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雑記(四一)

 映画『ドライブ・マイ・カー』の原作は、村上春樹の同名小説である。ただし、同作を収める短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)の、別の作品の要素も、部分的にとりいれられている。さらに、映画独自の試みもあって、映画の内容は新鮮なものになっている。主演は西島秀俊、三浦透子、監督は濱口竜介。脚本は濱口と大江崇允、撮影は四宮秀俊。

『ドライブ・マイ・カー』の日本公開が今年の八月二十日、翌々月の十月八日には、佐藤泰志の小説を映画化した『草の響き』が公開された。主演は東出昌大、奈緒、監督は斎藤久志。脚本は加瀬仁美、撮影は石井勲。

 村上春樹と佐藤泰志は、ともに一九四九年生まれ。そのほかにも、驚くほど共通点を感じさせる二人だが、近い時期に公開された二本の映画もまた、多くの共通点を感じさせた。『ドライブ・マイ・カー』の終盤には、他人の心をしっかりのぞき込むことはできない、という台詞が出てくる。それとほとんど同じことを、『草の響き』の東出昌大も口にする。いずれも、映画全体にとって大きな意味を持つ言葉だ。

 小説の「ドライブ・マイ・カー」では、妻を亡くした俳優の家福という男が、渡みさきという運転手を雇う。「家福」には「かふく」とルビが付いている。家福は、かつて妻と関係を持っていた若い俳優の高槻と、一緒に酒を飲む仲になる。これらの人間関係は、映画にもそのまま登場する。家福を西島、渡を三浦が演じ、家福の亡き妻は霧島れいか、高槻は岡田将生。

 映画は、ベッドの上の霧島と西島が、ともに裸で言葉を交わしている場面から始まる。窓の外が明るく見えて、霧島の上半身が逆光で浮かび上がるショットが印象的だ。霧島は西島に、自作とおぼしい物語を語り聞かせている。ある女子高校生が、同級生の男子に思いを寄せ、彼の家に空き巣に入る。家族全員が留守の時間を調べ、鍵の隠し場所を探りあて、難なく彼の部屋に忍びこむことに成功する。

 これは、小説の「ドライブ・マイ・カー」にはない場面で、『女のいない男たち』の四番目に入っている短編「シェエラザード」の設定を借りているらしい。同作では、羽原という男の家を訪れて家事の手伝いをする三十代の主婦が、羽原と性交した後、ベッドで物語を聞かせることになっていた。羽原には「はばら」とルビがある。女子高校生の空き巣の話も出てくる。

 また、映画には、仕事の予定が変更になって自宅へ戻って来た家福が、妻と高槻が性交している現場を目撃してしまう場面がある。家福は何も言わず、二人に気づかれないように静かに部屋を出る。これも、「ドライブ・マイ・カー」にはない場面だが、短編集の五つ目の「木野」の、妻の不倫の現場を見てしまった男の様子を思わせる。

「木野」では、まさに木野という男が、大学を卒業してから十七年間勤めた会社を辞めて、バーを開業する。「木野」のルビは「きの」。会社を辞めるきっかけになったのは、木野の妻が、木野が会社で最も親しくしていた同僚と関係を持っていたと判明したことだった。木野が、出張から一日早く帰宅したときのことだ。

「彼は旅先から直接葛西のマンションに戻り、妻とその男が裸でベッドに入っているのを目にした。彼の家の寝室で、夫婦がいつも寝ているベッドで、二人は重なり合っていた。そこに誤解の入り込む余地はなかった。妻がしゃがみ込むような格好で上になっていたので、ドアを開けた木野は、彼女と顔を合わせることになった。彼女の形の良い乳房が上下に大きく揺れているのが見えた。彼はそのとき三十九歳、妻は三十五歳だった。子供はいない。木野は顔を伏せ、寝室のドアを閉め、一週間分の洗濯物が詰まった旅行バッグを肩にかけたまま家を出て、二度と戻らなかった。そして翌日、会社に退職届を出した」。

 映画を観ながら、「木野」を思い出した。だから、西島は、岡田の肩越しに、霧島と目が合ってしまうのではないか、と思った。修羅場を想像して背筋が冷えた。しかし、そうはならなかった。村上の小説を断片的に思い出しながら観ても、スリリングな映画だった。

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