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雑記(四六)

 日本語は、最後まで聞かないと主張がはっきりわからない、と言われることがある。たとえば、「私はそう思います」なのか、「私はそう思いません」なのか、文末まできちんと聞かないと、賛成か反対かわからない。それに比べて英語は、否定を意味するnotが先に出てくるので、賛成かと思ったら反対だった、なんてことはない、というわけである。

 司馬遼太郎は、「日韓断想」という文章のはじめに「私、あす叔母の家にゆきます」という文を例にあげて、「こんなへんな(?)語順をもつ言葉が、私ども(朝鮮人や日本人。以下同じ)が使っているウラル・アルタイ語である」という(『以下、無用のことながら』文春文庫)。

 一方で、「中国語や英語、フランス語」はそれとは違っていて、「単語がレンガのようにできていて、文章がレンガ積みのようになっている」。そして、「レンガ積みの構造物が力学を無視すれば成立しないように、中国語やインド・ヨーロッパ語は上等な表現でいうと、論理そのものといっていい」という。

「その点、私どもの言葉はハリガネ細工のようにくねくねしていて、構造として論理的ではない。「私、あす、叔母の家に行っちゃうわよ」といえばヒステリックになって家出でもしそうなことばになる。さらには、意志表現が、最後にくる。「あす、叔母の家に行き……」とまでいってからしばらく考えて、「ません」ということもできる。まっすぐなハリガネをにわかに曲げるようなものである。レンガ積み構造ではないから、文章が瓦解するわけではない」。

 それから司馬は、これらの言葉が情緒的な傾向を持つことに触れて、次のようにこの文章の前置き部分を結ぶ。「以下、こんな話をつづけたい。もっとも思いつくままだから、話が、ハリガネ細工のようにとんでもない方角にまがってゆくかもしれない」。

 ところで、夏目漱石が、一九八五年に勤務先の愛媛県尋常中学校の校友会雑誌に寄せた文章「愚見数則」は、最初にこうある。『定本漱石全集』第十六巻(岩波書店)から引く。

「理事来つて何か論説を書けと云ふ、余此頃脳中払底、諸子に示すべき事なし、然し是非に書けとならば仕方なし、何か書くべし、但し御世辞は嫌ひなり、時々は気に入らぬ事あるべし、又思ひ出す事を其儘書き連ぬる故、箇条書の如くにて少しも面白かるまじ、但し文章は飴細工の如きものなり、延ばせばいくらでも延る、其代りに正味は減るものと知るべし」。

 司馬はウラル・アルタイ語の特徴を「ハリガネ細工」にたとえ、自分の文章も同様の特徴を持つと言った。思いがけない方向に曲がってゆきうる、というのが、その意味であろう。それに対して、漱石は文章を「飴細工」にたとえる。「延ばせばいくらでも延る」というのは、短い言葉でも言い得ることも、長大な文章に書こうと思えば、際限なく長くなるということであろう。

 両者の比喩の意味するところは、やや異なる。しかしいずれも、文章を「細工」にたとえ、さらに、自分の発する言葉を、自分自身の意図とはひとまず別のものとしてとらえているらしい点が、興味ぶかい。司馬が漱石を読んでいなかったはずはない。ここは、漱石の言語観が司馬に受け継がれた証拠と見るべきである。

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