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5-09「ショット」

連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回は葉思堯「思春期」でした。

5巡目は「前回の本文中の一文を冒頭の一文にする」というルールで描いています。

【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center

【前回までの杣道】




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普通の中学生が持てる世界の広さの境界にある空間だった。今の私の世界はあの頃と比べて広くなったのか?いつもより遠くまでカメラと三脚を担いで橋を目指す。 三脚を立ててカメラを置いてみる。試しに少し高さを上げて少し見下げ少し右に振ってみる。 少しずつ全てが変わっていく。気付かないうちに知らないものが画面の端に映り込んでいて驚く。




運河を渡る。そうか、ここにいるとモノレールの走る音と船の走る音がそれぞれのリズムで聞こえてくる。船が通り過ぎると大きい船ではないのに大きい船が通った時のように波が岸に打ち寄せる。 意外と船の起す波というものは大きい。カメラを覗く私を横目で見ながら何人かが自転車で背後を通り過ぎる音がする。白い車が一台隣の橋を走りぬけていく。それぞれのリズムがこの時間を作り上げていく。場を構成する土地の歴史、ものの歴史、ことの歴史、私の歴史、あの人の歴史。




運河に沿って歩いて行く。ふとジャック・タチの映画を思い返す。「ぼくの伯父さんの休暇」の奇妙さはなんなのか。もし「ぼくの伯父さんの休暇」にユロおじさんが出てこなかったなら映画の中のたくさんの登場人物たちは関わることがない。彼らは皆あのビーチでそれぞれのバカンスを満喫していたはずだ。いや、ユロおじさんがいてもあの登場人物たちは初めから終わりまで皆赤の他人だ。彼らは慌ただしく汽車と車を乗り継いで群れでやってくるのだが他の旅行者など見えていないかのように自分だけの世界を生きている。あのビーチへバカンスに来た一人の人生を一本の線のようなものだとすると、あそこには大量の線が走っている。しかしそれらは不自然に交点を持たない。これがバカンスの特徴かもしれない。そこへユロおじさんという事件が壊れかけのマイカーの轟音と共にやってくると無関係なものの間にあまりにも強引に関係が取り結ばれていく。ユロおじさんは交わることのなかった線達を縦横無尽に串刺しにしていく。そのせいで衝突事故が起こるのだがその時にはもうユロおじさんは次の事故現場をも立ち去ろうとしているスピードだ。ユロおじさんがいるところでは線と線が絡まりもつれグチャグチャになる。そしてもう一つ、カメラによっても関係が取り結ばれる。この場合線と線は同じ空間のなかで依然交わってはいない。しかしこの空間の中にカメラが置かれるとその位置からカメラの秩序によって空間が平面に変換される。空間上交わっていなかった線が平面上で重なり始める。一つはユロおじさんの紳士的な行いによって線と線は出会い絡まり、もう一つはカメラによって線と線は平面上重ねられる。しかしこの絡まりや重なりが中心的な価値を持つことはなくその時にはもうすでにユロおじさんはその場から消えてしまっている。あのビーチに走る大量の線をカメラは映すがそれらを統一する大きな世界は無いままでただ大量の小さな世界だけがある。



常にたくさんの歴史が隣り合って走っている。ブリューゲルの「子供の遊戯」のあの大地。バルテュスはブリューゲルを東洋的な空間を持つ画家だと言ったがたしかに西洋的ではない。あまりに上に押し上げられた地平線は奥の一点へと消失するという感覚を消滅させる。超俯瞰された大地では統一のための原理を失った子供達が狂ったように遊んでいる。そこには子供の数だけの世界がある。これもまた遊戯の特徴かもしれない。ちょうど「ぼくの伯父さんの休暇」のビーチのように彼らは自分だけの世界を生きている。「子供の遊戯」の大地をユロおじさんが横切っていくようだ。あるいはカメラが。
それぞれが違うリズムを持っている。人によっても違うし、人とものでも違う。朝昼夜というリズムもあるし一日も、四季も一年もある。私が歩くスピードと船が走るスピードと運河が流れるスピードと地球の自転のスピードと公転のスピード。 それらは同時に、個別に走っている。カメラを置くとその位置からたくさんの小世界が平面化され重なるはずのなかったものが重なり、関係は生まれ始める。

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