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無意味なものと不気味なもの 春日武彦

春日さんは精神科医である。だが、フロイトとは全く違う立ち位置にいる。例えば患者が夢の話を熱心にしても、その内容については、とりとめのないことと、全く取り合わない。それより、なぜそれほど熱心に夢の話をしたがるのかに関心を寄せる。

さて、本書であるが、春日さんが読んだ忘れ難い小説の紹介がしてある。その前後には春日さんのエッセイが置かれてる。目次にはラヴクラフトから藤枝静男まで、まるで一貫性のない小説が並んでいる。しかし、実は一貫性はある。

語られる小説はどれも無意味もの、不気味なものを含むのだ。

春日さんが好む小説の述懐がある。片方の極には「教訓・主張」「共感・親近感」といった作者の「言いたいこと」「分かってもらいたいこと」がある。そして、片方の極には、小説の作者さえもわからない(当然、読者にはわからない)「不可解・無意味・不気味」なことがある。春日さんが好む小説は、この二つの極を結ぶ線上にあるという。

普通、私たちが言う小説のテーマは前者に当たる。小説を書く者は、どうすれば読者に自分の思いが届き、どうすれば共感を勝ち取ることができるか頭を捻る。だが、春日さんが小説に求めるものは、それだけではない。前後に語られるエッセイの中で、春日さんは、自分の身の周りにあった、自分が体験した、不可解なこと、無意味なこと、不気味なことを語る。それが紹介される小説と結びつく。確かに、私たちの周りはそれらのもので満ち満ちている。気が付かないだけだ。注意しないので、放っておいて忘れてしまうだけなのだ。

小説を書くということは(読むということは)、世界のそうしたことをも語る(読み取る)ことかもしれない。

村上春樹が、小説の辻褄は全部合わなくてもいいとか、伏線を全て回収しなくてもいいと書いているのを読んだことがある。もしかしたら、村上春樹は、このことを言っているのかもしれない。
だって、世界は、ほんとに、不可解なもの、無意味なもの、不気味なものに溢れているのだから。
(「無意味なものと不気味なもの」春日武彦 文藝春秋 2007)


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