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雑記(二七)

 慶応四年、すなわち一八六八年の一月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が薩長に敗れると、大阪城にいた徳川慶喜は、開陽丸で江戸に向かった。それが六日。七日には慶喜を追討せよとの命令が出た。半藤一利『幕末史』(新潮社)によると、「九日、討幕軍(西軍)は気負いこんで、逃げ出して誰も手向かう奴がいなくなった大阪城を占領しますが、打ち込んだ大砲で火災が起きて、城は翌日まで燃えていたそうです」。

 さらにそのあと、意外な話が出ていた。「じつはこの時、燃えている大阪城から逃げ出した人たちのなかに、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎がいました。この人は慶応三年十二月二十四日生まれですのでまだほんの赤ちゃんです。千葉県と茨城県の境にある関宿藩の代官の息子で、親父さんが大阪に赴任中に生まれたわけです」。

 鈴木貫太郎はのちに海軍の軍人になり、侍従長になる。一九三六年には侍従長邸で二・二六事件の襲撃に遭っている。このときすでに七十に近い高齢であった。銃弾を撃ち込まれたが一命をとりとめ、一九四五年に首相になり、一九四八年に没している。新時代の前夜に生を得て、敗戦から三年後に没したのである。

 半藤によると、夏目漱石、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉も同じ年の生まれである。子規も紅葉も明治のうちに没し、漱石も一九一六年、大正五年までしか生きられなかった。幸田露伴は一九四七年まで生きているから、鈴木と幸田の生涯の期間はほとんどぴったりかさなる。

 二・二六事件のときに鈴木の襲撃を指揮したのが安藤輝三で、安藤は昭和天皇の弟の秩父宮と個人的な交際があった。だから、事件に関わった十四名とともに銃殺刑に処された際、他の者たちは「昭和天皇万歳」と叫んだが、安藤だけは「秩父宮殿下万歳」と叫んだとも言われる。

 しかし、保阪正康が「処刑を担当した佐倉連隊の元少佐」に取材すると、十五名のうちただ一人「秩父宮万歳」を口にしたのは、安藤輝三ではなく、栗原安秀だったという証言が出てきた(『秩父宮と昭和天皇』文藝春秋)。「たしかに十五人は、全員が、『天皇陛下万歳』と叫んで射たれていった。しかし、ただひとり『秩父宮万歳』とつけ加えた者もいた。それは安藤ではない。……歩一の栗原安秀だった」。

 保阪は書く。「射手の指揮をとった元少佐は、そのことを誰にも語らないかわりに、二・二六事件に関する書もまた読まない。「怖い」という。だから、安藤が「秩父宮万歳」と叫んだという説が流布していることは知らない。私が、その説をいくつか紹介していくと、むしろそういう説が流布しているほうが不思議だ、と首をひねった」。

 事件に関する書物を読まないということは、磯部浅一の遺書も、当時の刑務所長であったという塚本定吉の手記も目にしていないということであろう。ということは、そのときの記憶は、外部的な情報によって改変を加えられもしなかったかわりに、適切な修正も与えられず、むしろ極端な内容になってしまっているとも考えられようか。

 保阪は話をもとに、処刑の状況を再現してゆく。「十五人は五人ずつ三組に分かれた。安藤と栗原は第一組であった。五人が横一列に並んだなかで、左から二番目に安藤が、右端に栗原が正座をさせられて座った。ふたりの間には竹島継夫と対馬勝雄がはさまれていたが、安藤と栗原の距離は五メートルほどであった。五人とも目かくしをされていた。射手の合図がある前から「天皇陛下万歳」の声が聞こえた」。

 前述のように、全員が「天皇陛下万歳」を言い、さらに栗原だけが「秩父宮殿下万歳」と言ったのだとすれば、安藤も対馬も栗原も、「天皇陛下万歳」とは言ったことになる。この「第一組」の全員が「天皇陛下万歳」を言っていたはずである。

 一方で、磯部浅一は「相沢中佐、対馬は 天皇陛下万歳と云ひて銃殺された」、「安藤はチチブ宮殿の万歳を祈つて死んだ」と書いていた(河野司編『二・二六事件ー獄中手記・遺書』河出書房新社)。磯部は処刑の現場を目にしていたわけではないが、この書きぶりだと、処刑された十五名のうち、対馬は「天皇陛下万歳」、安藤は「秩父宮殿下万歳」と言ったように読める。「相沢」は二・二六事件の前年に永田鉄山を斬殺した相沢三郎のことで、同日の話ではない。すくなくともここから、全員が「天皇陛下万歳」を言ったという状況を読みとるのは難しい。この「対馬は」という箇所は、「対馬らは」の意味として読んでおけばよいのだろうか。
 

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