようである。構図 の力無くしてモランディはなく、これこそがこの画家の本体だと思える。 小津安二郎の映画における巧みな構図が何を生んでいるのかはよくわからない。小津映画 のなかに生きる人々の姿を見ずに構図を見るというのは無理があると言わなければいけな い。実際、小津映画には構図に注目しなければいけないほど退屈な時間はなく、構図などを 見ていては映画を見逃してしまう。映画は止まってはくれないのだから。しかし映画館では なく 1 人で 15 インチのモニターで小津映画を止めてみるならば自分が気にしなかったこと が信じられないほど徹底して作られた構図がそこにあることに驚く。
絵は見えているものを明らかにするものであり、映画は見えていないものを明らかにする ものである。絵は画像の現れ方、「どのように見えているのか」という問いを1枚の絵で、 絵の言語をもって作り上げる。それは過ぎ去る時間の中で歩みを止めて 1 つのものの驚く べき姿を発見することである。画家は唯 1 つの画像の現れ方に驚き苦悩し細かく多くのも のを見出す。絵においては細部と全体が鑑賞者の視界内で同時に見えてくる。細部同士の関 係は 1 つの画面上のあらゆる場所で起こっている。それは全体と常に関係しており、また 更なる細部へと還っていくことを鑑賞者の目の力の少しの加減でどこまでも繰り返すこと ができる。目の前の絵の中に画家が彼の感覚を彼の知性によって結晶化させた無限に小さ いものと無限に大きいものの終わらない関係をいつまでも新たに発見する。その度に自分 が見ている絵が生きた驚きを持って姿を新しく明らかにする。映画は画像の現れよりも画 像の消失と関係している。いくつもの画像の消失が私の心に映画を構築させる。映画の構図 は忘れ去られることを運命付けられており、その中で心の中になにかがかろうじて残る。画 像の消失が 1 つまた 1 つと積み重なっていきそれが 1 つの建物をつくりあげる。映画が終 わる頃にこの建物は姿を現す。

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