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【短編小説】ブルーライト・ヨコハマ

「いしだあゆみ」が歌う「ブルーライト・ヨコハマ」が大ヒットしていた。保育園児の僕も大声で歌った。歌詞の意味なんかどうでもよかった。爺さんも婆さんも子供も大人も皆が歌った。歌とはそういうものだった。
 僕は港でよくこの歌を歌った。時間つぶしに。何回何回も歌って、時間が経つのを兄と待った。
 母が男を家に引き入れて、それからお小遣いを兄に渡して、自分の腕時計を僕に渡す。
「二時間したら帰っておいで」
母はそう言った。
 兄は僕を駄菓子屋に連れて行き、氷を食わせて、町をうろつき、溶接所で火花をながめ、子犬を追いかけ、そうしてどこにも行くところがなくなると、決まって最後は港に行った。
 漁船が何艘も泊まっていて、磯臭い臭いがした。フナムシが幾匹も恐ろしく早足で身を隠す。ふじつぼだらけの堤防に座って、兄は「ブルーライト・ヨコハマ歌え」と僕に命令した。たぶん兄は音痴で、いつもそうして僕だけに歌わせた。歌は嫌いではないし、もう他にすることもないので、夕焼けを二人で見ながら、僕は大声で歌った。
「ヨコハマって遠いんかなあ」
聞きながら、波を見ながら兄が言った。
「ヨコハマ、どこにあるんかな」
兄は、ずっと波を見ていた。
 堤防の向こう側の外海からは、何回も何回も波が打ち寄せてくる。時間をつぶすには、港が一番よかった。波はずうと見ても飽きることはなかったから。同じに見えても、ひとつひとつの波は違っていたし。遠くの波をひとつ決めて、それがこちらの打ち寄せてくるのを、ずっと目で追った。波が堤防にぶつかると、しぶきがかすかに顔にかかった。
「今、何時か」
兄が言う。歌い終わると必ず訊いた。
「ごじ、じゅうさんぷん」
 十二分なのに十三分と言った。言ってしまったら、次に聞かれたとき、また少し嘘をつかないといけないと思った。帰っていい時間まで、まだ三十分以上もあった。
 遠くの島は、背後からの夕焼けに照らされて、もう真っ暗になっていた。暗い島々を眺めながら、僕はまた「ブルーライト、ヨコハマ」を歌った。歌っている間は、兄から時間を聞かれることはないので、続けて二回も三回も歌った。兄は聞きながら、ずっと足をぶらぶらさせていた。
「吉岡んとこのボクらか」
言われて僕は歌うのをやめた。土地の漁師に声をかけられたのだ。
「家には帰れんのか」
兄は前を向いて男を無視していた。僕は「あと二十分したら帰れるんじゃ」と言った。
「ほうか」と男は言った。「これをやろう。焼いて食え」
僕は男を見た。初めて見る男だった。爺さんだった。それで、ほっとした。兄が大人の男の顔を見ないのは、それが見知った顔であるのが嫌だったからだ。兄と僕が家を出されるとき、所在なさげに家の前に立っている男に外で会うのが嫌だったからだ。
 爺さんは知らない顔だったが、母の「仕事」は知っているのだろう。だから、僕たちに魚を恵んでくれるのだろう。そんなことは、これまでも幾度もあった。
 兄は受け取らなかった。僕が受け取ると、それをたたき落とした。爺さんは何も言わなかった。動きもしなかった。僕は袋を拾った。今度は兄は何もしなかった。たとえ外で受け取らなかったとしても、家に帰れば、しばしば今日の男が持ってきた魚が食卓にのぼる。もちろん兄もそのことはわかっている。
 そうした魚を兄は絶対に残さなかった。腹が減っていなくても、敵かたきのようにそれを食い、骨までしゃぶった。僕たちが外で魚をもらわなくても、男たちの魚は家に入り込み、それを食わなければ僕たちは飢え、食わなければ母を心配させる。だから兄は敵のように魚を食った。
「大事にせいよ」
爺さんはそう言って立ち去った。爺さんは誰を大事にしろというのだろう。母か。僕たちか。魚なのか。
 六時を過ぎて、僕らは港を離れた。もう灯りの点いた家の前は二人で小走りで、街灯のない暗い道もやっぱり小走りで、もう済んでいればいい、と思って駆け続けた。
 灯りの点いた家の前で、息を殺して中をを伺う。小さな音に耳をすまして、もう終わったのか確かめたかった。水を流す音が聞こえる。何かを洗う音がする。そして不意にカレーの香りがした。鍋のふたでもとったのか、そのにおいは不意にやってきた。においを嗅いで、すっかり腹が減ってることに気がついた。カレーは芋の天ぷらの次に好きなメニューだった。
「母ちゃんのカレーが一番うまいや」
ささやくように言った兄の言葉に異論はなかった。芋の天ぷらよりカレーがうまいことにしてもいいと思った。
 玄関の戸を開けようとして、兄に手を掴まれた。持っていた魚の袋がガサリっと鳴った。抗議の声をあげようとして、ああ、と思った。
 鼻歌で母が「ブルーライト・ヨコハマ」を歌っている。僕らにカレーを食べさせることが嬉しくて、母は歌っている。そう思いたいと思った。
 母が歌いきるまで、暗い玄関先で。僕らは黙って立っていた。
              了

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