雑記(三四)

 村上春樹がラジオ番組のなかで、首相の菅義偉に言及したという。日本経済新聞によると、新型コロナウィルスの感染状況に対する菅の発言に触れて、次のように言った。「僕はね、同い年だけど出口なんて全然、見えていません。この人聞く耳はあまり持たないみたいだけど目だけはいいのかも」。

 菅義偉、一九四八年十二月生まれ。村上春樹、一九四九年一月生まれ。村上の発言の時点で、ともに七十二歳。年齢の一致など、もちろんたいした意味はない。ただ、村上が菅を、そんなふうに見ていたのかと思うと面白い。文学者と政治家の間の、微妙な距離が面白いのであろうか。

 敗戦時に首相であった鈴木貫太郎は、一八六七年に生まれて一九四八年に没した。作家の幸田露伴は一八六七年に生まれて一九四七年に没していて、二人の生涯の時間は、ほとんどぴったり重なる。日本近代史に伏流する、興味深い対照である。その幸田が死んだ年に、菅が生まれた。まもなく村上も誕生する。

 村上が菅と同い年ということは、作家の佐藤泰志と菅も、同い年ということではないか。福間健二の『佐藤泰志 そこに彼はいた』(河出書房新社)の「佐藤泰志略年譜」によると、佐藤が生まれたのは一九四九年。「四月二十六日、北海道函館市高砂町(現若松町)に佐藤省三・幸子の長男として生まれる」とある。そして一九九〇年の項に、「十月十日の朝、自宅近くの植木畑で死体となって発見される」とある。やはり佐藤も、生きていれば七十二歳だ。

 村上春樹と佐藤泰志の関係については、佐藤の『移動動物園』(小学館文庫)の岡崎武志による「解説」が簡潔にまとめている。「二人は一九四九年生まれの同い年という以上に、機縁がある。佐藤は函館、村上は神戸と、背後に山が迫る港町で青春時代を送った。高校はいずれもその斜面にあった。浪人時代を経て、北から、西からの上京者であり、どちらも国分寺で同時期に暮らしていた。文壇デビューも佐藤が二十八、村上が三十と、ともに遅い。大学在学中に結婚相手を見つけ、一緒に住み始めたのが同じ一九七一年。アメリカ文学の影響を受け、ジャズが好きだったのも同じなら、佐藤夫人の喜美子さんは国分寺の「モダン」、村上夫人の陽子さんは神保町「響」と、どちらもジャズ喫茶でアルバイトをしていた。村上春樹はジャズ好きが高じて、早稲田大学在学中の一九七二年に国分寺南口でジャズ喫茶「ピーター・キャット」(のち千駄ヶ谷へ移転)をオープンさせる」。

 並べてみれば驚くような偶然で、同じ二〇二一年に、村上の原作で『ドライブ・マイ・カー』、佐藤の原作で『草の響き』が公開されることも、ここにつけくわえたくなる。境涯の共通点については、当時の若者、特に小説に関心を持つような若者の、これがひとつの典型であったと見ることもできるであろうが、このあとで岡崎が披露する想像が、またたまらなく魅力的だ。「そこで考える。ジャズ好きの佐藤が、村上の「ピーター・キャット」へ行ったことはなかったろうか、と。この妄想は、同じ国分寺在住の私を刺激する」。

 ひょっとすると、同じ場所に居合わせたことがあったかもしれない。そう思わせる関係であるということが、まさに、同時代人であるということだ。岡崎はさらにこれに続けて、「しかし二人はおそらく言葉を交わしたこともないだろうし、やっぱりどこかが決定的に違うのだ」という。しかし、村上と佐藤が、同じレコードに耳をすませて、黙ってビールを飲んでいる場面を想像するのは、楽しい。菅は、そこにはいなかっただろう。いや、いてもいいだろうか。

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